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2012-11

夏焼雅 プレミアムライブ ~20th Anniversary at Melody Line~

夏焼雅 プレミアムライブ
     ~20th Anniversary at Melody Line~

会場 :ザ・プリンスパークタワー東京 イベントホール
     メロディーライン
公演日:2012年10月28日(日)
開場・食事開始:13:00  ショー:14:00

 久々にディナーショーに行った…と1分前まで思っていたのだが、当選通知メールを今一度見直してみたら、“ディナーショー”とはどこにも書いてない。公演のタイトルも『夏焼雅 プレミアムライブ』だし。
 今回の料金は14000円(消費税込)。過去に広尾で催されていたディナーショーとほぼ同額なので、今回もディナーショーだったのだと思い込んでいたのだが、私の勘違いだったようだ。
 でも、そう勘違いしていたのは私だけではあるまい。事実、私と相席になった方も「ディナーショー」という単語を注釈無しに使われていた。料金14000円で食事が出るとなれば、過去の例からディナーショーであると想像してしまった人が多かったのではないか。私を含め、客の大半がスーツまたはそれに準じた服装だったことからも、そう思える。

 なぜ“ディナーショー”か否かにこだわるかと言えば、理由は二つ。
 先ず、今回は食事が質素であったことに驚かされたから。アレよりは、私の地元の喫茶店のモーニングセットの方が豪華だと思う。味はともかく、空腹で会場に臨んだ私にとっては、量的に辛いものがあった。
 二つめは、こちらの方が遥かに重要なのだが、歌手が客席間の通路を歩きながら歌う(あるいは、メインのステージを降り、客席内に設けられたサブステージに移動して歌う)というシーンが無かったことが残念だったから。

 要するに今回は、「ショーの前に小さいサンドイッチとジュースが出て、追加でカクテルその他を注文できる」&「バンドによる生演奏」&「全席ファミリー席」だったことを除けば、普通のハロプロのライブだったのだ。(実際にはもう1箇所違いがあるが、後述する)

 ただし、全席ファミリー席の上、ステージと客席1列目が非常に近いから、前方中央寄りの席は素晴らしく観やすかった筈だ。実際、中央寄りの3列目だった私の場合、もう最高に観やすかった。何しろ、ステージ上のショーを見るという点に関しては、自分の視野に障害物が全く存在しないのだ。客は全員着席状態で、3列目からステージをやや見上げる感じで鑑賞すると、そうなるのである(私の右手側が通路になっていたことで、更に観やすくなっていた)。

 それでも、最後列のことを考えると、全て良しとは言い切れない。今回の最後列は、普通のコンサート会場では10列目(O席のある中野サンプラザだったら6列目)ぐらいに相当したか? もちろん遠くはないが、感動するほど近くでもない。歌手がステージを降りて客席を歩いて歌うというシーンが全く無いのだから…。

 既に述べた通り、私にとっては視界最高、みや(夏焼雅)の歌も最高だった。
 セットリストに『消失点~Vanishing Point~』が入っていたのは嬉しかったし、『ORION』(中島美嘉の曲をカバー)が聴けたのも貴重だった。
 みやの音域はそれ程広くないということも再確認できてしまったが、それでも私はみやの歌声が好きなのだ。歌っているみやを観るのが好きなのだ。
 だから、今回は個人的には大満足。
 ただ、次回もこの会場で“プレミアムライブ”が開催されたら、応募するかどうか正直迷うところだ。最後列や両サイドの席だと、どうなのかな~と思えるからだ。

 そうそう、私はショーが終わるまですっかり忘れていたのだが、この“プレミアムライブ”には握手と2ショットポラロイド撮影が付いていたのだ。私は握手も2ショットポラも要らないと思った。みやの生歌を、特等席で鑑賞できたのだ。これ以上、一体何を望むと言うのか(いや何も望まない)。
 これは真剣に思うのだが、写真集の発売イベントじゃあるまいし、プロの歌手が10曲しっかりと歌って聴かせたんだから、それ以上のサービスをする必要はないんじゃないのか?
 出来ればスルーしてサッサと帰りたかったのだが、出口は一つで列も一つ。それなりに待って、握手してポラを撮ってもらって会場を後にしました。
 その写真が、これ。
みや&私
 みやの衣装は、ショーのものと多分同じもの。
 ちなみに、私はポーズとして『ワクテカ~』の首ダンスの真似をしている…わけでは決してナイ。「もうちょっと寄って下さい」とかカメラマンさんに言われたんだよ、きっと!

