『HINOKIO』
『HINOKIO』
2005年の映画館で観た映画:16本目
映画を観た日:2005年7月31日(日)
ヒノキオのVFXは特筆に価する。
単純に質ということのみに注目すれば、ヒノキオのVFXは、『スターウォーズ』に登場するあらゆるキャラクターのVFXを上回っている(これは飽くまでもキャラクターの話である。モンスターが踏み潰した自動車のVFXが本物と勘違いするほどリアルだったとか、そういう類は対象外である)。
とにかくヒノキオのCGは、パッと見ではCGかプロップ(現実の造形物)なのか分からない。特に、プロップからCGに切り替わった瞬間を正確に見極めるのは相当難しい。VFX作品を見慣れている私でも、「この動き(演技)はプロップでは出来ないから、CGなんだろうな」という、いわゆる状況証拠から判断することの方が多かった。
ドラマ自体は普通の「学校もの」ジュヴナイルであり、「パーガトリー(煉獄)」というオンラインゲームを狂言回しに使っていることに少々今風を感じるくらいだ。その使い方も、ゲームジャンキーになった健太が現実に復帰できた経緯を全く描かないなど、ご都合主義的な側面が目立つ。
スミレがHPのプリントアウトを何枚か掲げただけで、クラスメート全員が一斉にヒノキオを糾弾し始めるのも不自然な描写だった。あんな風にプリントアウトを掲げたって、正面にいる2、3人くらいしか視認できないし、その彼らだって唐突に紙ペラ見せられただけでは、せいぜい「ホントかよ~」といったリアクションを示す程度だろう。あの場面では、全員が端末でそのHPを見るようにスミレが誘導して、クラスメート自身に「ヒノキオは戦闘ロボット」という情報を確認させるべきだった。
また、親子の実質的な和解を、死後の世界(臨死体験中の夢)で終わらせてしまったのも物語を弱くしている。飽くまでも、現実世界の問題は現実世界で決着を着けるべきだった。ヒノキオが母親のの日記か音声メッセージを見つけて、父親との関係を見直すとか…(電車に撥ねられるのは事故にする)。
ジュンが煙突に登るシーンも、物語に相応しくなかった。直前に、健太がゲームから簡単に現実復帰できたような描写があるので、「パーガトリー(煉獄)」というオンラインゲームに物語を動かす説得力が感じられないのだ。このゲームとサトルの関わりも曖昧なので、ゲームと同じ事をすればサトルが「帰ってくる」という実感も弱い。ゲームをご都合主義的に使ってきたツケが、クライマックスに出てしまっていた。
中途半端は、弱い。生きるか死ぬかのクライマックスにおける行動は、強い根拠(モチベーション・動機付け)が必要だ。信念や覚悟というものは、しっかりと納得できる裏付けがなければ成り立たない。キャラクターの行動の説得力とは、そういうものである。
『HINOKIO』のクライマックスには、二つのパターンが考えられる。一つは、ゲームと現実世界のサトルとのリンクをもっと強く描いた上で、ジュンがゲームの仮想現実に没入してサトルを救い出す。もう一つは、ジュンが(ゲームとは全く関係のない)現実世界の障害を克服してサトルの傍に駆けつけ、彼の手を握ってこの世へと呼び戻す。テーマと呼ぶほどではないが、この映画には「バーチャルリアリティからの脱却」が描かれているので、より相応しいのは後者だろう。
15歳前後の役者たちは、ちょっと小学生には見えなかったものの、演技力でカバーしていて、それほど気にならなかった。監督ともども、今後の活躍に期待したい。
2005年の映画館で観た映画:16本目
映画を観た日:2005年7月31日(日)
ヒノキオのVFXは特筆に価する。
単純に質ということのみに注目すれば、ヒノキオのVFXは、『スターウォーズ』に登場するあらゆるキャラクターのVFXを上回っている(これは飽くまでもキャラクターの話である。モンスターが踏み潰した自動車のVFXが本物と勘違いするほどリアルだったとか、そういう類は対象外である)。
とにかくヒノキオのCGは、パッと見ではCGかプロップ(現実の造形物)なのか分からない。特に、プロップからCGに切り替わった瞬間を正確に見極めるのは相当難しい。VFX作品を見慣れている私でも、「この動き(演技)はプロップでは出来ないから、CGなんだろうな」という、いわゆる状況証拠から判断することの方が多かった。
ドラマ自体は普通の「学校もの」ジュヴナイルであり、「パーガトリー(煉獄)」というオンラインゲームを狂言回しに使っていることに少々今風を感じるくらいだ。その使い方も、ゲームジャンキーになった健太が現実に復帰できた経緯を全く描かないなど、ご都合主義的な側面が目立つ。
スミレがHPのプリントアウトを何枚か掲げただけで、クラスメート全員が一斉にヒノキオを糾弾し始めるのも不自然な描写だった。あんな風にプリントアウトを掲げたって、正面にいる2、3人くらいしか視認できないし、その彼らだって唐突に紙ペラ見せられただけでは、せいぜい「ホントかよ~」といったリアクションを示す程度だろう。あの場面では、全員が端末でそのHPを見るようにスミレが誘導して、クラスメート自身に「ヒノキオは戦闘ロボット」という情報を確認させるべきだった。
また、親子の実質的な和解を、死後の世界(臨死体験中の夢)で終わらせてしまったのも物語を弱くしている。飽くまでも、現実世界の問題は現実世界で決着を着けるべきだった。ヒノキオが母親のの日記か音声メッセージを見つけて、父親との関係を見直すとか…(電車に撥ねられるのは事故にする)。
ジュンが煙突に登るシーンも、物語に相応しくなかった。直前に、健太がゲームから簡単に現実復帰できたような描写があるので、「パーガトリー(煉獄)」というオンラインゲームに物語を動かす説得力が感じられないのだ。このゲームとサトルの関わりも曖昧なので、ゲームと同じ事をすればサトルが「帰ってくる」という実感も弱い。ゲームをご都合主義的に使ってきたツケが、クライマックスに出てしまっていた。
中途半端は、弱い。生きるか死ぬかのクライマックスにおける行動は、強い根拠(モチベーション・動機付け)が必要だ。信念や覚悟というものは、しっかりと納得できる裏付けがなければ成り立たない。キャラクターの行動の説得力とは、そういうものである。
『HINOKIO』のクライマックスには、二つのパターンが考えられる。一つは、ゲームと現実世界のサトルとのリンクをもっと強く描いた上で、ジュンがゲームの仮想現実に没入してサトルを救い出す。もう一つは、ジュンが(ゲームとは全く関係のない)現実世界の障害を克服してサトルの傍に駆けつけ、彼の手を握ってこの世へと呼び戻す。テーマと呼ぶほどではないが、この映画には「バーチャルリアリティからの脱却」が描かれているので、より相応しいのは後者だろう。
15歳前後の役者たちは、ちょっと小学生には見えなかったものの、演技力でカバーしていて、それほど気にならなかった。監督ともども、今後の活躍に期待したい。
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