2017-08

ストリップ私的理想論

ストリップ私的理想論


 「ストリップは“着衣の新体操”」というのが、私の一つの理想である。
 そう言うと、10人中9人までは「“着衣”の新体操ではなく、“裸”の新体操だろう」と指摘する。しかし、新体操は裸体であることを前提にした競技なのである。
 レスリングと柔道を例えに出せば、分かりやすいだろう。

 知らない人はまずいないと思うが、柔道では自分または相手の着衣を掴んだりして利用することがルールで認められている。立技の場合は、掴み方に一部制限があるが、寝技の場合は着衣のどこを掴んでも良い(ただし相手の袖と裾の中に指を入れることは反則)。
 単に掴むだけではなく、自分または相手の着衣を使って相手の首を絞めても良い。帯や裾を使って首を絞めることは禁じられているが、相手の身体を拘束するために使うことは許されている。寝技の際、帯や裾を相手の手首に巻いて拘束する技術は有名である(ただし1周以上巻き付けると反則)。
 このように、柔道は道衣を着用することを前提にした競技であり、その競技技術の殆どが着衣を利用したものとなっている。
 一方、レスリングは薄手のタイツまたはレオタードを着用することがルールで定められているが、その着衣を掴んだりして利用することは禁じられている。薄手とはいえ、あの着衣の胸や背中の部分に手を突っ込んで握り込めばかなり有効な組み手となると思われるが、それが許されていない。つまり、互いに薄手の競技衣を着用しているにもかかわらず、あたかも裸であるかのように振舞って競技することが求められているのだ。

 レスリングに、着衣を利用する技術体系は全く存在しない。
 新体操にも、着衣を利用した技術体系は全く存在しない。
 この意味でレスリングは「裸の格闘技」であり、新体操は「裸の表演競技」と言えるのだ。
 一方、ストリップには着衣を利用した技術体系が明確に存在する。脱衣という行為自体が、着衣前提でなければ成立しないのだ。「ストリップは“着衣の新体操”」という表現をした意味が、分かっていただけただろうか。

 もちろん、着衣を利用した技術体系を持つ舞踊は、ストリップ以外にも存在する。と言うより、舞踊の殆どは着衣を前提としている。
 ストリップはそれらの舞踊の着衣技術を取り込み、そこに脱衣(または脱衣後の再着衣)するというストリップ独特の技術体系に加え、更に「裸の表演競技(正確には、着衣に依存しない技術のみで構成された非着衣表演競技)」である新体操の技術を組み合わせている。

 ちなみに、シンクロナイズド・スイミングやフィギュア・スケートも、原則として「着衣に依存しない技術のみで構成された非着衣表演競技」である。設備的・技術的な面での困難が伴うが、「着衣のシンクロナイズド・スイミング」としてのストリップや、「着衣のフィギュア・スケート」としてのストリップも、理論的には可能な筈である。

 ストリップの理想を語る際に、新体操を引き合いに出す理由は他にもある。
 ダンスや表演系の、エンターテインメントまたは競技の中で、「ソロ、立技、寝技、手具」の4要素を兼ね備えているのは、ストリップと新体操だけではないかと思えるのだ。
 新体操では、リボン、ボール、フープ(輪)、クラブ(こん棒)、ロープ(縄)といった手具が用いられる。ストリップでも同系統の手具あるいは全く異なるアイテム(例えば椅子)が使われることは珍しくない。もちろん、徒手で行なわれる場合の方が多いと思うが、ストリップの場合は着衣自体が一つの手具として機能していることを忘れてはならない。肩にかけたシースルーの布一枚であっても、充分に手具として使えることはストリップの常識である。
 新体操では正方形の演技面(フロア)内で表演されるが、立技や寝技に関するポジションによる制限や特徴は特にないようだ。
 ストリップでは基本的に、比較的面積の大きいステージでは立技中心、面積の小さい盆では寝技中心の表演が行なわれているように思う。もちろん、それぞれ逆のパターンもある。花道では、普通に歩く以外にも這って移動したり転がって移動したりと様々なムーブが見られる。花道をバク転で移動した踊り子もいたように記憶している。

