2017-08

平成ライダーシリーズ考 ~『クウガ』から『響鬼』まで~

平成ライダーシリーズ考 ~『クウガ』から『響鬼』まで~

 1971年に放映が始まった『仮面ライダー』は、エポックメイキングな作品であった。
 TVの平均視聴率は21%を越え、娯楽の少なかった当時、ライダーブームは社会現象と見なされるほど広く認知されていた(私はライダーブームをリアルタイムで体験しており、ライダースナックが通学路のドブに捨てられていたのを実際にこの眼で見ている)。
 『仮面ライダー』は続編が作られ、シリーズ化が図られた。
 紆余曲折を経た後、2000年に『仮面ライダークウガ』が始まり、シリーズは再開。年号が平成に変わってから初めて開始されたライダーシリーズであるため、ファン(シリーズを継続して観ているファン)は、これを「平成ライダーシリーズ」と呼んでいる。
 本日、『響鬼』が終了した。これを契機に、平成ライダーシリーズを振り返ってみたい。
 『仮面ライダー』という名を冠せられた作品の特徴として

(1)人間が変身する等身大のヒーローで、変身後も普通に言葉を喋る。
(2)変身の際に特定のポーズをとり、「変身」等の発声を行なう。
(3)ベルトを装着し、それが変身を行なうための重要なアイテムである。
(4)キックが代表的な決め技である。
(5)決め技を放つ際に技名を叫ぶ(またはアナウンスが入る)。
(6)オートバイを運転する。
(7)敵も等身大の人間に準じた存在であり、言葉を喋る。
(8)ライダーは敵と同じ属性を持っている。または、同じ属性を持つようになっていく。
(9)仮面ライダーであることのマイナス面が描かれる。

などが挙げられる。
 もちろん、全てのライダー作品が上記の特徴を全て備えているわけではない。しかし、『仮面ライダー』という名を冠せられた作品である以上、その作品は「仮面ライダーらしさ」を一定以上備えている必要がある。それがシリーズものの大前提だ。

 私の考える『仮面ライダー』の最も重要な特徴(ライダーらしさ)は、ライダーも敵も「異形ではあるが人である」ということだ。『仮面ライダー』という物語は、「異形の人vs異形の人」の闘いの物語なのだ。
 『ウルトラマン』において、ウルトラマンと怪獣は全く別の存在として登場した。しかし、『仮面ライダー』において、仮面ライダーとショッカー怪人は基本的には同じ存在として登場した。仮面ライダーもショッカー怪人も、同じ組織によって作り出された「異形の人」なのである。
 しかし、同じ「異形の人」でも、仮面ライダーは飽くまでも「人間」である。
 ショッカー怪人は、「怪人」であって「人間」ではない。
 彼らは同じく「異形の人」でありながら、紙一重で「人間」の「こちら側」と「向こう側」に分かれている。
 この「“異形ではあるが人である”者同士の闘い」という点に注目して、「平成ライダーシリーズ」を振り返ってみよう。


         「異形の人」という観点での「平成ライダーシリーズ」


 『クウガ』

 クウガの変身は、体内に埋め込まれた(吸収された)ベルトによって、グロンギの能力を人間の肉体内に再現するというものであった。
 五代雄介は、体内に埋め込まれたベルトによって肉体内部が変貌、しかもそれが時間の経過と共に進行していく。そして、更には彼の精神にまで影響が及ぶ様子が描かれた。しかし、五代はあくまでも人間として、この「精神の外側」からの「人間では無いもの」を抑え込む。
 五代は、その体内がどんなにグロンギという「異形」のものに変わろうとも、最後まで「人間」であることを守り通したまま、戦い抜いた。


 『アギト』

 「すでに仮面ライダーである男」、「仮面ライダーになろうとする男」、「仮面ライダーになってしまった男」を最初から同時に登場させ、後半には「“仮面ライダーであること”を独占しようとする男」を加え、この4つのアプローチで、「仮面ライダーとは」という要素を描こうとした。
 意欲作ではあったが、「異形の人」という要素は意外に低く、不完全な変身に肉体が蝕まれるというギルスの設定も、単なる一設定として処理されたという印象である。
 一番仮面ライダーらしかったのは、「仮面ライダーという異形の存在になろうとした普通の人間」である、氷川誠だったのかも知れない。


