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2024-03

神にのる獣

神にのる獣


ムカシムカシ  
《ケモノ》タチハ、(フネ)ニ ノッテ
ナガイアイダ、サマヨッテイタ。

アルトキ、《ケモノ》タチハ
グウゼン
〔カミ〕ノ スム セカイニ タドリツイタ。

「オマエタチハ、ナニモノダ」
〔カミ〕ハ、《ケモノ》タチニ タズネタ。
「ワタシタチハ、《ケモノ》デス」
《ケモノ》タチハ、ヨロコビノ アマリ ブルブルト フルエタ。

「《ケモノ》タチヨ、ノゾミハ ナニカ」
〔カミ〕ノ トイカケニ、《ケモノ》タチハ コウ コタエタ。
「ドウカ、ワタシタチノ セカイノ〔カミ〕ニ ナッテクダサイ。
 ソシテ、ワタシタチノ ナカヨリ エラバレタ モノガ
 アナタノ セナカニ ノルコトヲ ユルシタマエ」

ジヒブカイ〔カミ〕ハ、
《ケモノ》ノ  ノゾミヲ、キキイレタ──。

        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §

 俺達は神だ。
 少なくとも、獣たちからはそう呼ばれている。
 獣たちが神と呼ぶのだから、きっとそうなんだろう。
 少なくとも、俺は神ノ国で生まれ、ものごころついたときから神と呼ばれてきた。そして俺の仲間達も。

 この世界には、神ノ国と獣ノ国しかない。
 そして、言葉を操り、道具を造り、畑を耕したりする生き物は、神と獣しかいない。
 ただの生き物なら、他にもいろいろいる。
 でも、明日のことを気にしたり、昨日のことを思い出したり、なぜ自分は生きているのかなんて考えながら生きているのは、神と獣だけだ。少なくとも、俺の知っている限りでは。

 俺は、紫色の空を見上げている。
 この空の彼 ──上の方──遙か遠く離れた世界から、最初の神の一族、つまり俺たちの先祖が来たと、獣たちは言う。
 鮮やかな紫色の空には、二つの太陽が輝いている。
 二つの太陽のうち、どちらか一つは、神が空の彼方から運んできて、獣に分け与えたものだという。
 どっちの太陽がそうなのかは、俺には分からない。美しい色をしている方がそれだと獣は言うが、俺にはどちらもただ眩しいだけだ。俺だけじゃない。神の眼には、どちらの太陽も同じに見える。獣たちの眼には、二つの太陽は全く別の色に輝いて見えるらしい。不思議だ。
 俺は、雲の下に広がっている獣ノ国を見下ろす。
獣ノ国には神はいない。
 神は、神ノ国の中だけで暮らしているからだ。
 神ノ国は、全部で八つ。獣ノ国を、ぐるりと囲んでいる八つの山々の一つ一つが、それぞれ別々の神ノ国だ。
 俺達の国は、北西ノ国。
 俺が今向いている方角には、南ノ国があるはずだ。もちろん、南ノ国は遠すぎて見えない。俺の眼下には、ただ獣ノ国が広がっている。
 しかし、南ノ国は確かにある。獣ノ国を横切った果てに、確かにある。そして、東ノ国や、そのほかの神ノ国も。
 ここは北西の神ノ国。 
 俺は、北西の神だ。
 
 風が吹いている。心地よい風だ。
 祭りの季節に吹く風だ。
 一年に一度の祭り。
 そして、祭りの中の祭り、競勝。
その競勝に、俺は出る。
 北西の神として、競勝に出る。
 北西の神として、他の国の神々と競う。
 もちろん、俺の獣と一緒に。

 神は死なない。躯を抜け出し、見えない姿に戻って、ただ空へと還って行くだけだ。それが神。
 獣は死ぬ。死んで、ただ土に還る。それが獣。
 この世界の神の姿は、仮の姿。獣の世界に降りてくるため、獣の姿に似せて造った、仮の姿。
 そう獣は言う。
 そうだとしたら、この俺の躯も、仮の姿ということになる。食べ物を食い、飲み物を飲み、走り、跳び、よじ登り、叫び、喘ぎ、疲れ、そして眠るこの躯が、仮の姿ということになる。
 俺には分からない。
 見えない姿。不可能のない存在。それが本当の神。
 俺には信じられない。
 神の本当の姿は、獣にも見えないという。見えないものが存在しているなんて、どうして分かるんだ。
(カゼヲ ミルコトハ デキナクテモ
 ソノ ソンザイヲ カンジル コトハ デキル デショウ)
 俺は、俺の獣がそう言ったことを思い出して、首筋をさすった。 
もうすぐ、俺の獣が来る頃だ。俺は、獣の門へ向かって歩き始めた。
 風が肌に心地よい。
 祭りの日も、こんな風が吹けばいい。

