2017-08

『SHINOBI』

『SHINOBI』
  2005年の映画館で観た映画:25本目
  映画を観た日:2005年10月8日(土)

 映画館で予告を見て、「邦画としては頑張っていそう」な感じがしたので、前売り券を買った。もっとも、今年観た映画のほとんどが、前売り券を買って…というパターンなのだが。
 観ようと思ったもう一つの理由は、オダギリジョーが主演しているから。『クウガ』以来となる、久振りの正統派ヒーローを演じるようだったので、興味が沸いたのだ。

 映画を観終わってパンフを開くまで、この映画が小説を原作にしていることも、既に漫画化されていることも知らなかった。何の先入観も予備知識も持たずに映画を観たので、純粋に映画として楽しめた。

                 (これ以降、ネタばれ有り)  映画を観終えた後で思えば、面白い部分、ダイナミックな部分が映画の前半に集まってしまっている。しかし、実際に映画を見ている最中は、後半もそれほど退屈ではなかった。それは、結末がどうなるのか、それこそ最後まで読めなかったからである。

 この作品の構造的弱点は、伊賀の忍者も甲賀の忍者も、キャラの初期設定が基本的には同じである点だ。主役の弦之介以外は、全員「戦うことにしか己の生きる意義を見出すことが出来ない」というキャラで統一されている。強いて言えば、朧がやや弦之介寄りのキャラであるに過ぎない。
 登場人物の数は多いが、その種類としては2ないし2.5種類しか存在しないのだ。これは、アクションものとしても、極限的に単純である。格闘ゲームのキャラでも、家族のためとか自分の野望のためとか、各人が何がしかのドラマを背負わされているのが普通であるのに、この映画にはそれがない。
 純粋に「戦うのみ=生きている武器」であるキャラは、物語前半で戦うだけ戦って消えてしまう。後半は、少しだけ付加価値のある蛍火、天膳、陽炎が、その付加価値を発揮していく。

 そして物語の実質的なラストシーンでは、それまで「生きている武器」としての運命に流されて行動してきた朧が、里に残された仲間の命を救うため、その運命に初めて逆らう。一人で大軍に匹敵する最強の「武器」としての能力を持ちながら、その「武器」を自らの手で破壊したのだ。自ら「能無し」と化した姿を晒したまま、なおも仲間の助けを請い続ける。完全な自己否定による、完全な利他行為である。
 存在価値を喪失してなお生きていくことは、死ぬことよりも遥かに過酷だ。切腹をも凌駕する行為を見せられて、武士である家康は心を動かされる。これは説得力のある描写だった。
 それまで、弦之介以外のキャラが、「武器は、しょせん武器として生きていくことしか出来ない」というキャラで統一されていたからこそ、最後に朧が見せた行為が強烈に映った。朧が最初から弦之介のような理想主義者だったら、この結末にここまでのインパクトはなかっただろう。

 「武器でしかないもの」が「武器であること」を捨てる。これは、平和への究極の選択肢である。武器を捨てなければ、本当の平和は来ない。武器が存在しない世界こそ、本当の平和な世界。理想論に過ぎないが、その理想論を、言葉ではなく壮絶な行為で体現したこの映画は、娯楽作でありながら一つのテーマを描き切ったと言える。

 ある人に薦められて、コミックスも読んだ。映画とは展開もテイストも違っており、こちらも楽しめた。コミックス→映画という順番で観たその人は、コミックスと比較して映画を低く評価しており、映画は余り楽しめなかったようだった。両方楽しめた私は何だか申し訳ない気もするが、これも運というか巡り合わせの妙。今回は、自分にしては珍しくツイていたのだと思う。
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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。