 『龍騎』

 登場するライダーは多いが、主人公を除くと、基本的には「自分の欲望を達成するために、人殺しに参加する」ことを自らの意思で決めている。つまり彼らは、ヒーローとしてのライダーではなく、怪人としてのライダーということだ。『龍騎』は「全編が“偽ライダー編”の『仮面ライダー』」なのだ。
 「人が人であること」とは、正義とか友情とか愛とか色々あるが、「人は、人を殺してはならない」というのが大前提である。人を殺せば殺人鬼、人殺しは人ではない。
「てめぇら人間じゃねぇ! 叩ッ斬ってやる!」
という時代劇の決め台詞があったが、「悪人は人にあらず」、だから斬っても良いと断言しているわけだ。
 彼らは五代のように「精神の外側」から「人間でないもの」になりそうになるのではなく、「精神の内側」から、「人間でないもの」に既になってしまっている。自ら「怪人」になって戦いを始めている。これは、「脳改造をされてしまったライダーはショッカー怪人に他ならない」というライダーの基本設定をなぞったものである。だから『龍騎』は、『仮面ライダー』の偽ライダー編と状況的には同じなのだ。

 『龍騎』に関して、「カードデッキを持っていれば誰でも仮面ライダーに変身できる」と評するのは、表面的にしか正しくない。作品のコンセプトとしては「自分の欲望のためには自分の手で人を殺す」という「怪人の心」を持つ人間しか、ライダーにはなれないのである。つまり、「怪人がライダーに変身している」のだ。また、戦う力を得るために「モンスターと契約する」という行為は、「自分の命を悪魔に売り渡す」という行為に部分的に通じるところがある。

 人間の仮面を被った怪人たちが、マスクを被ることで本性を露にし、最後の一人になるまで互に殺し合う。そして、偶然からライダーの戦いに巻き込まれた城戸真司だけが、自分の欲望のためではなく、己の正義感から、ライダーとして戦い続けようとする。
 素のままでも「異形の人」である者が変身した「ライダー型怪人」のバトルロイヤルの中で、「異形の人」ではない城戸が変身した龍騎だけが「仮面ライダー」だったのだ。「異形の人vs異形の人」であるバトルの中で、龍騎の戦いだけが、「普通の人間vs異形の人」であった。
 城戸が命を落とした際、その致命傷となった怪我を、ライダーからでも人間からでもなく、モンスターから受けたことは、彼が最後まで「異形の人」ではなく「一般市民=普通の人間」であったことを象徴している。そんな城戸の姿は、前作で「普通の人間でありながら、ライダーになろうとしてもがき苦しんだ」氷川の姿と重なる部分があった。


 『555』

 人間側と怪人側のドラマを、五分五分どころか怪人寄りに描いた野心作。主な登場人物はほとんどが怪人または潜在的怪人であり、普通の人間は菊池啓太郎ぐらいしかないという徹底振り。
 想像できたこととは言え、主人公が怪人に変身してしまったシーンは、それなりに衝撃的だった。
 前作では「暗喩的な怪人」がライダーに変身することで「ライダー=異形の人」というイメージを醸し出していたが、この作品ではオルフェノクという「直喩的な怪人」がライダーに変身する。
 ライダーに変身する者が実際に怪人であるため、変身ベルトが日用品同様の完全な外付けアイテムになっている点が特徴。前作のVバックルが、鏡の世界から召還する非現実的なアイテムだったこととは対照的である。
 また、前作では「ライダー vs 怪人」が実は「普通の人間vs異形の人」だったこと対し、この作品では、飽くまでも「異形の人vs異形の人」である。この点も対照的だ。


 『剣』

 ジョーカーの能力を限定的に再現する「ライダーシステム」により、人間がアンデッドの力を引き出して戦う。ライダースーツという戦闘強化服に身を包むことで、人間が怪人と同等の存在になるというわけだ。
 ただし、ライダーに変身できるのは、カテゴリーAのアンデッドと適合できる者のみ。「アンデッドとの融合係数」という要素が、物語の早い段階から最終段階に至るまで一貫して使われており、ライダーへの変身が単なる強化服の装着ではないことが、とても良く描かれていた。
 ライダーに変身する者は、人間ではあるが、「普通の人」よりも「異形の人」に近い存在。より「異形」に近い存在ゆえ、「異形の姿」を纏うことが出来るというのは、自然で分かりやすい。ライダーは、変身/変身解除によって「異形の属性」と「人間の属性」を自由に行き来できる、「境界の住人」なのだ。