        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §

 俺の獣は、もう来ていた。
 獣の門の出口で、俺を待っていた。
 金属の籠で出来た通路の出口で、俺を待っていた。
 俺は屈み込み、小さな扉の閂を抜き取り、出口を開けてやった。
五つの小さな眼が、俺を見上げている。
 いつものように俺は軽く頷くと、地面に腰を下ろし、腕を伸ばし、獣の前に手のひらをついた。獣も、いつものように四、五秒じっと待ってから、ゆっくりと俺の腕を登り始めた。
 こうして見ると、獣の体は、長さも太さもちょうど俺の腕と同じくらいだ。
 この世界での神の姿は、獣の姿に似せて造られたものだと言われている。しかし俺には、とてもそうだとは思えない。
 獣の体は、表面に毛が生えているものの、俺達のような柔らかい皮膚を持っていない。
 獣の体は、硬い殻に包まれている。殻が集まって体を造っている、と言ってもいい。手のひらほどの大きさの頭殻、それより少し大きい胸殻、そして腹殻が、節々によって繋がれている。腹殻は、より小さな殻の集まりで、九つか十の節から出来ている。だから、箱のような頭殻や胸殻と違い、腹殻はそれ自体が滑らかに曲がる。
 指は、頭殻から左右に五対、胸殻からも五対、生えている。胸殻から生えている指は大きくて頑丈で、俺の指と同じくらいの太さがある。頭殻から生えている指は、それよりずっと小さくて繊細だ。腹殻の各節からも指のようなものが左右一対生えているが、獣たちはこれを指ではなく、足と呼んでいる。
 頭殻には、二対の眼が二列、その後ろに一回り大きな眼が一つ、並んでいる。この眼も、俺達の眼とは全く違う。硬く、乾いた眼だ。
獣は、俺の肩から首筋へと登っていく。そして、大きな指を使って、自分の体を俺の背骨の真上に固定する。胸殻から生えている指のうち一対は肩越しに俺の鎖骨を掴み、残りの四対は、脇の下から肋骨を包むように掴んでいる。
 獣の体は重くない。
 獣が、しがみついているという感じも全然しない。
 獣は俺の背中に乗っている。
── 乗っている。
── そういう感じだ。
(獣よ、俺の血を少し吸え)
 俺は、心の中で獣にそう言った。
獣は、俺の背中で、ぶるぶると震えた。
 痛みとは呼べない程度の痛みが、首筋に一瞬だけ生じる。
 獣の口は、細い針のようなものだ。それを使って、植物の汁や、他の動物の体液を吸って命の糧にしている。ただし、獣が神の血を吸うには、特別の理由がある。
(カミヨ、スコヤカナ ワガ カミヨ)
 吸った血液から、獣は神の躰の状態を診断できるのだ。
(ワガカミニ エイコウ アレ──)
 獣は、神の躰に異常があるときは、決して稽古をしようとしない。例え神が自分の怪我を隠そうとしていても、獣は少し血を吸うだけで、必ずそれに気付いてしまう。怪我だけではない。疲労の程度や、昨日の夜どんなものを食べたということまで、獣には解ってしまう。
(獣よ、見えるか?)
 俺は、百歩ほど離れたところで稽古している他の神達を指さした。
(ワガカミノ ウデト ソノサキニ カミガミノ スガタ
 ソシテ マワリノ スベテノモノガ ミエマス)
 獣は、神の背中に乗っているときは、神と心で会話することができる。そして、神の感覚を共有することも。
(獣よ、何の稽古をしようか?)
(カミノ ショウリノタメニ、マズ ユックリトハシリ、
ツギニ、ハシリハバトビノ ケイコヲ スルノガ ヨイ デショウ)
 獣の答えに、俺は心の中で頷く。
 俺の首筋に、獣の小さな十本の指が触れる。
獣の指先が俺の首筋を刺激し、俺が向かうべき方向と、速度を示す。
稽古や、実際の競いごとが始まると、俺と獣はほとんど喋らない。心の会話をするには、意識を会話に集中しなければならないし、心の言葉は伝わるのに時間がかかる。とてもじゃないが、競いごとの最中にそんな余裕はない。
 俺はゆっくりと走り始めた。
 最終調整なのだから、焦ることはない。
 実際、自分でも意外なほど、俺は落ち着いている。
 獣からの合図に、変化はない。
 風を感じながら、そのまま走る。
 俺は、風を躯に馴染ませるように、ゆるやかに走り続けた。

        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §

 落ち着いているのに眠れないというのは、どうにも都合が悪い。稽古を終え、獣と別れ、食事その他を済ませて後は眠るだけだというのに、なぜか眠れない。
 明日から始まる祭りや、明後日の競勝のことで、心が高ぶっているわけでもない。ただ、とりとめのない想いが浮かんでは消えていく。俺は木の幹にもたれかかりながら、一面に広がる星空を、見るともなく見つづけていた。
「眠れないのか、北西の神」
 その声が、競い神の宿の二階の窓から発せられたものであることは、すぐに気付いた。俺は、あえて返事はしないで、声の主の姿を見上げた。
「待っていてくれ、今そこへ行く」
 声の主は、元神。元、北西の神。
 去年まで、十一年間連続で北西の神だった男だ。
 七年前、北西の神としては十年ぶりに競勝で二位に入った、伝説の競い神。生きながらにして伝説になっている神だ。
 俺は、後ろに元神の近づいてくる気配を感じながらも、星空を見上げ続けた。
「調子はどうだ、北西の神」
「まあまあだ、元神」
 元神は、俺と同じように木の幹にもたれ、俺と同じように星空を見上げた。
「ずっと星を見ていたのか」
「考えごとだよ」
「どんな?」
 俺は、少し間をおいてから答えた。
「なぜ、祭りがあるのか。なぜ、競勝があるのか。なぜ、神も獣も、競勝に勝つことが最も尊いことだと考えるのか
──そんなことさ」
 溜息にも似た呼吸が、元神の胸から漏れた。
「答えは見つかったのか?」
 俺は首を横に振った。
「考えれば考えるほど、解らなくなる」
「闘う前の神に言うべきではないのかもしれないが、こう考えたことはないか…
 神はなぜ競勝するか、ではなく、競勝のために神が存在するのだ、と」
 俺は思わず、元神の顔を見た。
 元神は、穏やかに微笑んでいた。
「元神がそんなことを言うなんて、意外だ」
 顔を星空に戻して、俺は呟いた。
「神なら誰しも、獣との関わりも含めて、一度くらいは自分の存在意義を考えるだろう。私だってそうさ」
競勝のために生まれた神──元神自身が、そんな呼ばれかたをされていたことを、俺は思いだした。
「お前さんは、変わった。競い神として私を上回っていながら、気紛れな競い方で、北西の神の称号を取り逃がしてきたお前さんとは、まるで別人のようだ」
 不意に、元神の強い視線を、こめかみの辺りに感じた。
「何があった? 何がお前を変えた?」
 俺は躯ごと元神の方へ向き直り、視線を真正面から合わせた。
「元神は、自分の獣を踏みつぶそうとしたこと、あるか?
 俺は去年の予選競勝であなたに負けた後、本気で自分の獣を踏みつぶそうとしたんだ」
 元神は、俺の眼をじっと見据えた。まるで、俺の眼の奥に浮かぶその時の光景を、なんとか見透かそうとするかのように。
「…その時、お前の獣はどうした?」
「逃げなかった。全然逃げようとしなかった…。それからしばらく稽古場にも行かなかったんだけど、久しぶりにふらっと入ってみたら、俺の獣が、門のところでちゃんと待っていたんだ」
 元神は微かに頷き、眼で俺に先を促した。
「それで俺は、聞いてみたんだ。なぜあのとき、逃げなかったのかを」

