2017-10

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【続】日本人のソウルミュージックとは

【続】日本人のソウルミュージックとは

     ※この記事は、『日本人のソウルミュージックとは』の続編です


「ソウルミュージックとは、心に響く歌(音楽)のこと」
「ソウルミュージックとは、心に染み込む歌(音楽)のこと」

 …であるならば、日本人の真のソウルミュージックとは、(その時点の)日本語で練り上げられたものである筈だ。
 何故なら、物心ついた頃から会話のほとんどを日本語で行なっている日本人にとって、深く理解したり、繊細に感じることが出来るのは、やはり日本語であるからだ。

 「ソウル(ミュージック)に言語の壁はない」というのは、ある意味では正しく、またある意味では間違っている。
 ソウルは文化や歴史をバックボーンにしており、言語もまたそうであるからだ。
 ソウルに言語を越えて伝わる部分があることは間違いないが、その部分がソウルの全てであるとは思えない。
 ソウルと言語は、切り離せるものではない。
 ソウルと言語は、本質的な部分で融合している。
 日本に言霊という言葉があるように、言語にはソウルが宿っているのだ。
 だから、日本人のソウルは、日本語の中に宿る。
 それが、日本人のソウルミュージックの本質だと私は思う。

 そういった“狭義”の「日本人のソウルミュージック」として、最初に思い浮かぶのは、やはり演歌である。
 「演歌は日本人の心」といった謳い文句を、いつかどこかで聞いたような気がするし、女性演歌歌手は、和服を着て演歌を歌うことが多い。このことが、演歌は「日本人のソウルミュージック」であるという印象を抱かせる。
 そして何より、(いわゆるJ-POPのように)サビの部分がいきなり英語になるということがなく、曲のほぼ全てが日本語で歌い上げられている。日本人の魂を伝えるときに、英語の力に頼らず、日本語だけで伝えている。

 もちろん、演歌は日本の古典音楽(純邦楽)ではなく、J-POP同様に洋楽の影響を受けた比較的新しい歌謡曲である。その演歌が、何故J-POPのように英語の歌詞を取り入れず、ほぼ日本語のみで歌い上げることが出来ているのだろうか。
 理由は幾つかあるが、ここでは構造的な点にのみ触れておきたい。

 演歌は、曲の全般に渡って、日本語の歌詞を乗せることが可能なリズムを有している。それ故、英語の歌詞を取り入れる必要がないのだ。
 これに関しては、前記事『日本人のソウルミュージックとは』にSO-RYさんからコメントを頂いたこと(そのコメントは→ こちら )で、確信が持てた。

 私も、学生時代から「日本語は短いリズムを刻めない言語である」と感じていた。授業で英語やドイツ語を学んでいると、誰でも、日本語が原則として抑揚の少ない(リズミカルではない)言語だということが何となく分かってくるのではないか。
 英語の授業中、「掘った芋、いじんな!」が「What’s time is it now?」という英語として通じるという話を聞いた人も多いだろう。私は学生時代、「鬼の首取って捨てた」が「United States (of America)」で通じるという話も聞いたことがある。英語の先生が「ネイティブに試したら本当に通じた」と言っていたので、これはジョークではない(ジョークだったら、恨むよ先生)。

 つまり、英語は発音ももちろん重要だが、リズムで通じてしまう部分もある(らしい)ということだ。
 これとは逆に、「英語の一部が日本語のように聞こえる」ということもあるが、それは飽くまでも発音(“音面=おとづら”とでも言うべきか)であって、リズムではない。こういう点から思うに、そもそも日本語は明確なリズムを重要視していない言語と言えるのかも知れない。

 学生時代、洋楽のチャートをマメにチェックしている友人から、こんな話を聞いたこともある。
「外人は、日本人同士が普通に喋っているのを聞くと、“トートートートー”って言ってるようにしか聞こえないんだって。日本語の発音は、それほど単調で抑揚がないってこと」
 確かに、日本人が百人一首を読み上げている声をアメリカ人(のみならず、インド・ヨーロッパ語族の民族)が聞いたら、「トートートートー」としか聞こえないような気もする。

 日本語に於いて、リズムは「刻む」ものではなく「流れる」ものであり、流れの中に無音を挟むことによって「区切る」ものなのだ。
 裏を返せば、そんな日本語を、短いリズムを刻む洋楽のメロディに乗せるのは最初から無理がある。

 忌野清志郎が、随分以前(15年以上前?)に雑誌か何かの記事の中で
「僕は最近、日本語をリズムに乗せる新しい手法を見つけた。偶然だけど、同じ時期に○○(具体的人名、引用者失念)も、僕とは別のアプローチから、僕と同じような手法に辿り着いたようだ」
と語っていたことを、今でもハッキリと憶えている。
 それは当時の私が、小説の創作において、文章のリズム(日本語のリズム)を生み出すことに苦労していたからである。固定化されたメロディを持たない小説の文章であっても、スピード感あるいはリズム感というものを持たせようとして、書き手は悶々と悩んだりするものなのだ。

 最近になって、このブログでも俳句や短歌のようなものを書き始めている。そこで改めて感じることは、「5・7・5(・7・7)」という日本語におけるリズムの持つ安定感だ。
 その昔から、この定型リズムに対抗すべく、「5・7・5(・7・7)」以外のリズムや、リズムそのものからの解放という動きがあったとは思うが、そういった試みの結果が今日の日本人に広く受け入れられているとは言い難い。
 崩そうが、壊そうが、無視しようが、結局日本人が帰ってくるところ、その一つが「5・7・5(・7・7)」というリズム。ほんのちょっと俳句に興じただけでも、そう思えてしまう。