 みやと1枚の写真に収まることが嬉しくないと言ったら勿論嘘になる。けれども、繰り返しになるが、こういうサービスは写真集の発売イベント等の“歌を(十分に)披露しないイベント”に付帯させるべきものなのではないだろうか? 単に“出口での見送り”なら、ライブに付けても構わないと思うのだが。
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『機動戦士ガンダムAGE』ブルーレイ(DVD)ディスク第11巻の感想

『機動戦士ガンダムAGE』ブルーレイ(DVD)ディスク第11巻の感想

“イデオロギーを明確にしたギレン”が語る、プロジェクトエデンの真実! 戦争を手段にして実現される理想郷は、戦争を超越した人類の終着点に成り得るのか?

 今まで1話ごとにupしていた感想を、某所のレビュー用にまとめてみる。
 ついでに、このレビュー用記事を書いた人、即ち私の画像もup。
 フリット・アスノ(アセム編)コスプレ_ブルーレイのレビュー用
  撮影 by よしさん


第39話『新世界の扉』

 キオ編の、いや『ガンダムAGE』の中でも衝撃的な回。
 イゼルカント本人から、プロジェクトエデンの真実が明かされたのだ。

 これで、この戦争には2つの面があることが明らかになった。
 1つは、前回語られた、純然たる領土戦争という面。異なる陣営同士が「○○は私たちの領土だ」と主張し合って行う、現実的な戦争である。
 もう1つは、今回語られた「新たな人類の歴史を担う優れた種を選び出す」という面。ヴェイガンも連邦も関係なく、ただ人類を選別するための戦争である。

 コロニー崩壊のような極限状況下でも理性と知性を保ち、それに基いた最善の選択肢を実行することが出来る人間だけを集めれば、戦争を起こさない世界を作ることが出来る。
 そういう人間を、同じく極限状況である戦争という状態を作って、現に選び出す。
 即ち、戦争の中で新しい人類の創造を行う。
 これが、イゼルカントの戦争に対する彼独自の理念なのだ。
 
 これは正に、“イデオロギーを明確にしたギレン”である。
 ギレンは、国民に対して選民思想を交えた演説を行っていたものの、デギンに対しては「せっかく減った人口です。これ以上増やさず、優良な人種だけを残す…それ以外に人類の永遠の平和は望めません」と語っており、選民思想は所詮後付けの理屈に過ぎないとの印象を与えている。結局、ファーストガンダムでは、ジオンが独立戦争を起こした理由が明確には描かれていないのだ。

 『ガンダムAGE』で描かれた、ヴェイガンの窮状と地球圏の豊かさ。
 “持たざる者”ヴェイガンと、“持っていることが当たり前”である地球圏との格差。
 そして、そういった現実を超越した、イゼルカントの理想。
 戦争の背景・理由が明確に描かれることは、戦争自体を描くことと同様に重要なのだと感じられた。

 また今回は、モビルスーツ戦にも見応えがあった。単なるビーム合戦ではなく、各局面ごとに異なる攻防が描かれていた。相手との間合いや角度(位置関係)で武器を使い分け、その瞬間に最も有効な攻撃を繰り出しているのだ。
 ダークハウンドが、打ち出したフック(ワイヤー)を戻す際に、敵機の背後から命中するように軌道を調節しているのを見て、ファーストガンダムで没になったと言われる兵器“山越えハンマー”を思い出した。


第40話『キオの決意 ガンダムと共に』

 前回、イゼルカントがプロジェクトエデンの真実を明かしたことに続き、今回はアセムが海賊となった真の理由を打ち明ける。

 ヴェイガンと連邦の間で力の均衡が保たれていれば、戦争は膠着状態が続き、大きな被害は出ない。そういった膠着状態を維持するため、両者が大規模な作戦を実行できないように、情報・物資の両面から妨害を行ってきたというのだ。まるで、どちらからも頼まれていないのに、二重スパイを強行しているようなものである。
 確かに、究極的な妨害によって全ての作戦を未遂に終わらせることが出来たとしたら、戦闘行為のない戦争が続くことになり、それは事実上の休戦状態となる。
 アセムは、「戦争を止めることは出来ない」という現実論に立脚点を置きつつも、「戦争の規模が小さくなるように双方に干渉する」という第三局からの戦いを自分に課したのだ。

 そしてキオもまた、新たなるガンダムを得たことで、自分の新しい戦い方を見出す。連邦側のパイロットという立場はそのままとした上で「相手を殺さずに戦う」という道を選択したのだ。