(カミガ ソウ シタイノナラ、
 ワタシヲ フミツブシテ クダサイ)
(殻がバギバキに割れて血が飛び散り、内蔵がグシャグシャに溢れ出して悶え苦しむんだぞ)
 俺は、かつて見た、獣がつぶれ死んだ事故の有様を生々しく思い出して、背中の獣に伝えた。
(ワタシノ イノチヤ カラダハ、
 カミノ タメニ アリマス
 カミノ ショウリノ タメニ アリマス
 ワタシノ セイデ カミガ ショウリ デキナイナラ、 ワタシハ コロサレテ トウゼン デス)
(獣…)
(ワタシハ、アナタノ ケモノ デス
 ダカラ、フミツブサレテモ ニゲマセン)

「…そうか、そんなことが、あったのか」
 納得した様子で、元神は俺の眼から視線を外した。
「確かに、衝撃的な出来事だったろうな」
 元神の心が、ふと闇にこぼれるような気配がした。
「だがな、北西の神よ…私は七年前、もっと壮絶なものを獣ノ国で見た」
「七年前、競勝で二位になったとき?」
「翌日の、神輿行列のときだ…神輿の上から、私は壮絶な光景を目の当たりにした」
 俺を一瞥する元神の瞳。
 その瞳が、潤んでいるように見えた。
「私を乗せた神輿は、獣ノ国を浅く横切っただけで神ノ国へ戻った。だが、優勝した南の神を乗せた神輿は、獣ノ国の中心へと向かって行った…」
 元神は、何かを吐き出すように、大きく息をついた。
「南の神は、あるいはそこで、もっと壮絶なものを見たのかもしれん」
 俺は何も訊かなかった。元神が獣ノ国で何を見たのかは、もちろん気になる。しかし自分でも不思議なことに、今知りたいという欲求が沸いてこないのだ。
「北西の神よ…」
 闇に滲み出ていく声。元神の声。
「七年前、二位になったときの私よりも、今のお前は速い。真に、北西ノ国が生んだ最高の競い神だ… 今夜は、眠れなくても気にするな。神隠しの後、充分に眠れるのだから」
 元神は、もたれていた木の幹から、背中を浮かせた。
「健闘を祈る」
「ありがとう、元神」
 ゆらりと身を翻した元神の背中が、やけに小さく見えた。
 俺は木の幹にもたれたまま、元神の背中を見送った。
 星空を見上げる。
 明日の神隠しで、俺は生まれて初めて国外へ出る。
 明日の夜は、獣ノ国で迎えることになる。
 獣ノ国の星空も、神ノ国の星空と同じなのだろうか  