 だとすると、「5」という音節数が、日本語にとっての一つの壁となるということだ。リズムで表現するとしたら
「タタタタタ」
である。

 ここで唐突に思い出されるのが、ベリ工(Berryz工房)の『胸スカ(胸さわぎスカーレット)』の中の一節である。
 サビの締めくくりの部分で、印象的な振り付けとともに
「Yes my love」
と歌う一節があるのだが、これはリズムで言えば
「タン・タン・タン」
である。シンプルだが、きれいに刻めて耳に心地良い。基本中の基本というか、リズムとしての一つの部品であろう。

 これを日本語で表現しようとすると、意外と難しいことに気付く。
「Yes my love」が英語表現として正しいのかどうかは分からないのだが、これを日本語で表そうとすると、
「そう 愛 情」では日本語としてピンとこないし、
「愛 して ます」では音のキレが悪い。
「我 愛 す」の方がキレは良くなるが、日本語表現が曲のイメージに合わなくなる。
「Yes my love」とは意味が変わってしまうが、
「あ な た」が一番無難なところで、
「あぁ せつ ない(あぁ切ない)」が歌詞としては一番グッと来るように思う。

 こうしてちょっと確認するだけで、「Yes」という単語も非常に便利な部品であることが見えてくる。
 「Yes」は「イエス」と3文字で表記されるが、歌の中では「イェス」と2音節となり、リズムとしては「タン」である。
 また、「イ」という切れのある音で始まって「ス」という抜けのある音で終わるので、耳当たりが良い。
 ほぼ最小単位である短さで、かつ聞き心地良い単語となれば、使い勝手の良さは二重丸。
 ℃-uteの『YES! しあわせ』でも、曲名そしてサビの導入部として「Yes」が使われている。
 この「Yes」のように、リズムを短く刻めて聞き心地の良い単語が日本語にあるかと問われたら、即答することは難しいのではないだろうか。

 ただ、日本語がリズムを短く刻むことが全く出来ないというわけではない。日本語にも、歯切れの良い短い単語は存在している。
 「日本」という単語自体、「にほん」であると同時に「にっぽん」であり、後者は「日本」という特別な単語を歯切れよく発音するために意図的に作り出された発音なのではないかと思える。何故なら、「日本」同じ読みである「二本」を「にっぽん」とは発音しないからだ。
 スポーツの国際大会などで行なわれる
「ニッポン!(チャチャチャ)ニッポン!」
という応援コール(手拍子)は、日本の定番にして世界最高レベルのものである。これに比べたら、アメリカの
「ユーエスエー、ユーエスエー」
といったコールなどは、リズムに切れがなく響きも鈍重である。日本語が、リズムにおいて常に英語に劣っているわけではないのだ。

 さて、話を演歌とJ-POPに戻そう。
 流れるようなメロディに日本語を無理なく乗せ、日本語の歌詞の切れ目と曲のリズムが自然に噛み合うように構成された演歌は、日本のソウルミュージックの一つと言って良いと思う。
 抑揚に乏しく単調になりがちな日本語の構造的欠点を補うため、小節(こぶし)という演歌独特の歌唱法が生み出されたのだろう。ビブラートを入れる点も含め、浪曲などの純邦楽の流れを汲んでいる部分なのかも知れない。

 一方、J-POPは演歌よりもはるかに洋楽の影響を強く受けているものが主体である。
 言うなれば、J-POPはアメリカやイギリスの音楽を日本人が日本人向けの歌謡曲として再構築したものであり、元となっているメロディは、そもそも日本語文化をバックボーンとしていない。
 アメリカのソウルミュージックは、メロディも言語も同じ文化をバックボーンとしているため、曲と詞が融合する際の“融合係数”が非常に高い。そのため、独立した一遍の詩としては成立しない歌詞であっても、曲と一体化することで、一曲のソウルミュージックという完成された作品に成り得る。

 日本のJ-POPには、曲のリズムを短く刻めば刻むほど、曲と詞が融合する際の“融合係数”が低下しやすいという構造的問題がある。この問題を抱えるJ-POPは、「日本人にとして、曲と詞が融合していると感じられる楽曲」という意味での、純粋な日本人のソウルミュージックには成り得ないのだろうか?

 ここで注目すべきは、日本語の持つ言語としての自由度の高さである。
 特に、擬音のバリエーションの多さとその新規創作性の高さでは、人類の言語の中でもトップクラスであることが断言できる。
 漫画『ファミリー!』の作者が語っていたが、足音ひとつ取っても、トコトコ、パタパタ、ペタペタ、ピョコピョコ、ザクザク、ソロリソロリ、スタスタ、テケテケと枚挙に暇が無く、「スッタタン」とか「ケペケペ」など、新たに作り出そうと思えばそれもまた可能だ。少なくとも英語にはこういう芸当はできない。
 ハロプロの楽曲において散見される
「上 上」=「ウエ ウエ」
といった言い回しなどに、「Yes」に代わる歌詞単語の萌芽を見る思いがしている。
(主に観客側が発する合いの手である「フワ フワ」=「ふわ ふわ」も、由来はともかく日本語的な語感があって個人的には気に入っている)
 日本語でも、「(そう)ねっ」とか「そぅ!(ね)」とか「(で)しょっ」とか「イヨッ」などの合いの手系の言葉は歯切れが良くて短いリズムにも乗せやすいと思う。「のにゅ」のような新規創作系の合いの手(?)も、個人的には大歓迎である。

 日本語の文法における鷹揚さも、歌詞を作る上の自由度を与えてくれる筈だ。
 次回はそういった面に着目し、現時点で私にとっての「日本人として心がワクワクしてくる歌」、「心も身体も踊りだす歌」を取り上げ、その魅力を語ってみたい。
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 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。

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