2017-03

『ガンダムOO』TVシリーズ終了、その全体の感想

『ガンダム00』TVシリーズ終了、その全体の感想


 結論から言えば、初代の『機動戦士ガンダム』はもちろん、『機動戦士ガンダムSEED』にも届かない内容の作品だった。ガンダムシリーズの一つとして世に出すほどの完成度があった作品とは思えない。“機動戦士”という肩書きが付けられていたので、正統派のガンダムシリーズになることを期待していたのだが、非常に残念な結果に終わったと言わざるを得ない。

このブログでも、
 『ガンダム00』の、ここがダメだからこう変えろ(その4)
他、何度も『ガンダム00』のダメな点を指摘してきた。ちなみに最初に書いた批判記事は、
 『ガンダム00』 第1話を観たけれど
である。

 TVシリーズが終了した今、『ガンダム00』の最大の欠点は「戦争を描かなかったこと」だと言える。私は、「戦争を描かないのならガンダムである必要は無い(SDガンダムのような特殊な作品は除く)」と考えているので、この観点から『ガンダム00』には最低の評価を下す。
 『ガンダム00』は、イノベイター(イノベイド)という黒幕を登場させたことで、戦争を描くことを放棄してしまっている。戦争のリアリティと向かい合うことから逃げたのだ。

 その昔、日本国内では、日本人同士による戦争が行われていた。
 今から約68年前の1941年12月、日本は第二次世界大戦に参戦し、1945年に無条件降伏するまで、戦争を継続していた(太平洋戦争)。
 そして最近では、2003年に始まったイラク戦争。アメリカによる傀儡政権樹立に至るも、今なお多数のアメリカ兵が駐留しており、平和とは程遠い状態にある。イスラエル・パレスチナ紛争はいつ終わるとも知れず、“世界の歪み”は我々の世界に歴然と存在している。

 『ガンダム00』は、そういった“世界の歪み”というリアルなテーマを作品の主軸に据えながら、イノベイター(イノベイド)やヴェーダという全くリアリティのない設定を持ち出して、それが“世界の歪み”の根本原因であるとする描き方をした。
 これでは、戦争を描いたことにはならない。
 現実の世界では、イノベイター(イノベイド)やヴェーダなど存在しなくても、戦争が起こっているではないか。
 幾らフィクションであっても、核心となる部分において、ここまで現実から眼を逸らした(現実から逃げた)設定をしてしまっては、もはやそれは戦争ドラマではない。

 腐女子的要素は1期の方が酷かったが、ご都合主義は2期の方が酷かった。
 1期の、まだ擬似GNドライウが登場していない段階でも、4機のガンダムは敵の物量作戦の前に事実上の敗北を喫している。その後、擬似GNドライヴ搭載型の登場によってガンダムは相対的に大幅な弱体化を余儀なくされ、CBは一旦全滅させられてしまう。
 2期では新型のガンダムが登場したわけだが、連邦の擬似GNドライヴ搭載型の機体との性能差は、1期の終盤とほぼ同様。ガンダムに、圧倒的物量差を覆すだけの優位性はない。だから、再び擬似GNドライヴ搭載型による物量作戦を行えば、CBの全滅は確実である。
 それが、戦争ドラマのリアリティというものだ。

 そして、そういう展開にならないような整合性のある展開を見せるのもまた、戦争ドラマのリアリティである。しかし、『ガンダム00』2期には、それがなかった。

 イノベイター(イノベイド)やヴェーダがそれを望まなかったから、あるいはイノベイター(イノベイド)やヴェーダがバカだったからそうしなかったと言えば、それで済むのかも知れない。
 しかしそれは、ご都合主義というものである。
 どんな不自然で矛盾した展開でも、「イノベイター(イノベイド)あるいはヴェーダの意思」を持ち出すことで正当化する、そんな類のことは幼稚園児でも出来る。これは説明などではなく、自分の作った便利な設定に全ての責任を転嫁しているだけであり、思考停止に他ならない。創作としては、最も低級である。

 『ガンダム00』1期は、互いに対立して紛争を引き起こしていた三大勢力が、CBに対抗するため統一に向かっていく過程を、曲がりなりにも描いていた。いわゆるパワーバランスを主とする戦争ドラマの体裁を不完全ながらも有していた。
 『ガンダム00』2期も、パワーバランスを主とする戦争ドラマにすることは可能だった。カタロン・連邦内反乱軍・CBが、アロウズに対抗する勢力として存在し、最初からパワーバランスが取れていれば、復活したCBに対して連邦軍が一気に物量作戦に出ることが出来ないことを説明できる。

 この状況には、イノベイター(イノベイド)は不要などころか、むしろ邪魔になる。
 そして、ヴェーダなどない方が、情報操作の実態をリアルに描写できる。
 戦争は、世界の歪みは、イノベイター(イノベイド)などではなく人類自身が生み出しているという当たり前の設定にすれば、『ガンダム00』も戦争ドラマとして、ガンダムシリーズたり得る最低限度の完成度に達していたのではないか。裏を返せば、リアリティのある戦争ドラマは、リアリティのある状況設定から生み出されるということだ。

 戦争や紛争は、なぜ起こるのか。
 石油、鉱物資源、海洋資源、あるいはそれらを含む領土、領海といった物理的なもの。
 宗教、イデオロギー、民族独立といった精神的なもの。
 中学生なら、例え表面的であっても、この程度のことは認識できる筈だ。
 なぜ『ガンダム00』は、こうしたテーマを見かけ上扱っておきながら、正面から描こうとしなかったのか? 本当に残念である。

 戦争が描けていないこと以外にも、『ガンダム00』に対する不満を挙げれば、枚挙に暇がない。それに関しては過去の記事で既に書いたので、ここでは「キャラクターを出し過ぎたことよる、物語のリソース浪費が酷かった」と記しておく。特に終盤、出し過ぎた登場人物の処理に追われた雑な展開になっていたのは、誰の眼にも明らかだろう。

 個人的には、アロウズはティターンズだし、トランザムはV-MAXだし、トランザムライザーソードはイデオンソードだし、設定や映像がサンライズ旧作品の焼き直しであることも気になった。同時に、“機体の粒子化”や“全裸で交信”といった新趣向(全裸はイデオンの映画版でも有ったが)には首を傾げざるを得なかった。
 評価できるのは、モビルスーツ戦がビーム合戦主体でなく、バリエーションに富んでいたことぐらいである。

 最後に、『機動戦士ガンダム』と『ガンダム00』の決定的な差、根本的な違いを、感覚的に表現しておく。
 『機動戦士ガンダム』では、その物語の中に入り込んで、その虚構の現場における歴史の目撃者になれた。
 それに対し『ガンダム00』では、TVという画面の外から映像を眺めている第三者にしかなれなかった。

 結局のところ、『ガンダム00』の視聴者は、画面に映っているキャラなりモビルスーツを、遊び道具として画面から切り出すという楽しみ方しか出来ていないのではないか。
 ファーストガンダムが、『機動戦士ガンダム』という別の世界に没入できるような造りになっていることとは、余りにも対照的である。

 そこにある虚構の内側に、自分自身が入り込む感覚。
 画面に映っているパーツを切り取り、自分の脳内に取り込んで遊ぶという感覚。
 この差は、大きい。

 『ガンダム00』が存在し得たのは、30年前、主に中学生男子が『機動戦士ガンダム』に夢中になれたからである。『ガンダム00』は、今の中学生男子を夢中にすることが出来たのだろうか?
 30年前は中学生だった私が、今そんな風に思ったりするのは、少し切ないものがある。
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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。