2017-10

『機動戦士ガンダム』第18話の感想

『機動戦士ガンダム』第18話の感想


 『機動戦士ガンダム』という商品は、スポンサー側にとっては“小学生を顧客の中心に据えたロボットアニメ”であるが、作品的には“人型兵器が登場する戦争ドラマ”である。少なくとも、当時の富野監督にはそういう製作意図があった。

 『機動戦士ガンダム』で描かれている戦争は、人間同士の戦争であり、人間の歴史の延長上に存在し得るものである。連邦とジオンのどちからが悪で、どちらかが正義ということはない。利害が対立する両陣営が、戦争という最悪の外交を展開しているだけなのだ。

 敢えて言うならば…
 ジオン側からすれば、ジオンの独立を認めようとしない連邦は悪であり、
 連邦側からすれば、連邦から独立しようとするジオンは悪である。
 それは、双方の権力の頂点付近にいる人間達の見解であり、それに基づく政策なのだ。
 一般市民は、政府が戦争を始めたら、それに従うしかない。

 アムロ達は、地球連邦に属する市民であるから、ジオン軍と戦うことになった。もしアムロ達がジオンの国民だったら、地球連邦軍と戦っていただろう。つまり人々は、戦争が始まれば、単に自分の置かれた立場の違いで殺し合いをするのである。

 今回のナレーションは、ガンダムがそれまでのアニメとは決定的に異なる作品であることを、駄目押ししている。

「(ガンダムの空中換装の訓練シーンを背景に)…ホワイトベースを脱走したアムロには、こんな訓練をすることもないのかも知れない。
 一方、月にあるジオン公国の前進基地グラナダから、戦艦グワジンが発進した。ザビ家の長女、即ちジオン軍宇宙攻撃軍総司令、キシリア・ザビ少将の旗艦である。
 キシリアは、地球連邦軍にとってもジオン軍にとっても、最も重要である資源の発掘に当たっているマ・クベの元を訪れようとしていた。
 戦いは、ホワイトベースとは関係なく進んでいた」

 最後の一節を耳にして、放送当時中学1年生だった自分が衝撃を受けたことを、今でもハッキリと覚えている。「主人公達の存在が、物語全体の流れとは無関係である」ということを、ナレーションが明言したのである。
 私は小学1年生のときに『マジンガーZ』を観て以来、ロボットアニメにどっぷり浸かって生きつつも、同時にフレドリック・ブラウンからSF小説の世界に入っていったことで、より完成度の高い世界があることを知っていた。そんな私にとって、「ロボットアニメも遂にここまで来たか!」と、深い感慨を覚えたものだ。

             第18話 灼熱のアッザム・リーダー

 今回は、『アムロ脱走』と『ランバ・ラル特攻!』の間を埋める、言うなれば繋ぎの話である。前回とは違ってランバ・ラルは登場せず、当然グフも登場しない。それどころかガンダム以外は一切モビルスーツが登場しないという、表面的にはかなり地味な内容になっている。
 しかし、その一見地味なこのエピソードが、非常に効果的と言うか効率の良い一遍になっている。色々な要素がバランス良く詰め込まれており、本当に完成度が高い。

(1)戦争ドラマにおける、戦略面が描かれている…
 キシリアとマ・クベとの間で、資源を押えることが戦争を勝利に導き、その後の支配においても要となることが語られる。
 この戦争は、ジオンの独立戦争であると同時に、資源を奪い合う戦争でもあるということだ。これは、かつて日本が太平洋戦争で唱えた「アジアの独立」と「日本にとって必須となる資源の確保」と全く同じ構図であり、正に戦争の典型である。
 社会を存続させるために必須となる資源の確保無くては、独立は有りない。この戦争が、持つ者(地球連邦)と持たざる者(ジオン)との争いであることが、ここでも明確になっている。

(2)戦争ドラマにおける、“少年が成長し、苦悩する姿”が描かれている…
 一時はガンダムに乗って戦うことを拒否して自室に引き篭もっていたアムロが、今度はガンダムに乗ることを否定されたことでホワイトベースから脱走するという、正反対の行動を取った。ガンダムで戦うことが、いつの間にかアムロ自身のアイディンティティになっていたのだ。生き延びるための手段であったものが、生きる証(自己の存在理由)と化してしまう。これこそが本当の“ガンダムバカ”である。
 キシリアとマ・クベの会話を盗聴したアムロは、偶然見つけた目の前の基地をオデッサ作戦における最重要目標だと早とちりして、単独で攻撃を仕掛ける。戦いに勝利して英雄気分に浸ったのもつかの間、自分の認識の甘さを思い知らされることになるのだった。

(3)戦争ドラマにおける、“少年が成長し、苦悩する姿”を、別の場所から見つめる第三者が描かれている…
 これが(2)と対になって描かれることで、ドラマが本物になる。
「アムロ、今ごろ英雄気取りでしょうね」
とセイラがホワイトベースのブリッジで呟いていたとき、アムロは既に自分の愚かさに気付いてその場から逃げ出していた。この時間差、温度差のある心理描写の対比が、よりアムロの苦悩を浮き彫りにする。
 一方、アムロとの関係が薄い人間は、より突き放した感情を吐露している。アムロの脱走によって足止めを喰らっているホワイトベースの中、アムロと同世代の、名も無きクルー達(一人はジョブ・ジョンと思われる)が、
「(脱走したアムロが)ジオンに寝返るってことはねぇだろうな?」
「いやぁ、有り得るぜ。ガンダム手土産に持ってきゃ、英雄扱いだ」
と愚痴をこぼしながら作業をしている姿からは、“現場”のリアルな空気が伝わってくる。
 このように、一つの事象を複数の視点から描くことで、虚構に立体感が、即ちリアリティが生まれるのである。

(4)戦っている相手は、普通の人間であることが描かれている…
 爆破された基地に、生き残りである若い兵士が一人、彼の母親と思われる写真を見詰めながら横たわっている。ここから始まる一連のシーンによって、戦争ドラマの雰囲気がより強く醸し出されている。こういう小さな演出が、作品の雰囲気を引き締める。


 マ・クベと言えば、ギャンのイメージが強いが、実はその前にアッザムに乗り込んでガンダムと直接対決を果たしている。アッザムのデザインは、ずーっと“紫の栗きんとん”だと思っていたが、今回見直してみたらマ・クベ繋がりで何だか壺っぽく見えた。
 機体の色が、キシリアカラーであることも、今まで見落としていた。ちなみに、キシリアは後になってガンダムに拘りを抱いている(あるいは因縁がある)ようにも見えてくるのだが、それはこのときの直接対決から始まっていると言えなくもない。

 冒頭で「ガンダム以外は一切モビルスーツが登場しない地味な内容」と書いたが、ガンダムとアッザムの戦闘シーンは、ディディールが結構凝っていて見応えがある。
 最新作『ガンダム00』でもオマージュが登場したアッザムリーダーや、同ハロにも繋がる“突然喋りだすガンダム内臓コンピュータ”はもちろんだが、ここではもっと細かいことに触れておきたい。
 それは、アッザムが着地した際に、着陸脚のダンパー(ショックアブソーバー)が作動したり、横移動で逃げるアッザムを追うために、ガンダムのランドセルのノズルがジンバリングする描写である。こういう細かいパーツ描写の積み重ねが、メカニック全体のリアリティとなるのだ。

 やっぱり、ファーストガンダムは細かいところまで良く出来ている。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://sinden.blog6.fc2.com/tb.php/923-fa291d61

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

震電

震電

 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。