2017-10

『ハイド アンド シーク』

『ハイド アンド シーク』
  2005年の映画館で観た映画:9本目
  映画を観た日:2005年5月7日(土)


 この映画はダコタ・ファニングに尽きる。
 ダコタ・ファニングに関しては、以前WOWOWで放映した『TAKEN』の宣伝でチラッと見かけたときから気になっていた。『TAKEN』そのものはトンデモ系のお話だったので観るには至らなかったが、「あの可愛い子の出番のところだけは観たいな」と思わせるほど、彼女は輝いて見えた。
 あれから幾歳。漸くスクリーンで彼女の出演作を観ることになった。

 子供ならともかく、大人だったらこの映画の核心である「チャリーとは誰なのか」について、ストーリーのかなり早い段階で気付くだろう。過半数は、最初の“チャーリーの仕業”の時点でほぼ見当がついてしまうのではないか。ちなみに私は、田舎に引っ越す(新しい環境として、開かれた都市ではなく、閉じた田舎を選択した)という時点で父親を疑っていた。
 製作者側も、『刑事コロンボ』のように解答を早い段階で観客に与え、結末ではなく過程を楽しませることを重要視していたのだと思う。その“過程”とは、ダコタ・ファニング演じるエミリーの変化に他ならない。結果が分っていれば、結果を隠そうとしているエミリーの言動に注目するしかないのだ。
 私は最後のオチとして「デビットは単なる二重人格ではなく、エミリーが意図的に父親の精神を操ってチャーリーを作り出していた」というオチが用意されると思っていた。ラストで、エミリーが日記に「チャーリーは失敗作だった。今度はもっと上手に作る」と書き込むとか、そんな感じ。いわば“エミリー黒幕説”だが、この読みは外れてしまったようだ。

 それにしても、ダコタ・ファニングは魅力的だった。
 エミリーが母親の死を目の当たりにして“ビックリ眼”で固まってしまったシーンから、別カットに移って時間と場所が変わっているのに、まだその“ビックリ眼”のまま固まっているという描写。これは本来なら「可哀想だ」とだけ感じるべきところである。しかし、「可哀想だ」と同時に、青いビー玉の眼をしたフランス人形のような少女を「可愛い」と感じてしまうのである。これは、死体を美しいと感じることと同じくらい危うい受け止め方かも知れない。そんな具合に「可哀想だ」と「可愛らしい」を両立させてしまうのは、ダコタ・ファニングがルックスと演技力を兼ね備えているからに他ならない。
 階段で佇んでいるだけでも不思議と絵になってしまう、ダコタ・ファニング。少女にして、この存在感。まさにスターである。成長したら、ジョディ・フォスターに似たタイプの美人になりそうな気がする。
 彼女は、7月公開の『宇宙戦争』にも出演しているとのこと。これは見逃せない。
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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。