        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §

 競い場に至る通路の途中で、俺はいつものやり方で獣を背中に乗せた。
 他の国の神々は、通路を出て競い場に入り、足元に敷かれた絨毯の端のところまで行って、獣を乗せることだろう。それも、少々芝居がかった乗せ方で。しかし、そうしなければならない規則などないし、実際、去年まで十一年間連続して競勝に出場した元神も、それをやったことはなかった。
 北西の神として元神のやり方を踏襲するという意味もあったが、俺自身、余計なことに気を使いたくなかった。いつも通り獣を乗せ、いつも通り血を吸わせ、いつも通りの会話をする。そうしたかったから、そうしたまでだ。
 通路出口の扉を開けて、競い場に入る。
 最初に目に飛び込んできたのは、紫色の空。
 俺の国、北西ノ国と同じ紫色の空。
 次に目を奪われたのは、驚くほど大きな観衆席。
 これは、北西ノ国とは比較にならないほど大きい。そのせいか、競い場がとても小さく見える。
 競い場だけを見ると、北西ノ国と同じなのは確かだ。
 それにしても巨大な観衆席だ。しかも、そこが神ではなく、獣だけで埋まっているというのもすごい。
 見渡す限り、獣、獣、獣だ。何万、いや何十万という数の獣が、ひしめきあっている感じだ。競勝は祭りのトリを飾る最大の祭り事だし、ここは獣ノ国なのだから、当然と言えば当然なのだが。
(ワガカミヨ、カミノ カラダガ、コワバッテ イマス)
(獣よ、さすがの俺も、少し緊張しているらしいな)
俺は思わず苦笑いを浮かべた。
(ワガカミニ マサル カミナシ)
 獣が俺の首を刺激して、左右を向かせた。左五十歩ほど離れたところに西の神が、右五十歩ほど離れたところに北の神が立っている。
 見覚えのある神だ。この二人の神とは、この間の隣国交流競勝で闘っている。もちろん俺が勝った。
 そうだ、硬くなることなどない。俺は、あの元神に完勝して、ここへ来たのだから。
 改めて競い場を見渡す。
競い場の外周を、俺を含め八人の神々が、等間隔でぐるりと囲む形になっている。
 不意に、音楽が流れ始めた。
聞き慣れた音楽。競勝の舞の音楽だ。
(ワガカミヨ、ショウリノタメニ オドリ タマエ)
(よし、獣よ、いつも通りに舞踊ろう)
 俺は、獣の刺激に応えて、普段と同じように踊り始めた。
 他の七人の神々も、音楽に合わせて、その国独特の競勝の舞を踊り始める。
 舞い踊る神々の輪。
 舞踊りながら、競い場をゆっくりと一周するのだ。
この舞は、競勝を始める儀式であると同時に、競い神にとっては最後の準備運動である。
 俺は、舞い踊りながら、他の神々を観察する。
 東ノ国、南ノ国、南西ノ国からは、去年とは違う神が出場している。三人とも、俺同様若く、躯の切れがいい。特に、南の神は、跳躍力が優れている。要注意だ。
 俺も注目されていることだろう。
 警告の意味を込めて、突き蹴りの舞を要所に織り込む。
 反則を仕掛けてくる神には、容赦はしないぞという意志表示だ。実際、俺は速いだけの神ではない。潰しに来る相手は、逆に潰し返してやる──
 踊りの輪が競い場を一周すると、音楽が止んだ。
 俺は舞を止め、競い場の中央へ向かって歩き出した。
 他の国の神々も、中央へ集まってくる。
 いよいよだ。
 いよいよ始まる。
(獣よ、俺が狙うのは優勝だけだ。二位など、他の神にくれてやる)
(ワガカミヨ、オチツイテ
      カゼヲ カンジテ クダサイ)
獣に言われて気がついた。確かに風が吹いている。
 肌に心地よい風が吹いている。
 俺の国に吹いていた風と、同じ風だ。
(獣よ、大丈夫だ。ちゃんと風を感じられる──)
 俺が獣と話している間にも、神々が形造る輪は、どんどん小さくなっていく。
 その輪の中心、競い場の中央に、透明な丸い台。
 その台には、八つの標識球が載っている。
 八つの神ノ国、八人の競い神を示す標識球だ。
 競い神の輪が小さくなり、隣合う神々の手と手が触れそうになったとき、八つの標識球は、空へ向かって垂直に飛び立った。
 この瞬間、競勝が始まった。

        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §

 競い場の最外周を三周すると、標識球の群は橋の上を飛んで、競い場の外へ出た。神々の群の先頭を走る俺も、橋を渡って競い場の外へ出る。
競い場の外に出た俺達を待ち受けていたのは、大地の裂け目だった。
長く長くどこまでも、地の果てまで続いているかのような大地の裂け目。
 俺達は、その裂け目に沿って走る。
 裂け目と言っても、その幅は、ゆうに十歩以上ある。細い谷と言った方がいいかも知れない。
神々の群は、互いに牽制しつつも、縦一列に落ち着く。
俺は先頭を南の神に譲り、二番手につける。
 この南の神は、おそらく俺より長く跳ぶ。
 どこで跳ぶのか、見ておく必要がある。
 標識球の群が、大地の裂け目のはるか上を、滑るように横切っていく。そしてその先、なだらかに続く丘へと飛んでいき、見る見るうちに丘を越え、その姿が見えなくなった。
 標識球の航跡は、競勝の最短軌道を示している。
 しかし、いくら俺達が各国最高の神々でも、十歩近い幅の裂け目を飛び越えることは出来ない。飛び越せる幅になるまで、裂け目に沿って走り続けるしかない。

 先頭を走る南の神は、しばらく前からかなりとばしている。この俺でさえ、ついていくのがきつい。
 後ろを振り返ると、俺達についてきている神はいない。他の神は、はるか後ろだ。列も、すでに点々と、縦に長くばらけてしまっている。
 たぶん、これが南の神の最も得意な速さなのだろう。
 それにしたって、こんな速さで、ずっと走り続けることなど出来るはずがない。要するに、これは最初の仕掛けなのだ。
 俺の獣が、速度を下げるようにと、首筋に刺激を送ってきた。俺も、そういつまでも南の神の仕掛けに付き合うつもりはない。競勝は、まだ始まったばかりなのだ。
 俺は速度を下げた。
 前を行く南の神との距離が、すーっと開いていく。
 南の神が後ろを振り向き、俺の顔を見てニヤリと笑った。 そして、俺に合わせて速度を下げ、俺の横に並んだ。
 俺は更に速度を下げた。今は、この神を俺の前で走らせるべきだ。
 それでも南の神は、前に行かない。
 俺は思い切って、極端に速度を落とした。
 南の神は、ニヤニヤ笑いながら、俺に合わせて速度を落とす。
 挑発しているのか?
 そう思ったとき、南の神は、更に速度を落として裂け目の縁へと近寄っていった。
 まさか?!
 俺は躯を捻り、南の神の姿を眼で追った。
 南の神は、緩やかに、そして注意深く、裂け目の縁に沿って進んでいる。間違いなく、踏切地点を探っている。
 本当に、ここで跳ぶ気か?! 
 確かにこの区間は、裂け目が少しくびれて狭くなっている。部分的には、九歩を少し切るところもあるだろう。
 しかし、それでも跳ぶのは危険すぎる。
 俺は風を確かめる。
 確かに、追い風だ。絶好の追い風と言ってもいい。
 しかし、それでも九歩は危ない。
 競い場で跳ぶのとは、わけが違う。しくじったら、もう後はないのだ。
 南の神は、すでに助走の軌道取りに入っている。
 やはり、最も狭い部分を狙っているようだ。
 本当に、本当に跳ぶつもりなのか?
 南の神が、助走を始めた。
 徐々に加速する。
 更に加速する。
 本気だ。
 この速さは、もう──
 南の神が、跳んだ