 戦いの中で強くなるに従い、どんどんアンデッドとの融合を高めていく主人公・剣崎一真。
 彼は最終回にて、人類全てと「人間ではない一人の友」を救うため、自らの意思で遂にアンデッドとなる。可逆的だった変身が、非可逆的な変身となってしまったのだ。ライダーとしての変身の象徴であるバックルを外した箇所に、なおも存在するジョーカーのバックルは、彼が二度と人間には戻れなくなったことを無言かつ強烈に示していた。

 人間からアンデッド側へと移った剣崎と入れ替わりに、アンデッドであるジョーカーは人間・相川始として生き続ける道を与えられる。しかし、始がアンデッドであり、年を取らない不死の存在であることは変えようがない。
 アンデッドという「異形の人」のまま、「人間」として生き続ける道を得た始。
 アンデッドという「異形の人」に変わり果てようとも、心だけは「人間」で有り続けた剣崎。否、「人間」の心を持ち続けたが故、アンデッドという「異形の人」に変わり果てる道を選んだ剣崎。
 なんとも哀しいハッピーエンドである。


 『響鬼』

 鬼=異形の人というイメージはあるが、実はこの作品の鬼は極めて普通の人に近い。
 自分の肉体を変貌させて鬼に変身するとはいえ、それによる副作用は特に無い。
 鍛えているとは言っても、内容は「一昔前のスポーツ選手のトレーニング」と本質的には同じ。
 鬼として戦うということも、会社のように組織化された中で、害獣駆除の現場作業を担当するということに過ぎない。軍・警察・消防・建築土木その他の危険な職種に勤務する「普通の人間」と、基本的には同じなのだ。
 例え鬼であっても、自分の意思で鬼を辞めることも出来るし、組織を離れることも出来る。現役中も引退後も「普通の人間」として何不自由なく暮らしていけるし、鬼から別の全く別の職に転職したとしても同様である。

 鬼が「異形の人」として描かれていないのは、鬼の敵である魔化魍が「異形の人」ではないからである。人の姿をした童子と姫も基本的には1回限りのキャラクターであり、実際には人と言うより消耗品に近い。自意識に目覚め、「異形の人」となった超童子と超姫が物語の中で行き場を失い、二人きりで自壊せざるを得なかったのは象徴的である。
 「異形の人」云々以前の問題として、この作品は、敵味方の対比のドラマという要素が基本的に欠落していた。
 例外は、シュキとザンキ。この二人だけは、「異形の人」であった。超童子と超姫同様、やはり二人とも最終話を待たずして死亡している。
 『響鬼』という作品は、仮面ライダーシリーズでありながら、「異形の人」の存在を許さないような世界観を有していたのかも知れない。


       戦いにおける「攻防」、「カッコ良さ」、「強さの序列」

 “仮面ライダー”という物語は、「異形の人vs異形の人」の闘いの物語だと書いた。
  物語である以上、そこにドラマが発生するのは当然であるが、単なる人間ドラマは“仮面ライダー”の潤滑油に過ぎない。“仮面ライダー”は、飽くまでも「闘いの物語」であり、闘いと闘いが織り成すドラマが核なのだ。
 闘いとは、即ち「攻防(攻守)」である。そこに求められるのは、超人技としてのヒーローアクションであり、「カッコ良さ」であり、「強さ」である。
 凡人にはとても太刀打ちできない強さを持つ「悪の超人」が我々をおびやかし、それを上回る強さを持った「正義の超人」が我々を守って戦う。その強さには理由がある。勝利にも敗北にも、理由が存在しなければならない。我々は架空の世界に、より強い敵の出現を求め、ヒーローには更に強くあることを求め続けるのだ。
 そして、その闘いには、物語全体を貫く「テーマ」が内包されていなければならない。
 「平成ライダーシリーズ」で描かれた「闘い」には、どんな特徴があったのだろうか。


 『クウガ』

 物語を貫く「闘いのテーマ」は、グロンギが仕掛ける「ゲーム」であった。
 そのスタイルは、先ず下位の敵キャラが現れ、段階的に上位の敵キャラが登場し、最後にボスキャラが出てくるという古典的なもの。古典的ではあるが分かりやすく、敵がだんだん強くなっていくという展開は見るものを惹きつけた。
 クウガのアクションの特徴は、スムーズなフォームチェンジである。相手の特性に応じて自分の変身形態を一瞬にして変えることが、戦いにおける攻防の基本そのものでもあった。スピードに優れたフォームはパワーが劣るという描写が明確になされたことは、特筆に価する。披露したフォームも、白・赤・青・緑・紫・金の赤・金の青・金の緑・金の紫・黒・究極の黒など、実に多彩であった。

