2012-09

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『機動戦士ガンダムAGE』ブルーレイ(DVD)ディスク第10巻の感想

『機動戦士ガンダムAGE』ブルーレイ(DVD)ディスク第10巻の感想

永遠に続く戦争が無いように、永遠に続く平和も無いとしたら、『ガンダム』シリーズは「次の戦争が始まる前の、平和な時代」に生まれた作品群なのか?

 今まで1話ごとにupしていた感想を、某所のレビュー用にまとめてみる。
 ついでに、このレビュー用記事を書いた人、即ち私の画像もup。
コスプレ_ガンダムAGE_フリット・アスノ(アセム編)_9
 撮影 by よしさん


 第35話『呪われし秘宝』

 今回は、「アセムが生きていた」ことにまつわる人間模様が良く描かれていた。
 アセムの親であるフリット、妹であるユノア。そして息子でありながら、アセムの記憶をほとんど持たずに育ったキオ。
 13年前のアセムをよく知る、かつての仲間、ロディとオブライト。
 アセムを知らない、ディーヴァのクルー達。
 その中で、噂をする者、それに乗らない者。
 キオとフリットの会話に聞き耳を立てていたメカニックマン達の中には、ウットビットのようにアセムのことを知ろうとする者もいる。あるいはセリックのように、フリットにその件で物申す者も。メッセージカプセルから再生された映像にアセムの姿を認めた瞬間、ロディが思わず「アセム…」と声を上げていたのも印象的。

 今回、「呪われし秘宝」の異名を持ち、戦争の行く末を左右するとされるEXA-DBの存在が明らかになった。現在は行方不明になっているそれを、連邦もヴェイガンも以前から秘密裏に捜索し続けているというのだ。
 その説明の中で、ゼハートがサラッと「80年前、イゼルカントは地球圏にて腐敗した連邦の調査を行っていた」という旨を語っている。80年前と言えば、フリットが生まれる10年前である。やはり、イゼルカント(彼を含むヴェイガンからの潜入部隊)と、アスノ家には何か関係があるのだろうか。

 モビルスーツ戦では、ガンダムAGE-3オービタルが初登場。オープニングでの印象は「ボディのボリュームはΖΖガンダム風のまま、ボディのラインをΖガンダム風にしたようなガンダム」だったが、本編で見るとΖガンダムっぽさをほとんど感じない。砂漠戦・広範囲掃射型のフォートレスが一寸ドムっぽかったこともあり、普通に宇宙戦・高機動型のAGE-3という感じ。

 ザナルド専用の重モビルスーツ・ザムドラーグが尻尾を使った一撃でAGE-3オービタルの動きを止め、
「攻撃方法はビームや剣だけではないのだよ!」
と言い放ったシーンは、ある意味カッコ良かった。ヴェイガン側のモビルスーツのキャラが立ったと思えた瞬間である。


 第36話『奪われるガンダム』

 『Ζガンダム』から始まった“奪われるガンダム”というイベント。もっとも、ファーストガンダムでもジオン側はガンダムの鹵獲を狙っており、セイラが無断で操縦し出撃したときのガンダムは実際に鹵獲の危機に直面した。
 そして『ガンダムAGE』第35話は、サブタイトルもズバリそのもの『奪われるガンダム』。ヴェイガン側の作戦にまんまと嵌り、ガンダムAGE-3が本当に奪われてしまうのだ。しかも、パイロットのキオも一緒に。だから今回は『奪われたキオ』でもあるわけだ。

 ガンダムAGE-3鹵獲を巡る攻防戦では、家族の絆で互いを思いやるキオとフリットの行動が裏目に出て失敗し、互いを思いやるどころか仲間割れ寸前だったザナルドとゼハートの行動が功を奏するという対照的な展開。
 目の前でキオを奪われたフリットは、ディーヴァに180度回頭しての砲撃を命じるが、前方の敵からの攻撃を受けている状態でのそれは、文字通りの自殺行為。
 戦闘が終わってみれば、キオとAGE-3は奪われ、AGE-1は大破に近い中破、他のモビルスーツやディーヴァにも少なからぬ損傷が出た。主人公サイドの、明らかな敗北である。

