2017-08

『機動戦士ガンダム』第13話の感想 ~ ついでに『ガンダムOO』も ~

『機動戦士ガンダム』第13話の感想
 ~ ついでに『ガンダム00』も ~


 30年前、ファーストガンダムが放送されていた当時、視聴環境で今より確実に良かったことが一つある。それは、「ネタばれが、ほぼ100%なかった」ことだ。
 あの当時、第12話放送前に「ジオンの新型モビルスール“グフ”が登場する」という情報を知っていた視聴者が、果たしてどの程度存在していただろうか? 中学生視聴者の場合は、限りなくゼロに近かったと思う。

 何故なら、そういったネタばれ情報は、一般の中学生が目にするようなメディアには一切載っていなかったからである。(言うまでもないが、当時の日本にはインターネットのイの字もない。ビデオデッキですら、まだ一般家庭には普及していなかった時代なのだ)
 今になって思えば、当時の『テレビマガジン』等の児童誌には、「これが新モビルスーツ グフだ!」みたいなネタばれ情報が掲載されていたかも知れない。しかし、中学生はとっくに『テレビマガジン』からは卒業しており、眼中になかった筈だ。

 当時のアニメファンにとって、アニメ情報は『OUT』から始まった…と思う。アニメをまともに取り扱ったメディアは『OUT』が日本初で、暫くは唯一の存在だったのではないか。ちなみに、アニメの記事を載せ始めても、『OUT』は暫くの間“総合サブカル誌”という感じの内容だったように記憶している。だから、当時中学生だった私にとっては、ちょっとオトナな雰囲気がする雑誌だった。それが徐々に、アニメに特化した構成になっていったのだ。

 その次が『アニメック』である。『アニメック』というだけあって、こちらは最初からアニメに特化した正統派アニメ雑誌だった。『OUT』は設定資料をキッチリと載せるというタイプの雑誌ではなかったので、その意味で『アニメック』は王道を行く誌面構成だった。多分、今でも私の実家にはかなりの冊数の『アニメック』が段ボール箱の中で眠っている。

 『OUT』にしろ『アニメック』にしろ、ファーストガンダムに関しては放送に先行した情報を一切載せていなかった(載せることが出来なかった?)。2誌を毎月読んでいて、ネタばれしていたという記憶が全くないのだ。
 だから私は、アムロやリュウがグフを初めて見て驚いていたのと全く同じ感覚で、TV画面の中のグフを見ていた。当時のスポンサーはバンダイではなく、玩具CMによって本編未登場のメカがネタばれするということもなかった。
 これは、本当に幸せなことだったと思う。
 今では、どんなに注意していても、当時のように「100%ネタばれ無し」という状態を維持することは、ほぼ不可能であろうから。

                  第13話 再会、母よ…

 DVDは四巻目に突入、TVシリーズは1クールが終了。
 ガルマが指揮する部隊による包囲網をどうにか突破し、イセリナの乗ったガウ部隊の追撃をかわし、ランバ・ラルの部隊との遭遇を経て、ジオンの勢力の及ばない海上へと出たホワイトベース。
 前回までの緊迫した状況とは打って変わって、いきなりリゾートな雰囲気で話が始まる。

「太陽の光が一箇所から来るって、わざとらしいわね」
「でも、これが自然というものなのねぇ~」

 このセイラとミライの会話は、完全にSFである(元ネタはあるのかなぁ、私は知らんけど)。放送当時、これらの台詞の意味(真意)が理解できた視聴者は半数以下、おそらく4分の1以下だったと思う。
 私は小学生の頃からSFファンであり(図書館に置いてあるいわゆる少年向けSFを読んだり、星新一、フレドリック・ブラウンといった短編SFを読んでいた)、ガンダムが始まる前からオニールのスペースコロニーを本か雑誌で見て知っていたので、この会話を聞いて「おお~SFだ」と軽い驚きを感じた。
 それまでは、有線ミサイルが登場したり、バルカン砲が弾丸切れを起こしたりと、ガジェットの面ではリアルだと感じていたが、ガンダムの劇中において感性に訴えるレベルでSFを感じたのはこれが初めてである。導入部で繰り返し観た“コロニー落とし”も、「アイディアとしては面白いが、コロニーが形を保ったまま地表に激突するという絵はいかにも嘘っぽい」とか思っていたし…