 「ストリップは“着衣の新体操”」と言っても、ストリップに新体操ほどのアクロバットを求めているわけではない。そもそも、ストリップの本質は「エロスをテーマにした舞踊芸能」であり、競技(スポーツ)ではなく芸能の一分野である。しかし、それが競技であれ芸能であれ、素人には容易に真似することのできない「技」が披露されないのなら、お金を払ってまで観る価値はないと私は思う。
 新体操を含む表演競技は、競技の性格上、採点競技と同義となる。採点は技術点と芸術点(表現点)に分けて採点され、それを総合して全体の採点とするというのが大方の基準である。先ほど述べたようにストリップは競技ではないが、評価の基準は競技採点に準じるというのが私の考えである。
 すなわち、ストリップは「技術」・「芸術」・「エロス」の主要3要素に、ボーナス的要素である「双方向性」と、衣装・選曲・構成・企画などパッケージ自体を評価する「設計」を加えた5要素によって評価されるべきものだという考えだ。

 「技術」と「芸術」を分けて列挙するのは、飽くまでも便宜的なものである。私にとって、「着衣の新体操」と「エロスをテーマにした舞踊芸能」の共通解となるものが、「素人には容易に真似することのできない難度を有する各種ポージング」なのだ。
 何気ないポーズがドキッとするほど美しかったりする場合もあるが、長い文化の歴史の中で取捨選択された結果残っている特定のポージングは、やはり見る者を惹きつける。また、女性の身体の美しさを表現する形態は、ある種のパターンに収斂する傾向があるとも思える。
 もちろん、難度が高ければ良いというものではない。しかし、日常ではまず目にすることの出来ない特殊なポーズによって女性の美しさが形造られたとき、それはエロスを宿した生きるオブジェとなって、単なる性的欲望を凌駕する芸術と成り得るのではないだろうか。

 立技においても寝技においても、一定以上の難度を有する「規定技」というべき幾つかのポーズやアクションを取り入れていることが理想だ。
 立技ならY字バランスや、エアロビ、チェア、バレエなどのポーズまたは動作。バク転などのアクロバットでも良い。
 寝技なら、各種開脚、バック、ブリッジ、倒立系。もちろん、新体操で使われているポーズや動作でも良い。
 ちなみに、私はベッドショーが単なるオナニーショーになっている踊り子さんを全く評価しない。どんなに完璧に演じても評価はゼロである(難度の高いポージングと組み合わせた場合は例外)。指と股間さえあれば誰にでも出来ることは評価の対象にならないのだ。

 まず始めに身体ありき。鑑賞に値する身体を作っていることが全ての基本となる。
 次に、創作力。何をどう表現するのか。そのために、限られた時間と空間(と予算)を、どう設計するのか。
 創作したものを具現化する技術力(ベースとなるのは身体能力)。
 その技術(物理的な動作)に魂を吹き込む表現力。愛憎・苦悩・悲哀・歓喜といった情感が動きに宿るとき、人はそこに芸術を見出す。
 美しさは、必ずしも高度な技術に依存しない。芸術は、必ずしもエロスを伴わない。
 しかし、着衣を利用して裸をより裸らしく演出する表現は、チラリズムという名のエロス。
 映画に関しては、「観る側が理屈抜きで凄いと感じる映像は、造る側が理屈を尽くさねば生まれ得ない」というのが持論だが、ストリップにおいてはどうなのだろうか?
 「技術」・「芸術」・「エロス」が分割不能な渾然一体の状態となったところに、ストリップの一つの到達点が在るのかも知れない。

 神話によると、その昔この国は「ほと(女陰)も露に」舞い踊った女神によって救われた、とある。どんな舞踊だったのか、是非とも観てみたい、と思う。
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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。