 これでアスノ家の3人は、それぞれ異なる道を歩むことが明らかになった。
 フリットは連邦に属し、ヴェイガンを殲滅する道を。
 アセムは、連邦にもヴェイガンにも属さない、海賊という道を。
 キオは連邦に属しながらも、ヴェイガンを殺さない戦い方をするという道を。
 一旦こうして別れた3人の道が、この先交わることがあるのだろうか?
 そして、イゼルカントやゼハートといったヴェイガン側の人間が歩む道とは、どのような交わり方をするのか、それともしないのか。極端な話、「多くの人間を切り捨てることで人類が平和を得る」という意味では、フリットとイゼルカントの考えは一致しているのだが。


第41話『華麗なフラム』

 フラムとララァ。
 仮面を被った指揮官の直属の部下であり、特殊な才能を持つ女性という点ではララァと共通するが、それ以外は真逆に近かったフラム。そのフラムが、徐々にララァ的なキャラクターに近づいてきていたわけだが、今回でその立ち位置が明確になった。ヒロインである。
 キオ編は、ヒロイン不在とまではいかないものの、複数のヒロインが中継ぎをして繋いでいくようなスタイルをとっていた。残り話数から逆算すると、フラムは“最後のヒロイン”となるのだろう。

「ゼハート様は、たった一人で多くのものを背負っている…私は彼の力になりたい…」
 既にフラムは、自分の兄がゼハートを救うために死んでいったことを納得する境地に達していた。そんなフラムに、初めて邂逅する敵パイロット・キオの言葉が届かないのも当然である。キオとフラムは、お互いを知らなさ過ぎるのだ。

 キオは、フラムの兄がゼハートを救うために命を落したことを知らない。
 フラムは、キオがセカンドムーンでヴェイガンの人々と心を通わせたことを知らない。

 エデン実現の夢をゼハートに託して死んでいった兄のことを思えば、ゼハートと共にエデン実現の為に最後まで戦い抜くことがフラムの進むべき道である。火星圏移民者を見捨てたばかりか、その事実を隠蔽し続けてきた地球連邦が、今更話し合いで地球をヴェイガンに明け渡すはずなど有り得ないと断じるのも無理はない。

 相手を説得するということは難しい。
 青春時代を共に過ごした、アセムとゼハートの間ですら、そうである。アセムは、イゼルカントがヴェイガンを欺いていることをゼハートに伝えるものの、ゼハートは耳を貸そうとしないのだ。

 対立はどんなに醜くても強く、理想はどんなに美しくても弱い。
 そんな戦場に、また新たな対立が乗り込んでくる。その名は、ジラード・スプリガン…


第42話『ジラード・スプリガン』

 残り話数も少なくなってきたところで、主人公と同じ能力を持った新キャラクターが、敵サイドに登場する。まるで、ファーストガンダムの『ニュータイプ、シャリア・ブル』を思わせる展開。ただし、唐突に登場した感のあったシャリア・ブルとは違い、ジェラード・スプリガンは以前、“ルナベースに所属する連邦のエースパイロット”として、その名前が挙がっていた。

 “連邦のエースパイロット”と言うからにはXラウンダーだろうと予想していたが、伏線通りに“連邦製ガンダム1号機のパイロット”として登場するものだと思っていた。そして、「何らかの事情でEXA-DBの有力な情報を既に入手している人物」ではないかと推測していたのだが、これもどうやら外れたようだ。
 こうなってくると、残り話数から逆算して、やはりEXA-DBはAGEデバイスの中に存在するのか? それともEXA-DBとは、イゼルカントが側近や地球側を欺くために語った狂言(あるいは実在はしていたものの既に完全に消去されている)なのか?

 キオの立ち位置が明確になったことに合わせ、全キャラクターの対立の構図も鮮明になった。フリット、ゼハート、そしてスプリガン。立場こそ違うものの、この3者は相互理解を否定し、対話を拒んでいることで共通している。
 “ヴェイガン殲滅に憑り付かれた男”フリットと、“イゼルカントの理想に心酔した男”ゼハートが合わせ鏡であるのはアセム編からの継続であるが、ここへ来てスプリガンという“もう1人の合わせ鏡”が登場したことは面白い。
 フリットが「敵か、味方か(ヴェイガンか、連邦か)」という二元論に突き動かされているように、スプリガンも「敵の敵は、味方(連邦の敵であるウェイガンは、味方)」という二元論に駆られて行動している。この二人もまた、合わせ鏡なのだ。