 敗北を喫した後の、ディーヴァ内の描写が良かった。
 先ず、激しい損傷をリアルに描き込まれたAGE-1が良い。激戦を無言で物語っている。
 そんな状態のAGE-1を前にして、今すぐにでもキオを奪い返しに行きたいフリットは、メカニッククルーに無茶を言い、宥めに来た娘のユノアにも当り散らす。
 その様子を、少し離れた場所から黙って見つめるパイロット達。
 そこから視線を移した先には、AGE-1同様、損傷をリアルに描き込まれたディーヴァのモビルスーツと、それを修理するメカニッククルー達の姿が…。
 この現場の“重い空気”を感じさせる描き方が良い。そして、そんな現場を救ったのが、屈託の無い子供達だったという流れも。つまり、ディーヴァという戦艦の中に一つの小さな社会が存在するというリアリティが感じられるのだ。

 その後、マッドーナ工房での点描もテンポが良い。
 ララパーリーとフリット、ララパーリーとロディという軽い流れから、フリットとアセムという重い流れ。そこから、ララパーリーが仲介する形で話がまとまり、ガンダムの換装パーツが引き渡されるという伏線まで張られている。

 それ以外にも、自分のダメ艦長振りを嘆くナトーラをセリックが慰めたり、ザナルドの件で納得がいかないフラムに対し、彼女の功績をさり気なく褒めるゼハートとか、細かい描写が効いていた。

 今回、後半はすっかり“居ない人”だったキオが、最後に囚われの身となった姿で登場。敵艦の中、ガンダムから降ろされて独房入りとなったキオは、怯えて震える1人の子供でしかない。これこそ、「君は、生き延びることが出来るか」という状況。「ガンダムさえ手に入れば、パイロットには用は無い」とか言われたら、それまでだもんなぁ…。そりゃ震えもするわ。


 第37話『ヴェイガンの世界』

 『ガンダムAGE』に登場する3人の主人公の中で、キオは最も損な役どころと言えるのかも知れない。何しろ、3人の中では全話を通じての出番が最も少ないのだ。
 『ガンダムAGE』の物語の時間軸は単純に過去から未来へと進んでいるため、キオはフリット編にもアセム編にも全く登場する機会が無かった。1人目の主人公であるフリットはアセム編にもキオ編にも副主人公として最初から登場し、アセムもキオ編の途中から物語のキャスティングボートを握る存在として派手な復帰を果たしている。フリットとアセムが明確な対立関係にあるため、キオはその間に挟まれた格好になって、今ひとつパッとしなかった。

 そんなキオが、“シャナルワ編”以来、主人公として最大級の活躍の場を与えられた。ヴェイガンの本拠地であるセカンドムーンを、たった一人で体験することになったのだ。ヴェイガンの一般社会は、今まで具体的に描かれたことが無かった。イゼルカントはキオに「地球圏の代表としてヴェイガンの世界を見てもらう」と言ったが、TVの前にいる私達からすれば、「視聴者を代表としてヴェイガンの世界を見てもらう」ことになるわけだ。
 キオ編の第1話の感想で、「キオが“戦争を終わらせる世代”であるならば、アセム以上にヴェイガンとの交流を持つ必要がある」と書いたが、こんな大胆な展開が待っているとは予想していなかった。

 イゼルカントが語った戦争の理由。それは、現実における日本が他国との間で争っている領土問題と基本的には同じである。
 キオから見れば「地球を奪う」という行為が、ヴェイガンから見れば「地球を取り返す」正当な行為となる。両者とも「その領土は我々のもの」と言って譲らない。地球とヴェイガンの戦争は、現実の国家間でも起こりうる領土戦争でもあるのだ。

 キオは、ディーンとルウに出会ったことで、ヴェイガン市民の窮状を知る。地球ではごく当たり前のことが、ヴェイガンの市民にとっては羨望と妬みの対象になるのだ。
 イゼルカント邸に戻ったキオは、出された夕食に手を出さない。その夕食は、地球人の感覚からすれば決して豪華ではなく、ファミレスで普通に出てくる程度の料理である。しかし、ディーン達の粗食を知ったキオは、手を出せないのだ。