 クウガのカッコ良さは、まるで一人のライダーに昭和ライダーの全ての魅力を詰め込んだようなフォームの多様さに拠る部分が大きい。裏を返すと、アクションそのものには、突出した一つのカッコ良さはない。バイクアクションも頑張ってはいたが、所詮人間技の域を出ていなかった(超人技の域に達していなかった)。
 警察という組織のバックアップはあったものの、クウガはたった一人で最期まで戦い抜いた。クウガのカッコ良さの真骨頂は、この「たった一人で戦い抜くことのカッコ良さ」にある。ライダーが独りである以上、その強さは相対化されない。クウガの強さが、ライダーの強さであった。


 『アギト』

 「正統系」、「メカ系」、「生物系」の3人のライダーが最初から登場、後半には「リアル系」を加え、合計4種類の仮面ライダーが活躍した。この作品もまた、一つの作品に昭和ライダーの全ての魅力を詰め込もうとしたと言える。
 ただし、主役の「正統系」ライダーに関しては、そのコンセプトが前作を引き継いだものであるため、二番煎じの印象を拭えなかった。視聴率の高さとは裏腹に玩具の売り上げが前作を大きく下回ったことは、このことが最大の原因だろう。

 アギトのアクションの特徴は、「普通の人間が変身する仮面ライダー」であるG3を、やられ役として使ったことである。これは、ライダーが一人しか登場しない前作には出来なかった演出である。
 アンノウン出現を受けて、まずはG3が登場。善戦空しくG3がボコボコにやられたところで、アギトが颯爽と登場。苦戦はするものの、BGMが切り替わると同時に怒涛の反撃を開始し、一気にフィニッシュに持っていく。この王道パターンは、何度見てもカッコ良かった。

 多彩なフォームチェンジでパワーアップしていくのは主役のアギトだけであり、最強のライダーが彼であることが明確であったことも評価できる。登場当初は強かったアナザーアギトが、パワーアップしたギルスに一敗地にまみれるところも、強さの序列を明確に表現していた。

 この作品では、あかつき号の謎解きが、アギトやアンノウンの謎解きとリンクしていた。『アギト』は「戦いの物語」である以前に「謎解きの物語」でもあったのだ。あるいは、『アギト』は「謎」と戦う物語だったのかも知れない。


 『龍騎』

 「攻防」に関しては、最も良く描けていた作品である。
 前作との差別化の必要性から、フォームチェンジを最小限に抑えた代わりに、仮面ライダーの技を多様化させている。その多様さも、ただ闇雲に多いのではない。「ソードベント」、「ガードベント」、「ストライクベント」などの共通の性質を持つ技(基本技)と、「フリーズベント」などの各ライダー独自の技(特殊技)が組み合わされており、技の体系が構成されていた。体系化されていれば、技の数が多くても分かりやすいし、面白い。

 従来のライダーキックに相当するフィニッシュ技であるファイナルベントは、自らのシンボル(厳密にはモンスターのシンボル)が描かれたカードを使った、文字通りの切り札である。このファイナルベントも、ライダーごとの多様さが描かれていた。
 ファイナルベントの基本構造は、技のベースとなるパワーの部分をモンスターが受け持ち、技のテクニックの部分をライダーが担当するというものだ(ゾルダに至っては「狙いを定めて引き金を引く」という、純粋に技術のみの部分しか担当していない)。ファイナルベントは「力と技」という仮面ライダーの定番を受け継ぎながらも、新しい表現方法を確立した、モダンスタイルの“必殺技”と言えるだろう。

 カードを使うことで、戦いにメリハリと説得力が生まれていた。
 ベルトからカードを取り出す(動作・効果音)→カードの絵柄が一瞬見える(映像からイベントを予測)→召還機にセット(動作・効果音・音声ガイダンス)という一連の流れは、これから繰り出す技の予告(予測)シーケンスとして滑らかに機能し、ヒーローの所作として実に良くハマッていた。これがアクションに組み込まれることで、小気味良いメリハリを生んでいた。
 そして、相手が「シュートベント」を使ったら、自分は「ガードベント」でそれを防ぐという攻防。単純であるが、これこそが基本であり、重要である。いくら技が豊富であっても、互にただ技を出しっ放しにしていたのでは、そこに攻防はなく、戦いの面白さは見出せない。戦いの中で「相手がこう攻めてきたら、自分はこう切り返す」、「相手にこう切り返されたら、自分はこう受ける」といった攻防が展開されるからこそ面白く、説得力があるのだ。