 だから、スプリガンは相互理解を訴えるキオを拒絶する一方で、
「レイナ・スプリガンという女は、もうどこにも存在しない!」と断じるフリットに対し、
「…そうよ、私はレイナじゃない」と同調するのだ。
 自分を救おうとする者を否定し、自分を殺そうとする者を肯定するとは、何と皮肉なことだろう。

 そして別の観点から共通点を挙げると、キオ、ゼハート、アセムの3者は、連邦とヴェイガンの双方を知っているという共通点がある。
 しかし3者とも、この戦争に対する闘いの姿勢は違っている。
 そして、フリット、ゼハート、スプリガン、キオ、アセムの中で、アセムだけがXラウンダーではないという点も興味深い。
 仮にもし、Xラウンダーが普通の人類を救うとしたら、Xラウンダーを救うのは誰なのか?
 Xラウンダーを越えたXラウンダーか? 否、普通の人類だろう。
 一握りの天才が多数の凡人を救うとしたら、多数の凡人こそが一握りの天才を救わなければならない。
 一握りの天才と多数の凡人を選別し、一握りの天才のみを救ったとしても、その先にあるのは、一握りの天才の中から一つまみの超天才を選別する世界でしかないからだ。

 だから、フリットとイゼルカントもまた、実は合わせ鏡なのではないだろうか。
「最後の一人まで、敵を殲滅する」という2元論は、「最後の一人まで、人間を選別する」という2元論へと行き着く。徹底的な現実主義と、究極の理想主義が、実は同じ狂気の賜物だとしたら、これもまた皮肉である。

『機動戦士ガンダムAGE』DVD(ブルーレイ)第10巻の感想

『機動戦士ガンダムAGE』DVD(ブルーレイ)第10巻の感想

  ライバル不在のキオだからこそ出来る、戦争そのものと対立

 キオには明確なライバルとしてのキャラクターが存在しない。フリット編で築かれたライバル関係の基本的構図は、アセム編で“対立の多重構造”として発展し、その描写は「これぞ2世代ガンダム」と思わせる充実振りであった。
 しかし、キオ編はその流れをほとんど引き継ぐことなくスタートした。キオは「アセムの息子である前に、フリットの孫」=「フリットの意志を継ぐ者」という位置付けで登場し、どこかフリット編の別バージョンが始まったかのような印象すら受けた。

 戦闘が始まれば、その局面に応じた対立は生じるのだが、キオに一貫したライバル(フリットに対するデシル、アセムに対するゼハート)になりそうなキャラクターがいないことに、キオ編当初は不自然な感じを抱いた。最も対立する機会が多い敵指揮官ゼハートは、いずれ再登場するアセムとのライバル関係を再構築することは確実なのだ…。
 「対立の無いところにドラマは無い」と言われる。では、キオが何と対立してドラマを生み出していたかと振り返ってみれば、それは“戦争そのもの”であったことに気付く。

 キオが慕っていたシャナルアが死んだのは何故か?
 戦争だからだ。
 キオは「シャナルアが死んだのはヴェイガンが彼女をスパイに仕立てたからだ」とゼハートを責めたが、ゼハートは「スパイなど古来から戦争では当然のこと」と受け流した。確かにゼハートの言う通りであり、戦時下において(否、戦時下でなくとも)両陣営が互いにスパイを送り込むことなど常識である。キオが責めるべきはゼハートでもヴェイガンではなく、戦争という状況そのものであったのだ。

 そして、ヴェイガンの一市民であるルウの死。
 ヴェイガンの現状では、ルウを救うことが出来ない。
 地球連邦は、ルウを救おうなどと考えてもいない。
 ヴェイガンにも地球連邦にも救われなかった小さな命との交流を経て、キオは自分の成すべきことを見出していく。

 『ガンダムAGE』の3人の主人公には、それぞれ与えられた役割がある。
 フリットは、問題を提起する役割。
 アセムは、問題を継続する役割。
 キオは、問題を解決する役割。

 アセム編は問題を継続するために、フリット編を発展的に反復することが許されたのだが、キオ編は問題を解決しなければならない。アセム編の対立構造がいくら面白かったからと言っても、キオ編でそれを繰り返すわけにはいかないのだ。

 問題の答えを出すためには、個人的なライバルと対立してドラマを紡ぐよりも優先させなければならないことがある。それが“最後の主人公”に課せられた役割。
 このことが明確になっていく流れが、このDVDには収められている。

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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。