 以前、
【フリットが「過程が丁寧に描写されたパトリック・ザラ」という面を成立させたのだから…
イゼルカントには「理念が明確に描写されたギレン・ザビ」という面を成立させて欲しい。】
と書いたことがあった。実際、その通りになってきたので嬉しい。
 ファーストガンダムでは、末端の戦士の描写が濃厚だった半面、軍上層部やザビ家内部の描写は比較的淡白だった。『ガンダムAGE』でイゼルカントの過去やイデオロギーが明確に描かれたことは、評価に値する。

 それにしても、キオがイゼルカントの息子と似ているのは単なる偶然なのか?
 それとも、直接の血縁関係を暗示しているのか?
 復讐に取り付かれたフリットの暴走を止めるには、「フリットの母親は、実はイゼルカントの妹だった!」といった衝撃の展開が必要である気もするのだが。


 第38話『逃亡者キオ』

 イゼルカントを「邪悪な魔王」と呼んだフリットの感覚。それは…
 アメリカ・イギリスを「鬼畜米英」と呼んだ、第二次世界大戦当時の日本人の感覚に通じる。
 かつて、日本人はアメリカやイギリスを「絶対に倒さなければならない敵」と信じて戦争をしていたのだ。キオ編のフリットは、そんなかつての日本人のメタファーであるとも言える。

 歴史は繰り返す。
 ここで言うのは、『ガンダムAGE』の歴史だ。
 フリットが戦争の中でユリンという同世代の少女と出会ったように、キオもまた戦争の中で、ルウという同世代の少女と出会った。少年と少女の心は通じ合ったが、二人の時間は長くは続かなかった。少女の早過ぎる死に、少年は直面するのだ。

「この辺りで一番景色が綺麗なところ」
と言って、ルウがキオを連れて行った場所、“ジャンクの丘”。そこでキオが目にした景色は、密集した住宅地を見下ろしただけの、殺風景とも言えるものだった。
 そのときキオの表情が曇ったのは、決して景色が期待外れだったからではない。こんな景色を美しいと感じてしまうヴェイガンの貧しい環境に、心を痛めたからなのだ。そして、ルウ達が憧れる地球という場所で、自分が特に感謝をすることもなく当たり前に暮らしていたことに対して、罪悪感を抱いてしまったのだ。

 ルウの死に直面した後、彼女が自分の余命が僅かであることを知りながら綴った“未来の日記”。そこに書かれていたことを思い出して、キオの涙が止まらない。拭っても拭っても、心の中でページを捲るたびに、また涙が溢れてくる。
 だが、そんなキオの前に立ち塞がるのは、ヴェイガンのガンダムなのだった…

 エンディングで歌われている歌詞に
「過去の涙が現実(いま)を導き出す 全ては守るべき明日へと」
という一節がある。
 フリットもキオも、心を通じ合った少女を失ったことで涙を流し、それに導かれて進んで行く。
しかし、二人の進む先は違っている。
 いや、それ以前に、流した涙そのものが違うのかも知れない。
 フリットの涙は、悲しみの涙であると同時に、憎しみの涙でもあった。
 キオの涙は、悲しみの涙であると同時に、優しさの涙でもあった。
 キオは、ヴェイガンであるルウ達にも、地球の素晴らしさを分け与えてあげたいと心のどこかで思ったのだろう。

 戦争の本質が「それは俺のものだ」と言い合って奪い合うことでしかないとしたら、平和の本質とは何なのか。
 永遠に続く戦争が無いように、永遠に続く平和も無い。だとしたら、『ガンダム』という作品も、「戦争と戦争の間に挟まれた平和な時代」に生まれた作品ということになる。『ガンダムAGE』を観ていると、ふとそんなことまで思ってしまう。
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『機動戦士ガンダムAGE』第39話から第42話の感想(その3)

『機動戦士ガンダムAGE』第39話から第42話の感想(その3)

 第41話『華麗なフラム』

 フラムとララァ。
 仮面を被った指揮官の直属の部下であり、特殊な才能を持つ女性という点ではララァと共通するが、それ以外は真逆に近かったフラム。そのフラムが、徐々にララァ的なキャラクターに近づいてきていたわけだが、今回でその立ち位置が明確になった。ヒロインである。
 キオ編は、ヒロイン不在とまではいかないものの、複数のヒロインが中継ぎをして繋いでいくようなスタイルをとっていた。残り話数から逆算すると、フラムは“最後のヒロイン”となるのだろう。