 呆然と立ちつくす俺の脇を、二人の神が追い抜いていく。
 俺は慌てて、後を追った。
 前を走る神を確認しつつも、俺の目には、ついさっき跳んだ南の神の姿が焼き付いて離れない。
 最高の軌道だった。
跳びの姿勢も最高だった。
 宙を駆けるように、長い脚がくるくると回った。
 しかし、着地は危なかった。
 一瞬、俺は落ちたかと思った。いや、普通だったら、落ちていた。
 落ちかけた足元に、岩が突き出てていた。それを足がかりにして、一気によじ登ったから助かったのだ。
 南の神は、そこまで考えて跳んだのか。
 それとも、獣がそうさせたのか。
 いずれにしろ、奴は跳んだ。跳びきった。
 裂け目の向こうで、南の神は勝ち誇って両手を突き挙げ、何度も飛び跳ねた。もう、自分の勝利を確信したような顔つきだった。
 そして、裂け目の反対側に取り残された格好になった俺を見て、南の神は、あからさまな挑発を二度、三度と繰り返した。
あの時、俺は一体どんな顔をしていたのだろう。
 挑発されるがままになっていた自分が情けない。
 あそこで、奴を追いかけて跳べなかった自分が、たまらなく悔しい。
 しかし、俺には九歩は無理だ。今は少しでも速く先に進み、俺の跳べる幅になるところを見つけるしかない  
 前を走る二人の神の速度が、急に上がった。
 獣から、急加速の刺激が来る。
 しまった。つい、気を抜いていた。
 これは仕掛けじゃない。踏切地点を見つけたんだ。
 俺は加速する。ぐんぐん加速して、前を行く二人の神を一気に抜き去る。
 視界が開ける。
 あった。二百歩ほど先に、裂け目がくびれている部分がある。あれなら、跳べるかも知れない。
 その部分に近づくにつれ、予想は確信へと変わっていく。
 獣も、俺を走らせ続ける。
 疲労は、気にしなくてもいい。今は、他の神より先に、踏切地点や助走軌道を確保することが重要だ。
 俺は、ちらりと後ろを振り返る。二人の神は、全く俺についてこれない。やはり、ここ一番の加速に関しては、俺にかなう神はいない。
 裂け目の狭くなっている部分に到着した俺は、喘ぎながらも慎重に、縁まで歩み寄った。裂け目の幅は、八歩半といったところだ。ただし、裂け目の反対側には、こちらに向かって少し出っ張っている部分がある。そこだけなら、八歩だ。
 跳べる。ここなら確実に、跳べる。
 俺は、踏切地点を確保するため、右手を挙げる。
 挙がりかけた右手がビクンと痙攣し、俺の意志に逆らって途中で止まった。
 獣だ。獣が止めている。
(なぜ止める、獣! 見えるだろう、ここなら、跳べる)
 俺は、今立っている地点と、裂け目の対岸の地点に視線を往復させた。獣の返事を待たずに、俺は右手を無理矢理挙げてようとする。
(ワガカミ──)
 腕が挙がらない。筋肉が硬直して、自分の意志で動かせない。
(獣ッ、邪魔するなッ)
 早くしないと、他の神が先に手を挙げてしまう。獣の奴、一体何を考えているんだ?! 
(ワガカミ ワガ カミ カミ─ )
 俺は必死で手を挙げようとするが、獣も激しく抵抗する。肘から先は動かせるが、肘から肩までの部分が、脇にぴたりと吸い付いて離れない。
 背後に、神が近寄ってくる気配を感じた。嫌な予感が胸をよぎる。振り返ると、嫌な予感が当たっていた。東の神が、肩で大きく息をしながら、右腕を真っ直ぐに挙げている。俺と視線が合ったことを確認すると、東の神は右手を挙げたまま、後ろに下がり始めた。追いつかれた上に、これで助走軌道の確保も先を越されてしまった。
 先に確保の宣誓をされてしまった以上、場所を明け渡すしかない。俺はあきらめて、東の神の後ろへと回った。
 右腕は、まだ脇に張り付いたまま動かせない。
(獣よ、もういいから右腕を解放しろ)
(ワガカミヨ、ソレハ デキマセン)
 獣の考えが分からない。東の神を警戒しているのか? 助走中、潰しにくることを警戒したのか?
 俺は、東の神から数歩離れる。
 助走の体勢に入る東の神を、観察する。
 潰しをやる神は、逆に自分が潰されるないように、常に警戒するものだ。この神からは、それが感じられない。ただ、しきりに風を気にしている。
 風は先程から、追い風だ。変わる様子はない。
 東の神が、助走を始めた。
 加速していく。
 いい加速だ。たぶん、跳べるだろう。
 八歩を跳ぶ神は、俺の国でも何人かいる。東の神が跳べたとしても、不思議ではない。
東の神が、思い切りよく踏み切った。
 それを見た瞬間、俺は成功を確信した。この神も、決して侮れない。要注意だ  
 叫び声が聞こえたのは、次の瞬間だった。
 喜びの叫びではない。恐怖の叫びだ。
 東の神は、裂け目を跳びきった。着地も決まった。
 しかし、着地した地面が、崩れた。
 着地した瞬間、もろくも崩れ落ちた。
 そして、東の神も、落ちていった。
 俺は思わず、裂け目の縁まで駆け寄った。
 恐る恐る、覗き込む。
 何も見えない。太陽の光も、裂け目の途中までしか照らしていない。そこから下は、闇だ。
 何も聞こえない。叫び声も、この裂け目に飲み込まれてしまった。
 東の神は死んだ。
 少なくとも、俺の感覚では。
 もし──もし俺が先に跳んでいたら
(ワガカミヨ、ココハ イケマセン
      ドウカ サキニ ススミタマエ)
 獣が、俺の顔を前に向けさせる。
 いつの間にか、百歩ほど先を、一人の神が走っている。俺は走り始める。
 右腕は、自然に振れた。