 多数のライダーが存在する以上、その強さの序列が注目される。この作品の答えは「それは、戦い方によって変わる」というものだった。
 タイガの強さの変化が、その典型である。「フリーズベント」という特殊技を持つタイガは、相手のファイナルベントを封じた直後に、自らのファイナルベントを発動させるというパターンで、王蛇とゾルダとの初戦に勝利した。しかし、王蛇との再戦では、フリーズベントを使った直後に2体目のモンスターを召還されるという展開に持ち込まれて敗退。ゾルダとの再戦では、フリーズベントを使う展開に持ち込むことが出来ずに敗退。
 王蛇もゾルダも、初戦はタイガの勝ちパターンに嵌められてしまったことで敗退し、再戦はその勝ちパターンを崩したから勝利したのだ。このように「作戦」レベルの「攻防」が描かれていたことも、この作品の魅力であった。

 『龍騎』は、『クウガ』以上に最初から物語の終わり方が明確に提示されていた。闘いのテーマは、「13人のライダーバトルによって、誰が最後の一人として生き残るのか?」である。これは「グランドホテル形式のサバイバル物語」であり、基本的には災害映画の王道パターンだ。
 「誰が一番強いのか?」ということが、必ずしも「誰が最期まで生き残るのか?」とイコールではない。この部分におけるシンプルな爽快感の欠如が、この作品の構造的欠点でもあり、独特の味わいでもあった。


 『555』

 前作に引き続き、ライダーの必殺技の“新しい表現”を観ることが出来た。
 ライダーキックを放つ際、脚に装着したアイテムから錐状の衝撃波を思わせる光が先んじて生成され、ライダーはその衝撃錐と一体となってキックを決める(衝撃錐を蹴り込んで突入する)というものだ。この「クリムゾンスマッシュ」は、必殺技を、
“技に付加価値を与えるハードウェア”
“技の付加価値を起動させるソフトウェア”
“技の主たる効果が、技そのものに先行して発現する”という視覚効果
の3つに因数分解して表現したものである。これは、『龍騎』のパターン(ハードウェア→召還機 ソフトウェア→カードの絵柄 技に先行する効果→音声ガイダンス)の発展形とも言える。
 身体に走る光のラインというデザインも含め、視覚的なカッコ良さでは平成ライダーシリーズでも最高レベルにある。

 「カウンターのボディブロー」が決め技であったり、相手の自由を奪ってから決め技を見舞うなど、どどめの一撃には説得力のあるものが多かった。ただし、技の攻防ということに関しては、『龍騎』のように印象に残ったものがない。
 「人間と怪人の共存」が闘いのテーマであったように思えたが、「オルフェノクの王」の話が出てきたことによって焦点がぼやけてしまった感がある。もっとも、一貫して描かれ続けた「ベルトの争奪戦」こそが、この闘いの本当のテーマであったのだろう。


 『剣』

 『龍騎』のカードバトルを基本的には踏襲した上で、『555』の「アイテム(カード)の争奪・収集」という要素も加え、複数のカードを同時に使うことによる「コンボ」も取り入れた意欲的な作品。
 しかし、直感的な「分かりやすさ」に欠け、更には「攻防」が不足してため、魅力的な戦いを描けなかった。

 最大の問題は、カードを使った際の絵的な説得力の不足である。『龍騎』に比べてライダー一人当たりのカードの数が多い上、カードの効果が「アイテムの召還」といった即物的なものではなく「効果の発生」といった抽象的なものとなっている。このため、相応の配慮が必要だったのだが、それが充分ではなかった。
 ギャレンを例に取ると、カード無しの射撃、「バレット」の単独使用、 2枚コンボの「バレット」+「ファイア」、3枚コンボの「バレット」+「ファイア」+「ラピッド」に、明確な「技としての差」・「威力の差」が感じられない。
 本来なら、「バレット」を使ったら銃弾が砲弾になったような絵、「ファイア」を使ったら焔に包まれたミサイルのような絵、「ラピッド」を使ったら間断なく無限に撃ち続けるような絵といったような、「パッと見で明らかに分かる」絵的な違いを描写するべきだった。
 良かった例としては、2枚コンボの「ドロップ」+「ファイア」から3枚コンボの「ドロップ」+「ファイア」+「ジェミニ」のグレードアップぐらいしか思い浮かばない。キングフォームの5枚コンボなどは、どれも絵的には同じ印象で、技の差別化が全くと言って良いほど感じられなかった。

