2017-08

『機動戦士ガンダムAGE』ブルーレイ(DVD)ディスク第7巻の感想

『機動戦士ガンダムAGE』ブルーレイ(DVD)ディスク第7巻の感想

君は、“精神的に成長しない「ただ強いだけの子供」”として死んでいくのか?

 今まで1話ごとにupしていた感想を、某所のレビュー用にまとめてみる。
 ついでに、このレビュー用記事を書いた人、即ち私の画像もup。
ガンダムAGE感想記事用画像_1
 このパターン、いっぺん撮っておきたかったんだわ。とりあえず3パターンまとめて撮ったので、次回のまとめ記事は『AGE』と『Ζ』、次々回のまとめ記事は『AGE』と『ΖΖ』で決まりね。


 第23話『疑惑のコロニー』

 第22話では、地球連邦とヴェイガンの間で行われている戦争が、地球という“聖地”の所有を争う領土戦争としての性格を持っていることが描かれていた。
 以前、フリットの口から、ウェイガンは地球連邦側からの和平交渉をことごとく撥ねつけたという旨が語られていたが、その講和条件の具体的な条件に関しては触れられていない。
 地球をヴェイガンに渡せば戦争は終わる。しかし、それが出来ないから戦争が続く。
 「地球を渡せ」と言うヴェイガンが正しいのか、「地球は渡せない」と言う地球連邦が正しいのか。
 対立とは、どちらかが間違っているから起こるのか。それとも、どちらも正しいから起こるのか。
 今回は、フリットとアセムの親子の対立を通して、「正しさ」の難しさが描かれている。

 コロニー内にある施設がヴェイガンに協力しているとの報告をウルフから受けたフリットは、その施設を制圧するため、モビルスーツの出撃を命令する。
 しかし、民間施設の密集したコロニー内でモビルスーツ戦を行えば、一般市民にも被害が出る。市民を戦闘の巻き添えにしたくないアセムは「モビルスーツを出すより、他にやれることがある筈」と抗議するが、フリットは完全に却下。納得できないアセムは出撃命令を無視し、身一つでディーヴァを出て行ってしまう。

 ところが実際には、ヴェイガンに協力していた施設からもヴェイガン側のモビルスーツが出撃していた。もしもディーヴァ側がモビルスーツ以外の戦力で作戦をスタートさせていたら、ウルフとミレースを救出することが不可能だっただけではなく、到着した部隊そのものが全滅していたところだった。最初からモビルスーツを出撃させるというフリットの判断が、ウルフやミレース達の命を救ったのだ。(アデルをタイタス装備で出撃させたことが、民間施設に対する被害を最小限に抑えようとする配慮だったかどうかは不明)
 しかし、フリットが制圧作戦にモビルスーツを投入したことで、市街地にまで被害が及んだこともまた事実。アセムと彼を追って来たロマリーは、その被害に巻き込まれ、一つ間違えば死んでいたところだった。

 対立したフリットとアセム。どちらも間違いではなかったが、正解でもなかった。
 これはコロニー内戦闘における一局面に過ぎないが、この「どちらも間違いではないが、正解でもない」という状況は、戦争のいたるところで起きているだろうし、それが戦争そのものだとも言える。

 ディーヴァに戻り、独房入りとなったアセム。ウルフから「逃げ出して何か答えは出たか」と問われ、最後には答に詰まって壁を叩く。大人に囲まれ、大人のやり方や理屈に反抗しながら、成長しようともがく少年の姿がそこにあった。

 そして、軍刑務所から出所したグルーデックが、フリットとの再会を果たす。
 かつては“大人と少年”だったグルーデックとフリット。あれから26年の歳月が過ぎ、今や渋い男同士となった。
 これは、現在進行形で“大人と少年”であるウルフとアセム、あるいはフリットとアセムとは対照的である。同時に、26年後には、ウルフとアセム、あるいはフリットとアセムもまた、渋い男同士となることを想像させる。二つの意味で時間を感じさせる、良い流れだった。


 第24話『Xラウンダー』

 独房入りから解かれたアセムは、当て所もなく街へ出る。
 道端でふざけ合う学生達を見て、ゼハート達と過ごした自分の学生時代を思い出し、溜息をつく。
 流されるようにして歩き着いた川辺で、アセムはゼハートと再会した。

 仮面を外して直にアセムと向き合ってもなお、ゼハートは「私」という一人称を使う。
 コクピット越しに初めて「私」と言われたときは憤っていたアセムも、それを聞き流す。
 この時点で、二人の間にはコクピットと同様の壁が存在していることを感じた。

