2017-08

『機動戦士ガンダムAGE』DVD(ブルーレイ)第9巻の感想

『機動戦士ガンダムAGE』DVD(ブルーレイ)第9巻の感想

『ガンダム』とは、戦場という「大人の世界」に放り込まれた少年達が、葛藤し傷付きながらも成長し、「新しい世界」の可能性を模索する物語である

 某所でのDVDレビュー用に、ちょっと記事を書いてみる。
 ついでに、このレビュー用記事を書いた人、即ち私の画像(アセム編のフリットのコスプレ)もup。よしさん(カメラマン)に撮って頂いた画像を自分でトリミングしました。コスプレ_ガンダムAGE_フリット・アスノ(アセム編)_10
 カメラマンさんに撮ってもらうと、通常の写真の3倍はカッコ良くなるなぁ…
 さて、本題に入ろう。

 ファーストガンダムの第8話『戦場は荒野』にて、
「ガルマ大佐はまだお若い…俺達みたいな者の気持ちは分からんよ」
と言った後、地球連邦の避難民親子に対し、独自の判断で救援物資を投下するジオン偵察機の中年パイロット。
 同第14話『時間よ、とまれ…』で、
「よぉ! 爆弾を外した奴って、どんなバカかな?」
と言った後、民間人を装ってわざわざアムロの顔を見に来た若いジオンの兵士達。

 彼らは1話限りの脇役でありながら、中学生だった当時の私に強烈な印象を残している。
 彼らの共通点は、当時の私にとって、大人だったということだ。
 彼らの有する大人の感覚、大人の感性、大人の考え方、大人の世界。
 それは即ち、男の感覚、男の感性、男の考え方、男の世界でもあった。

 それが、当時中学生だった私にとっては、たまらなくカッコ良かった。
 『機動戦士ガンダム』におけるカッコ良さは、単にメカのカッコ良さだけではではなく、「大人のカッコ良さ」であり、「男のカッコ良さ」でもあったのだ。それは勿論外見的なカッコ良さではなく、人間そのもののカッコ良さだ。
 そして、そんな大人の世界、男の世界を毎週垣間見ることが出来る場所、それが『機動戦士ガンダム』の世界だった。だから、『機動戦士ガンダム』は当時の少年達の心を掴み、彼らの支持を得たのだ。

 その一方で、「大人のカッコ悪さ」、「大人の醜さ」が描かれていたことも忘れられない。
 リュウという大切な仲間を失ったことを含め、アムロ達ホワイトベースのクルーがどんなに苦労してジャブローに辿り付いたかを知ろうともせず、「二階級特進」という形式的な処理だけで済ませてしまう、軍務官の鈍磨した感性。
 提督クラスは、もっと酷かった。
「ホワイトベース、つけられ(尾行され)ましたな」
「ああ、永遠に厄介者だな、ホワイトベースは」
 ジャブローという安全な場所に引き篭もっている連中が、その言い方はないだろう!
 ホワイトベースが尾行されたのは事実だが、単艦で激戦を潜り抜け、ジャブローまで辿り付いただけでも賞賛に値するじゃないか!
 観ていて、そんな憤りを禁じ得なかったことを覚えている。そうした憤りや反発は、それまでアムロがずっと燻らせてきた大人に対する感情とシンクロする。

 『ガンダムAGE』では、大人に対して「対立する(反抗をする)側」に立っていた少年が、大人になって今度は少年から「対立される(反抗を受ける)側」に立つことになるという、立場の逆転が起こる。それが最も顕著なのがフリットである。

 フリット編のフリットは14才の少年であり、周囲は(ウルフのような若い大人を含め)ほとんどが大人。フリットはそんな大人の世界に飛び込み、対立したり理解し合ったり、大人と渡り合っていく少年だった。そんなフリットに、「大人としてのネガティブな要素」は皆無である。
 アセム編のフリットは40才前後の大人になっており、年齢差こそ変わらないものの、ウルフやグルーデックとは同じ大人同士、同じ側の人間となっている。そこでは、息子であり少年であるアセムから尊敬されたり反発されたりと、少年からのベクトルを受ける立場に立たされる。
 40才になったフリットは、聡明な司令官でありエース級パイロットでもあるという「大人としてのポジティブな面」と、ヴェイガン抹殺を全てに優先させようとする「大人としてのネガティブな面」の両面を持つようになったのだ。

 キオ編のフリットは70才、大人の世界でも最年長の部類に属する。ウルフやグルーデックは亡くなっており、かつて自分より大人だった人はもういない。40代のときは、相対的な意味での「少年」側に立つことが有り得たが、それももう出来ない。
 更にフリットは、息子であるアセムとの対立、息子の息子であるキオとの対立という、二重の対立を受ける立場に立たされることになる。
 現役から退いたことで「大人としてのポジティブな面」が縮小され、ヴェイガン殲滅に対する執着度を強調することで「大人としてのネガティブな面」が拡大している。これは、アセムが海賊という反体制側のキャラクターになったことで、完全に大人になる(大人の社会に組み込まれる)ことを拒んでいることの反映でもある。アセムがモラトリアムにいる為、本来アセムが背負うべき「大人としてのネガティブ」の分量までもフリットが背負うことで、キャラクター間のバランスが取られているのだ。

 また、アセムと対になる存在のゼハートが、上官としてのカッコ良さを発揮していることも、大人のキャラクターのバランスに寄与している。
 キオが、そのゼハートを飛び越して、直接イゼルカントという大人と対話・対立している構図も面白い。これは、ゼハートとアセムが対立するとき、彼らが大人同士というよりは、大人と少年の中間である青年の立場で対立していることを意味しているのかも知れない。

 大人であるフリットとイゼルカント。
 少年であるキオ。
 その中間に立つ(大人であり青年でもある)アセムとゼハート。
 このキャラクターの三層構造の中で、「大人のカッコ良さ」、「大人の醜さ」が交錯し、せめぎ合う。
 キオ編で垣間見る「大人の世界」は、絶妙なバランスの中で展開されているのだ。
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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。