 カードを使うことで、ライダー自身ではなく、「技」そのものが戦ってくれている(自分の代わりにカードに戦ってもらっている)ような印象があったのも問題だった。技はただ「出す」だけではなく、意思を以って「駆使」することが重要なのだ。「異形の人vs異形の人」の闘いとは、「人の意思」による「人の力」を超えた闘い、全面的・全人格的な戦闘でなければならない。

 新機軸であるコンボを重要視するあまり、「シュートベント」という攻撃を「ガードベント」で防御するといった、基本的な攻防がおろそかになっていた。コンボで単に「技」を組み合わせているだけでは、盲目的な技の羅列でしかない。
 相手の出方によって自分の出す技を変える、コンボの組み方を臨機応援に変化させる。あるいは、決め技のコンボを犠牲にしてでも、必要に迫られればカードの使い方を変える。そうした演出が、ほとんど見られなかった。
 「ジェミニ」による分身を、攻撃ではなく防御に使うとか、相手の煙幕を「スコープ」で透視するとか、「チョップ」+「トルネード」と「ビート」+「サンダー」が相打ちになるとか、見せ方は幾らでもあった筈である。

 また、4人のライダーの強さの序列が曖昧であったことも、闘いの魅力を減じていた。
 最強のライダーとして登場したレンゲルの異様なまでの弱体化や、最強のアンデッドである筈のカリス(ノーマル状態)の強さが不明確であったりしたことは、戦いにおける重要な価値である「強さ」を曖昧にしてしまった。

 闘いのテーマは「全てのアンデッドを封印することによって人類を守る」と、「ジョーカーの封印を回避することにより、友となった始を救済する」という、相反する二本立て。この組み合わせは、シンプルながらも完成度は高く、闘いが物語を牽引するというスタイルを貫くことを可能とした。


 『響鬼』

 平成ライダーシリーズの中で、「闘い」に関しては最低の出来である。詳細は、『仮面ライダー響鬼』は失敗作である(駄作ではない) に書いたので、ここでは繰り返さない。
 付け加えるならば、鬼に関して当初は存在した「専門に分業化された戦いの職人」というイメージが、夏の魔化魍の件で覆されてしまったことは残念だった。以降、管の使い手である威吹鬼が、身体はほぼヤマアラシであるナナシを音撃できてしまうなど、なし崩しに鬼の個性の希薄化が進んでいった。

 闘いのテーマも不明確だった。敵の目的は分からないし、ライダー側が敵をどこまで知っているのかも伝わってこない。戦いが最終的にどう決着するのかという見通しが、作品終盤まで見えてこない。
 これらは一概に欠点とは言えない(視聴者に結末を予想させない)けれども、長所には映らなかったというのが正直な印象である。


                  仮面ライダーの属性

 『仮面ライダー』のライダーは、ショッカーによって改造人間にされてしまい、普通の人間ではなくなってしまった悲哀を抱えていた。ヒーローになったことによる直接的な影の部分が描かれている点は、仮面ライダーを他の特撮変身ヒーローと差別化している一つの要素であると思う。
 また、多くの石ノ森作品ヒーローの特徴でもある、「ヒーローが悪側と同じ属性を持つ」という要素は、仮面ライダーにも取り入れられている。
 この二つに関しても、「平成ライダーシリーズ」を簡単に振り返っておこう。

 『クウガ』では、実質的には「進行性の改造人間」であり、むしろ昭和ライダーより悲惨である。その属性も、グロンギと同質であった。

 『アギト』では、その力を持つものがアンノウンから抹殺・根絶やしの対象にされた。本質はアンノウンに対抗するための存在であるが、普通の人類から見ればからアギトとアンノウンは「超常なるもの」という意味で同属である。

 『龍騎』では、ライダーはモンスターと契約することで、モンスターと同じ属性を持つことになる。騎士風デザインのイメージが強いが、属性的には「半人半獣」である(変身している者自身の人間としての属性に変化は無いが、殺人を前提にしてライダーになった者は悪魔と契約したも同然である)。一度ライダーになった者は最後の一人になるまで殺し合わなければならず、離脱すれば契約したモンスターの餌食となる。