        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §

 東の神が落ちた地点から、かなり走ったところで、俺は裂け目を跳び越えた。八歩と少しあった。踏切が少し甘く、結構ぎりぎりだったが、何とか跳びきった。
 前を行く神は、南西の神だった。
 南西の神には丘の途中で追いつき、河を二本渡ったところで完全に振り切った。
 他の神のことは、分からない。丘の中腹から周囲を見下ろしたのを最後に、他の神は見ていない。ちょうど、俺や南西の神が裂け目を跳んだ辺りを通り過ぎようとしていたところだった。
 いずれにしろ、西の神や北の神と一緒になって走っているようでは、しょせん俺の敵ではない。守りの競いに徹し、先行者の脱落を期待する作戦なのだろう。そんな神など、気にしなくてもいい。
 俺は、三本目の河に足を踏み入れた。流れは決して緩くない。こまめに岩を伝って泳がないと、かなりの距離、下流へと流されてしまうだろう。
(獣よ、溺れるなよ)
(ワガカミノ ショウリノタメニ──)
 
        §   §   §   §   §   §   §   §   §   §
 
 もうだいぶ、陽が傾いてきた。
 終着の場は、そう遠くないはずだ。
 案内役の標識球が飛ぶ高さも、かなり低くなってきている。
 俺はここまで、自分でも良い競いをしてきたつもりだ。
 しかし、南の神の姿は、まだ一度も視界に捉えていない。
 南の神が、全てにおいて俺に勝っているとは思えない。
 気付かないうちに抜き去ってしまえるほど、劣った面があるとも思えない。
 南の神は、必ず俺の前にいる。
 いったい今、どれくらい離されているのか──
 曲がりくねったこの山道では、それが分からない。
 差は、確実に詰まっているはずだ。
 あの裂け目のところでつけられた差は、この長い山道で確実に詰めているはずだ。南の神の長くてしなやかな脚は、こういう上り下りの激しい道を走るのは不得意だろう。
 俺は、自分自身をそう励ます。
 獣も、あるときは規則正しく、ある時は緩急をつけ、俺に刺激を与え続ける。この獣の刺激によって、俺の躯が山道から受ける負荷は、最低限に押さえ込まれている。
 獣は、俺の視覚から得られた情報を元にして、この変化の激しい山道の最適な走りかたを先読みし、俺に伝えてきてくれる。
 道に逆らわず、むしろ道を利用して、無駄な力は一切使わない。
 俺と獣は、上下に波打ち左右に曲がりくねる山道を、ひたすら走り続けた。
 