「ゼハート様は、たった一人で多くのものを背負っている…私は彼の力になりたい…」
 既にフラムは、自分の兄がゼハートを救うために死んでいったことを納得する境地に達していた。そんなフラムに、初めて邂逅する敵パイロット・キオの言葉が届かないのも当然である。
 キオとフラムは、お互いを全く知らない。
 キオは、フラムの兄がゼハートを救うために命を落したことを知らない。
 フラムは、キオがセカンドムーンでヴェイガンの人々と心を通わせたことを知らない。
 エデン実現の夢をゼハートに託して死んでいった兄のことを思えば、ゼハートと共にエデン実現の為に最後まで戦い抜くことがフラムの進むべき道である。火星圏移民者を見捨てたばかりか、その事実を隠蔽し続けてきた地球連邦が、今更話し合いで地球をヴェイガンに明け渡すはずなど有り得ないと断じるのも無理はない。

 相手を説得するということは難しい。
 青春時代を共に過ごした、アセムとゼハートの間ですら、そうである。
 アセムは、イゼルカントがヴェイガンを欺いていることをゼハートに伝えるものの、ゼハートは耳を貸そうとしないのだ。

 対立はどんなに醜くても強く、理想はどんなに美しくても弱い。
 そんな戦場に、また新たな対立が乗り込んでくる。その名は、ジラード・スプリガン…

『機動戦士ガンダムAGE』第47話から第49話の感想(その2)

『機動戦士ガンダムAGE』第47話から第49話の感想(その2)

 第48話『絶望の煌き』

 以前、エデンプロジェクトの真相を明かすイゼルカントを見て、「理想とは、美しく磨かれた執念なのかも知れない」と思った。
 今回、エデンプロジェクトを実現させようとするゼハートを見て、「理想とは、現実を斬り裂くために研ぎ澄まされた、鋭利な真心なのか」と思った。そして、その鋭利な刃と化した真心が、ゼハート自身という現実を、内側から斬り裂いてしまったのだ。

 理想と現実の板挟み。
 理想と、それを現実にするための過程との板挟み。
 イゼルカントの理想を受け継いだ若き指揮官であるゼハートが、その理想と現実の狭間で揺れ動き、苦しむ。
 味方を、自分を慕ってくれる部下までも犠牲にして敵の進撃を阻止するという選択をする際にも、「理想を実現するためには、その過程におけるどんな犠牲も厭わない」と、理屈では考えていた。しかし、いくら理屈では納得できても、人としての心がそれを拒むのだ。

 自分の命令で多くの味方を犠牲にしたにも関わらず、ガンダムを討ち漏らしていたことが明らかになったとき、ゼハートは我を失う。優しい心を内に秘めたまま禁断の命令を下してしまった彼は、それを単なる「作戦の一部失敗」として対処することが出来なかったのだ。自責の念に追い立てられるように、ゼハートはその身を戦場へと突入させてゆく。

「人が人であるためのエデンじゃなかったのか!」
 目的は手段を正当化できない。例えそれが、どんなに素晴らしい目的であったとしても。
 アセムの心の叫びを聞いて、ゼハートの動きが一瞬止まる。
 均衡が破れ、ゼハートのレギルスは一気に追い込まれる。
 勝負あり。アセムはダークハウンドの拳を寸前で止め、コクピットのハッチを開けてゼハートと対面する。かつてゼハートが、アセムに対してそうしてきたように。

「お前は、力を持った私に嫉妬していたのだろう…しかし本当は、俺もお前が羨ましかったんだ…」
 ゼハートが、“俺”という一人称を使った。
 ゼハートは仮面を外してからも、ずっと見えない仮面を付け続けていた。それが今、外れた。
「ゼハート、お前がいたからここまでやれたんだ」
 ゼハートの記憶は、アセムの記憶でもある。何故なら、二人は同じ時を過ごした仲間だったから。
 友達だったアセムとゼハートの、何度目かの別れ。そして、最期の別れ。