 『555』では、オルフェノクまたはその刻印を持つ者しかライダーに変身できない。カイザの場合はそれに加え、充分に適合できない者は変身解除後に即死に近い死を迎えるという最悪のリスクを伴う。デルタの場合は、充分に適合できない者は覚醒剤中毒者のような状態に至る。

 『剣』では、人工的・限定的にアンデッドの属性を再現したものがライダーである。ライダーの能力を高めることは、よりアンデッドの属性に近づくことであり、剣崎は自らを犠牲にしてこれを逆に利用することで世界を救った。また、ライダーに変身している者が恐怖を抱いた場合、その肉体は蝕まれてしまう。

 『響鬼』では、鬼になることのデメリットは存在しない。属性の面でも、基本的には敵とは別物である。僅かに、式神(DA)を使役する術に、敵側と共通する部分があるように思える程度。例外は、シュキとザンキであるが、これも程度の差といったところ。


                「平成ライダーシリーズ」の光と影


 TVシリーズの連続期間という部分では、「平成ライダーシリーズ」は既に「昭和ライダーシリーズ」を越えている。これ自体は立派なことだし、めでたい事である。
 しかし、『クウガ』の不幸は、やはり仮面ライダーシリーズの1作として作られてしまったことであろう。
 もし、『クウガ』が仮面ライダーではない全く新しい変身ヒーローとして世に問う形を採っていたとしたら、『ガンダム』のようなエポックメイキングな作品になっていた可能性も否定できない。作品性だけに着目すれば、8才以下の児童や未就学児だけではなく、中学生やそれ以上の層もまた、視聴者の核を構成していた余地はあったと思う(実際に放送された『クウガ』そのままの内容では困難であるが、最初からそうした狙いで創られていたとしたら…)。
 『牙狼』のような深夜枠なら、再放送で人気が出るという『ガンダム』のパターンを再現できたかも知れない。

 特撮作品における『ガンダム』と呼べる作品は、今のところ存在していない。
 そして、仮面ライダーシリーズが『スーパーヒーロータイム』という枠で放映されている間は、中学生やそれ以上の層が視聴者のマジョリティになる可能性は、限りなくゼロに近い。
 
 子供番組として生まれた『仮面ライダー』のシリーズ作品が、現在も子供番組として創り続けられることに、異を唱える必要など何処にも無い。
 それでも、大人になったかつての子供は、『仮面ライダー』の系譜を継ぐ作品が、今の自分に相応な仕様で世に出ることを望んでしまうものなのだ。
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コメント

TBさせていただきました。
自分の拙い思考の軌跡をきれいにまとめてもらったような気がします。

ライダースナック、まずかったですもんねぇ(笑)朝礼で校長先生の注意を聞きながら、美味しかったら捨てないのにと思ったもんです。

クウガがガンダムになり得たかも、というのは驚きました。確かにそうかもしれません。が、仮面ライダーとしてのクウガの大ファンである私としては、放映されたままの形が好きでしたので、深夜枠は哀しいかも…(笑)まさに「大人になったかつての子供は、『仮面ライダー』の系譜を継ぐ作品が、今の自分に相応な仕様で世に出ることを望んでしまう」の典型ですね。

 コメントとTBありがとうございます。
 ライダースナック、私は甘党なので、袋の半分くらいまではそこそこうまいと思って食べていました。ただ、一袋全部食べると、もういいかという感じでした。あれ、結構量がありましたから。

 私も、『仮面ライダークウガ』は平成ライダー、いや仮面ライダーの中でも相当好きな作品です。もちろん、現時点のチビッコたちにも、そのままの『仮面ライダークウガ』を観て欲しいと思っています。

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仮面ライダー響鬼 最終回

仮面ライダー響鬼 最終回『明日なる夢』1年後・・・・って、えぇえええ~~~~ΣΣ┗(|||`□´|||;;)┛恋愛ドラマさながらの、見ていてこっちが照れてしまうくらいの出会いと

響鬼は仮面ライダーではなかった

感想:最終之巻 および総括最終回を見て、こんなにほっとした仮面ライダーもなかったと思います。もちろん全ての仮面ライダー作品を見た訳ではありませんが。まず、完全なハッ

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。