 左右を、空を、景色の大半を覆っていた樹木が、急にまばらになり始めた。
 ありがたい。どんどん視界が開けていく。
 右手方向に、樹木の隙間から、ちらちらと隣の山が見える。どこか、不自然な感じがする。
 理由はすぐに分かった。
 その山の頂上には、競い場と、それを取り囲む巨大な観衆席が建てられている。
終着の競い場だ。
 驚くほど近い。直線距離にすれば、本当にひとっ走りという感じだ。もちろん山と山は、深く険しい渓谷によって隔てられている。もしできるなら、標識球のように、空を飛んでいきたいところだ。
 俺は走るのを止め、山道の端へと寄っていく。飛んで行くのは無理としても、最短軌道を見つけておく必要がある。
 その時だ。
 急斜面の下に見える一本道に、走る神の後ろ姿を見つけた。
 南の神だ。間違いない。
 近い。こちらを振り向けば、表情まではっきりと分かるだろう。
 俺は、とっさに傍らの木に身を隠した。
 南の神が、こちらを見上げたからだ。
 気付かれたか?
 いや、気付いた様子はない。
 南の神は、かなりゆっくりした調子で、一本道を登っていく。
 それでも、坂の頂点まであと少し。見る間に登りつめ、下りに入る。
 南の神の後ろ姿は、坂の反対側へと消えていく。
(獣よ、この斜面を下りるぞ)
 南の神が下って行った坂の先には、もう一つ、かなり大きな上り坂がある。そこを越えてしまえば、あとは平坦な道が競い場に架かる橋へと続いている。
 もう、距離がなさ過ぎる。今のまま山道を下っていては、南の神に勝てない。
(ワガカミノ ショウリノタメニ──)
 行くしかない。この斜面は、角度こそ急だが、高さはそれほどでもない。岩肌がむき出しになった急斜面を見下ろし、少しでも安全と思われる軌道を探す。
 背中には獣が乗っているから、腹這いで下りるしかない。
 始めの一歩目の足がかりを決め、後ろ向きに一歩、踏み下ろす。
 その途端、俺の躯は滑り落ちた。
 考える余裕などない。
俺は硬い岩肌に顎をぶつけながらも、両手両足に力を込め、斜面から躯がはがれ落ちないように保持し続けた。
 ほんの数秒後にきた着地の衝撃は、全く予想できなかった。躯を捻って、真後ろに倒れるのを防ぐだけで精一杯だった。
 右肩を強く打った。その勢いのまま、躯が一回転するのが分かった。
 空と地面が激しく揺れながら入れ替わる。
 止めた。俺は両手両足を踏ん張って、躯の回転を一回転で無理矢理止めた。
 意識はハッキリしている。むしろ、この危機回避に運動神経が総動員されたためか、冴え渡っている気がする。
 右肩は? 多少痛むが、普通に動く。出血もあるが、この程度なら問題ない。
 他は? 左腕、左脚、右脚、腰、首。
 顎から少し出血している以外は、かすり傷程度だ。
 よし、行けるぞ。
 俺は走り始めた。
 南の神の姿は、こちらからは完全に死角になっていて見えない。つまり、向こうからもこちらが見えないわけだ。
 この短い坂を上りきれば、南の神の姿を捉えることが出来る。
 もうすぐ、もうすぐだ。
 俺の心臓が高鳴る。
 見えた。ついに捉えたぞ。
 南の神の後ろ姿だ。
 坂を下り始めると、さすがに躯のあちこちが痛みだしたが、走りに支障が出るほどのものではない。南の神を捉えた代償だと思えば、どうってことない。
 南の神が不意に、ちらっとこちらを振り向いた。
 すぐに、もう一度振り向いた。今度は少し長く。
 まだ距離が離れているから、その表情までは分からない。
 俺は、歯を剥き出しにして笑ってやった。南の神に、それが分かればいいんだけどな。
 南の神は、速度を少し上げたようだ。やはり、まだ余力を残している。しかし、本気で逃げに入ったという感じではない。
 俺も、かなり疲れてきてはいるものの、今の速さなら維持できる。そして今、南の神の後ろ姿は、少しづつ大きくなってきている。
 この緩やかな坂を下った先に待ち構えている、長く、急な上り坂が勝負だ。
 あの上り坂で、南の神を追い抜く。
 完全に追い抜かなければ駄目だ。
 あの坂の頂上から先は、終着まで平坦な道が続いている。しかも距離的に、俺にとっては苦手な距離だ。
 あそこで競り合いになったら、たぶん俺は負ける。
 南の神は、それを狙っているに違いない。
 この下りで体力を温存し、上り坂で俺に追いつかれても何とか抑え込む。俺を抑え込んだまま坂を上りきれば、競い場に入るまでに振り切ってしまえると考えているのだろう。
 前を走る南の神との差が、どんどん縮まる。
 もう、十歩程度しか離れていない。
 もう、手を伸ばせば届きそうな感じだ。
 このまま追いついてしまおうか?
 それとも、こちらも少し体力を温存して、南の神を先に上らせた方がいいのか?
 獣からは、まだ何も指示がない。
 不意に、右膝の裏側が気になった。
 嫌な感じがする。
 俺は、走りながら首を捻り、右肩越しに膝裏を見た。
 血!
 右脚の裏側が、血で真っ赤に染まっている。
 どこから出血しているんだ? 
 痛みはほとんどないのに?!
 まさか──俺は自分の背中に右手をまわし、獣の腹殻を
一撫でしてみた。
 手のひらを見る。血がべったり──
(獣よ、獣よ、返事をしろ!)
 首筋に、弱い刺激が返ってきた。生きている。まだ、生きている。しかし、この出血、かなり危険な状態に違いない。くそッ、どうして今まで気付かなかったんだ?!
(獣よ、しっかりしろ!)
 俺は、獣に負担を与えないように、慎重に速度を落とす。 手を伸ばせば届きそうだった南の神の後ろ姿が、だんだん遠くなっていく。
 俺は、前方を飛ぶ標識球を確認する。
 ここまできて──残念だ。
 けれども、獣を死なせるわけにはいかない。
 俺は立ち止まった。
 立ち止まって、標識球に躯の正面を向け、顔の前で両腕
を交差させ──
 左手が挙がってこない。肘から肩の部分が、脇腹にくっついたまま、離れない。
(獣!)
 意地を張っている場合か?! 俺は左腕に全神経を集中させる。
(モウ テオクレ デス──)
 嘘だろ?! そんな、嘘だろ?!
(ワガカミヨ── )
 あきらめるな獣! あきらめちゃ駄目だ!
(ドウカ ワタシノ カラダヲ 
      シュウチャク マデ ハコビタマエ── )
 そんな、そんなこと言ったって、終着はまだ先だぞ!
 お前を死なせるわけにはいかない!  
 ここでお前を死なせるわけには──
 俺は立ちつくす。
ただ立ちつくす。
 ただ立ちつくすだけの俺の首筋に、弱い刺激
  (マエヘ── )
 俺の首筋に、か弱い刺激
   (マエヘ── )
 か弱くて、でも力強い刺激
    (マエヘ── )
 俺は歯を食いしばる。
 大地を蹴って走り出す。
 前を見る。
 前には、南の神の後ろ姿と、その先にそびえ立つ上り坂。
 距離を測る。
 南の神までの距離、坂までの距離、坂の上りの距離。
 南の神は、あと少しで上り坂にさしかかる。
 こちらを振り向いた。
 目が合った。
 それも一瞬。
 南の神は、坂を駆け登り始めた。
 その後ろ姿を、その速度を、その躯の切れを見て、俺は心を決める。
 勝負所は一つ。
 一つしかない。
 俺は、はやる気持ちを抑えて、上り坂に向かう。
 立ちふさがるようにそびえる、上り坂に向かう。
 まだだ─  もう少し─  よしッ
 加速をかける。
 勢いよく、上り坂に駆け込む。
 ほんの二、三歩で、躯にかかる負荷が急増する。
 予想していた通りの急勾配。
 予想していた通りの負荷。
 上は見ない。すぐ前だけを見る。
 南の神の位置は、見なくても分かる。
 あいつは見ている。必ず見ている。
 必ず、俺の上に来る。上から俺を抑えに来る。
 重心を出来るだけ前にかけて、ひたすら登る。
 つま先が痺れ、足首が疼き、膝が軋み、太ももが震える。
 舌が乾き、喉が焼け、肺が燃え、心臓が暴れる。
 まだか?
 まだ追いつかないのか?
 あと──あとどれくらいだ?
 あとどれくらい、俺の体は保つ?
 くそッ、何を弱気になっている?! 
 心で負けては駄目だ。
 獣の血を思い出せ。
 獣が流した血を思い出せ。
 獣が黙って流した血を思い出せ。
 俺の体は軽いんだ。
 獣が流した血の分だけ、俺の体は軽いんだッ
 見えた、何かが─ 
 視線を上げる。
 いたッ 追いついたッ 
 南の神の後ろ姿─ 
 俺は、前傾した躯を更に前に倒すようにして加速した。 南の神の足裏が、鼻先をかすめる。
 目の前で、南の神の長い脚が折り曲げられて、胴体の方へ引き込まれていく。
 俺の目の前に、脚一本分の空間が  
        躯縦半分の空間が  
 左肩を下げ、半身になり、躯を捻ってその空間に突っ込む。
 左頬が、南の神の腰をこすっていく。
 抜けた。
 並んだ。
 俺の肩と、南の神の肩が並ぶ。
 並んだまま、急勾配の坂を駆け登る。
 俺の喘ぎ声と、南の神の喘ぎ声が混じり合う。
 前方の空気を奪い合うようにして、むさぼり吸う。
 こいつに勝つには、ただ追い抜くだけでは駄目だ。
 躯を追い抜くだけでは駄目だ。
 心を追い抜かなければ駄目だ。
 南の神を視界の端で捉えたまま、上を見る。
 上りの残りの距離を測る。
 ここだ。
 ここが勝負だ。
 俺は、力を振り絞って加速する。
 坂を登りきった後のことは考えない。
 全力を尽くして坂を駆け登る。
もう、前しか見ない。
 前へ──
 前へと躯を押し出す。
 脚が重い。止まりそうだ。
 胸が苦しい。張り裂けそうだ。
 止まるな、止まるな  
 前へ─  前へ─ 
 突然、ふわッと体が軽くなった。
 一瞬、躯が浮き上がったような感覚──
 頂上だ。
 登りきった。
俺は崩れ落ちそうになる躯を、心で支えた。
 広く平坦な道を、膝をガクガクさせながら前へと進む。
 道は、大きく左へ曲がりながら延びている。
 その先には、競い場。
 あそこが、この競勝の終着場だ。
 