 ゼハートはゼイドラでアセムのAGE-2と戦った際、アセムに対して初めて「私」という一人称を使った。それを聞いたアセムは「“私”って何だよ?! そんな言い方!」と怒りを露にした。それでもゼハートは「私」という一人称を使い続けた。
 アセムのAGE-2を戦闘不能にし、ビームサーベルでコクピットを狙って見せた後、ゼハートは「二度と俺の前に現れるな」と言い残して去った。最後の最後に「私」ではなく「俺」と言ったのだ。
 今度現れたら、「私」ではなく「俺」がお前を殺す。そのときは、そういう意味に聞こえた。ヴェイガンの司令としての「私」ではなく、かつて友達だった「俺」としてお前を殺すのだと。

 ビッグリング攻防戦で再びアセムのAGE-2と戦った後、既に交信が出来なくなった状態で、ゼハートは「アセム、次に合うときはお前を殺す。私が私でいるためにもな…」と呟いた。
 アセムを殺すのは、「私」なのか「俺」なのか。
 本当のゼハートは「私」なのか「俺」なのか。
 普通に考えれば、「私」が本当のゼハートだろう。アセムに出会う前のゼハートは、ずっと「私」として生きてきたのだから。
 だが、それなら何故、アセムを殺さないと「私が私でいられなくなる」のか。もし、ゼハートが本質的に「私」であるならば、アセムを殺せなくても「私」でいられる筈だ。そもそも、アセムを殺すことを躊躇する筈がないではないか。
 そして、もしも「私が私でいられなくなった」としたら、その時ゼハートは何になるのか。それこそが真のゼハートではないのか。

 アセムの自我にも、ゼハートと同じような矛盾が見られる。
 ビッグリング攻防戦の最中、ゼハートから
「父に追いつくために、自分のために戦っている」と指摘されたアセムは、
「違う、自分のためなんかじゃない! 俺はヴェイガンから皆を、地球を守るために戦っているんだ」と力強く反論する。
 ところが、ヴェイガンが撤退して戦いが終了すると
「俺は…皆のために…自分のためなんかじゃない…」と、コクピットで自分に言い聞かせているアセムがいた。
 そして今回、生身で向き合ったゼハートから、“戦わない道”を選択するよう説得されると、アセムは前回とは真逆の反論を展開する。
「俺には何も無いんだ。戦って結果を出さなきゃ、誰も俺を認めてくれないんだ」
 常に父と比較され続け、父からも期待され続けてきたアセムの悲痛な叫び。しかし、「戦って結果を出し、皆から認められる」ことを、アセムは本心から望んでいるのだろうか。ゼハートの言う通り「優しい、私が好きだった友達のアセム」こそ、本当のアセムなのではないのか。

 ゼハートは、優しいアセムが地球連邦軍のパイロットになるとは思っておらず、自分がヴェイガンに戻ってもアセムと戦場で直接相見えることはないと信じていたのだろう。アセムはゼハートに一方的に裏切られたと感じているようだが、ゼハートからすれば、先に裏切ったのはむしろアセムの方なのだ。 
 
 AGE-2の新しいウェア、ダブルバレットにも言及しておかなければならない。
 ネタばれ無し(原則としてTV放送以外からは情報を入手しない)で視聴していた私には、ダブルバレットのインパクトは大きかった。オープニングやCMの映像を観て、てっきり中~長距離における砲撃戦に特化した大火力型のウェア思っていたら、敵の接近に応じて砲身部分をパージし、大型のビームサーベルアームに早変わり。
 ヴェイガンのXラウンダー達は、AGE-2に接近して大型砲身の死角に入ってしまえば問題ないと思い込んでいたのだろう。左右からビームサーベルによる斬撃戦を仕掛けたが、ダブルバレットの二刀流モードには完全に意表を突かれた形になり、二人ともほぼ同時に撃破されてしまった。

 更に襲いかかって来るXラウンダーの機体に対し、アセムはダブルバレットの二刀流モードを解除すると、今度はミサイルを一斉発射。
 ダブルバレットが、大口径ビーム砲、大型ビームサーベル、ミサイルランチャーという三つの異なる攻撃能力を立て続けに見せたことには意外性があった。

 ダブルバレットは機能てんこ盛りの割にはシルエットがスッキリしており、元々シャープなプロポーションを持つAGE-2に良く似合っている。
 なお、ビームサーベルの二刀流はアセムの個性であり、ダブルバレットの二刀流モードにも違和感は無い。両手のビームサーベルとダブルバレットのビームサーベルを合わせれば四刀流となる。しかも、両手のビームサーベルとダブルバレットのビームサーベルにはリーチ差があるので、単なる四刀流とは異なる攻防のバリエーションを見せて欲しいところだ。


第25話『恐怖のミューセル』
 
 フリット編で「Xラウンダー」という言葉が登場してから、ニュータイプに対する強化人間同様、「人工的に造り出されたXラウンダー」も登場するのではないかと思っていた。今回、それを意外な形で観ることになった。過去のガンダムシリーズでは、