 今回は、親子の再会、そして断絶という形での別れを描いた一遍である。
 それは同時に、戦争全体の小さな一部分を切り取って描いた、戦場の物語でもある。

 アムロの故郷は、戦略的な意味を持たない一地方である。そんな地方ではあるが、ジオン軍が小規模な前進基地を造っており、その占領下にあった。撤退出来ずに取り残されたこの地域の連邦軍部隊は、連邦本部から見捨てられている。実戦能力も利用価値も喪失した彼らを、ジオン軍は捕虜にしようとすらしない。
 味方からも敵からも無視される形となった連邦軍の軍人達は、愚連隊のような存在に成り下がってしまっている。連邦イコール正義ではないことが、ここでも描かれている。

 同時に、占領しているジオン軍もまた正義ではない。しかし、アムロに拳銃で撃たれたジオン兵を、占領されている側の連邦市民が医者を呼んで助けようとする場面は、ジオン軍イコール悪ではないことを物語る。そしてアムロの母は、ジオン兵を撃った我が息子を責めるのだ。
「あの人達だって子供もあるだろうに…。それを、鉄砲を向けて撃つなんて…荒んだねぇ」

 この瞬間、アムロは母を、そして帰るべき故郷を同時に失った。
 母は在り、故郷も在るのに、そこは既にアムロが帰るべき場所ではなくなってしまったのだ。

 ファーストガンダム全般に言えることだが、今回は特に点描が素晴らしい。
 カイが、
「地球に家があるだけでもエリートさ」
と何気に吐き捨てるた台詞は、地球連邦市民の中に存在する不平等意識(差別意識)を剥き出しにしたものだ。地球に住む人間、即ち地球連邦の中核はエリート一族であり、連邦内の宇宙移民者はその逆である、と。

 宇宙移民における地球連邦政府の横暴は、今まで何度も宇宙移民一世世代の老人達によって語られてきた。今回は、宇宙移民2世世代と思われるカイの口から、それを裏付けるような発言が出た。異なる世代の者が、表現を変えて根を同じとすることを言うと、非常に説得力が感じられる。
 これもまた、ガンダムのキャラクターの層の厚みがもたらすリアリティである。

 そして、アムロが母と再会の抱擁を交わすシーンで、それを羨ましそうに見つめる子供達。
 母親である自分よりホワイトベースを選ぶ息子を目の当たりにして呆然と立ち尽くすアムロの母を見つめる、フラウの視線。
 戦争孤児という同じ境遇を持った人物が、同じ人物を見ているのに、視線の意味が全く違う。
 このアムロと母の別れの場面に、アムロと母の再会場面を羨ましそうに見ていた子供達が立ち会っていたら、一体どんな目をするのかと思うと切ない。

 そう言えば、アムロが戻って行くホワイトベースのカツ・レツ・キッカも戦争孤児である。
 この日、アムロもまた、ある意味で戦争孤児になったのだと言える。

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 おまけ 『ガンダム00』 #17 交錯する想い

 『00』のセカンドシーズンは、ある意味“再会の物語”なのかも知れない。そして、必ずしもそれが上手く機能しているとは思えない。

 私だったら、沙慈の姉は危ないところでカタロン(あるいはその前身)に救われ、そのままカタロンに加入したことにする。沙慈の姉は、カタロンのメンバーとして、主にアロウズの情報封鎖と戦うのだ。沙慈の姉は、弟に危害が及ばないようにとの想いから連絡を絶っていたが、沙慈がトレミーに乗り込んだことによって再会を果たす、とか…。

 情報統制がもたらす“結果としての愚衆政治”が、この物語の土台になっているにも関わらず、セカンドシーズンに入ってから市民の視点からのアクティブな展開は全くなし。ステレオタイプ的に「市民は全然知らんのです」として描かれているだけだ。
 地表からのアマチュアレベルの観測でも、メメントモリがアフリカタワーを撃ったことは分かる筈。そこからの展開を造れば、世界観がグッと広がるのに、個人レベルの恋愛ドラマを乱発して時間を消費している。

 それにしても、ハーキュリーに対しては「アンタの役目は終了したから、ハイさようなら」。
 セルゲイに対しては「マリーを再び戦闘に参加させるために、アンタには死んでもらわんとね」。
 そんな製作サイドの声が聞こえるような“人の死”の描き方には、ウンザリだわ。
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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。