 競い場に入る橋の所まで来たとき、俺は後ろを振り返った。平坦な道にも、その先にも、動くものは何もない。
 向き直って、前を見て走る。
 膝の震えも、太ももの痙攣も、何とか治まってきた。
 心拍も、かなり落ち着いてきた。
 俺は橋を渡って競い場に入る。
 巨大な観客席を埋め尽くす、獣の群。
 獣、獣、獣──
 観客席は獣で一杯だ。
 競い場の中は、俺しかいない。
 この広い競い場の中を走っているのは、俺だけだ。
 そして、数歩先の空中に、俺の標識球。
 その標識球が、輝きだした。いよいよ終着が近づいてきた。俺は、標識球に導かれるまま、競い場の外周部分に沿って走る。
 埋め尽くされた観客席が、沸騰した液面のようにざわめいている。興奮のあまり獣たちが、ぶるぶると震えているからだ。
(獣よ、見えるか、この大観衆が──)
観客席からは、地響きのような大音響が聞こえてくる。何十万もの震える獣たちの躯が発する、獣鳴りだ。
(獣よ、聞こえるか、この獣鳴りが──)
見えているのか?!
 聞こえているのか?!
 俺の感覚を通して──
 伝わっているのか、背中に乗っているお前に!
 標識球が輝きを増し、競い場の中央へ向かって飛んでいく。
 俺は走った。
 走りながら、思い出していた。
 俺の獣と、初めて会ったときのこと。
 俺の獣を、初めて背中に乗せたときのこと。
 獣の刺激で、初めて躯が自然に動いたときのこと。
(獣よ、終着点だ──)
 涙で視界を歪ませたくなかった。
 でも、こみ上げてくるものは、どうしても抑えきれなかった。
(お前の望み通り、終着点まで運んでやったぞ)
 終着点に到着する一瞬前──
 俺は、首筋に微かな刺激を感じた。
 錯覚じゃない。
 確かに感じたんだ──

── アナタ コソ カミニ フサワシイ ──


     §  了 §


(1998年7月15日頃 執筆 by震電)
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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。