 ガンダムのパイロット=ニュータイプ
 ガンダムの敵となるパイロット=強化人間

といった図式が見られたが、アセム編では逆となったのだ。
また、ファーストガンダムでは当初、

 主人公=アムロ=ガンダムの性能に助けられながらも、シャアに勝ち続ける
 主人公のライバル=シャア=パイロットとしての技量では勝りながらも、アムロに負け続ける

といった図式であった。シャアがモビルスーツを新型に乗り換えることでガンダムとの性能差は縮んでいくのだが、アムロの成長によってシャアのパイロットとしての優越性が減じていってしまい、シャアはアムロに負け続けた。
 逆に言えば、もしもシャアが初めからゲルググに乗っていたとしたら、最初の戦いでガンダムのアムロに勝っていただろう。『AGE』におけるゼハートとアセムが正にそれである。
 更に、Xラウンダーではないことも加わって、アセムはゼハートに連敗を喫する。この点に関しても、アムロとシャアのモビルスーツの性能が互角になった後、アムロがニュータイプ能力の優位性でシャアに勝ち続けたのとは正反対である。

 ガンダムに乗る主人公と、仮面を被ったライバル。
 この絵面だけ見ればファーストガンダムと同じだが、実際の力関係は全く逆なのだ。

 更に今回は、Xラウンダーではないウルフが、純然たるパイロットの技量(心の強さを含む)で、Xラウンダーを倒してしまう。現状を打破するにはXラウンダーの能力を得るしかないという思いに囚われていたアセムに対して、ウルフは説得力のある答えを示した。そのウルフの頼もしい姿を見たとき、不意に私の脳裏にはスレッガーの姿が浮かんだ。
「ああ、スレッガーがソロモンで死なずにパイロットとして歳を重ねていたら、ウルフのようなパイロットになっていたのかな」
 この辺りも、ファーストに対するオマージュと言うか、ファーストに対する別の回答を観せてもらったような気がして嬉しい。
 『AGE』は、意図的に、あるは意図せず、ガンダムシリーズにおける原点復帰というテーマを、上手く消化していると思う。


 第26話『地球 それはエデン』

 前回の感想で、ウルフのことを「ソロモンで戦死しなかったスレッガー」と表現したら、今回、そのウルフが戦死してしまった。それも、スレッガーのように「敵軍の切り札と事実上刺し違える(彼が身を挺する形でIフィールド内にガンダムを届けた時点で勝負はほぼ決していた)」という華々しい最期ではなく、戦闘の一局面の流れの中で致命傷を受け、散ってしまった。
 アセムの窮地を救い、その代償として戦死した形ではあるものの、一瞬の隙を突かれて墜されてしまうという最期は、本当に普通のパイロットのそれである。その呆気ない墜され方が、逆に衝撃的だった。

 振り返ってみれば、ウルフはアセム編における人間ドラマの中では、核をなしていなかった。アセムのサポート役に徹しており、デシルのように対立の構図の一角となってはいなかった。

 デシルは、敵であるフリットとの対立、味方であるはずのゼハートとの対立という二重の特別な対立の中にあり、アセムとは普通に敵同士として対立関係にあった。
 しかし前回、パイロットとしてモビルスーツ同士での対決に拘っていたデシルを、フリットは指揮官として戦艦を運用することで、キッチリと撃退している。これは単にこの一局面での勝敗を描いただけではなく、飽く迄も一パイロットに過ぎない立場のデシルを、指揮官という立場に登りつめたフリットが退けたことで、両者に格の違いがあることを見せつけていた。デシルとフリットの対決は、この「モビルスーツ対戦艦」の戦いによって決着が付き、その時点で二人の対立自体に終止符が打たれたのだ。

 だから今回、アセムがデシルを倒すという流れは正しい。正しいと言うか、自然に映る。既にフリットとの勝敗が決してしまっていることに気付かないデシルに、アセムが引導を渡す。しかもそのアセムは、ウルフから“スーパーパイロット”を引き継いだアセムなのだ。
 そして、デシルと特別な対立関係にあったゼハートは、彼を見殺しにすることでその対立を終わらせる。ここでも、アセムがデシルを倒すという流れの自然さが見える。何故なら、ゼハートとアセムは、デシルと対立しているという点に関しては同じ側に立っていたからだ。ゼハートからすれば、自分が実の兄に手を下す代わりにアセムが倒してくれたという思いも無くは無かったのではないか。

 精神的に成長しないまま、「ただ強いだけの子供」として死んでいったデシル。
 後輩であるアセムの成長を見守り助け続け「強い大人」として死んでいったウルフ。
 対照的な二つの死が描かれた回だった。
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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。