 死んだ方がいいと思っていた人も、死なないで欲しいと思っていた人も、分け隔てなく死んでいく。それが戦争…

 9月一杯、50話まであるとばかり思っていた『AGE』が、次回の49話で終了することが予告編で明らかになった。戦争開始からまだ70年しか経過していない筈だが、残りの30年が、たった1話で過ぎ去るのか?
 それとも、「100年戦争の終わりの30年は、劇場版で!」ということなのか?
 あるいは、“フリット青年編”のように、ゲームの世界で展開されるのか?
 はたまた、戦争は70年目で一旦終結し、残りの30年は、戦争とは別の形での戦いが続くということなのか?
 いずれにせよ、あと1話。あと1話で、TVシリーズとしての『AGE』の答えが全て出る。

ガンダムを含むロボットアニメを自分が何歳のとき見ているかの早見表(2012年版)

ガンダムを含むロボットアニメを自分が何歳のとき見ているかの早見表(2012年版)

 「ガンダムを含むロボットアニメを自分が何歳のとき見ているか」の早見表を作ってみた。ただし、「ロボットアニメではないが、重要またはエポックメイキングな作品」も、【】付きで入れてある。

ガンダムを含むロボットアニメを自分が何歳のとき見ているかの早見表(2012年版)_1a

ガンダムを含むロボットアニメを自分が何歳のとき見ているかの早見表(2012年版)_2a

 視聴率の欄の数字は、名古屋地区の平均視聴率である。このデータは、DVD-BOX『生誕30周年祭 in NAGOYA ガンダム THE FIRST 伝説の3DAYS』同梱のスペシャルブックレットに掲載されていたグラフから、目視で大体のところを読み取ったものを使った。ただし、1982年再放送の25%という数字に関しては、同ブックレット内の文章でも「平均視聴率25%以上」と記載されている。

 こうして改めて表にしてみると、私は本当に良い年に生まれたと思う。
 小学生のときにスーパーロボット黄金期を経験し、中高生のときにはリアルロボット黄金期を経験しているのだ。正に、ロボットアニメ黄金期世代である。
 その中でも、やはり大きいのはファーストガンダム。
 ど真ん中ストライクの、ファーストガンダムリアルタイム直撃世代、それが私の世代なのだ。

 ただし、いわゆるガンプラ世代(ガンプラブームの担い手)ではないんだよな。
 私にとって、ファーストガンダムのリアルタイムのスポンサーはクローバー。1979年の本放送時は、「何でこんなチャチな玩具のCMなんぞを流しているんだろう?」と、他人事のように思っていたものである。
 ガンプラが発売されたのは、本放送が終了した半年後。1980年3月に再放送が始まった時点でも、まだ発売されていなかった。
 ガンプラのCMを観た記憶は、ハッキリと残っている。クローバーの玩具よりは遥かにマシだったが、それでもやはりチャチだと思った。最初のガンプラはアニメのデザインに悪い意味で忠実だったから、ガンダムの股関節なんか殆ど動かなかったもんな。当時、私と同学年の連中は、あんまりガンプラを買っていないと思う。私なんか、結局1個も買わなかった。中学生の頃は、「ガンプラを買ってガンダムを商業的に応援する」なんて発想は持っていなかったから。

 当時買っていたグッズといえば、設定資料集とか、LPレコードなど。でも、一番楽しみだったのは、『アニメック』や『OUT』といった当時のアニメ誌。『アニメック』なんか年中硬派な感じだったし、緩い感じの『OUT』でさえガンダムの批判記事を載せることもあったし、本当に内容が濃かった。

 劇場版ガンダム3作は、当然のことながらリアルタイムで映画館で観た。当時買ったパンフレットも、まだ実家に残っているんじゃないかな。

 でも、『Ζ』の頃は、「期待はずれ」という気持ちで観ていた。
 『ΖΖ』では、絶望に近いものすら感じていた。14歳のときにファーストガンダムを観て希望を抱いた少年が、低年齢向けにシフトしたガンダムを21歳になったときに観ることになったら、そりゃ軽く絶望もするって。やっぱり自分はこのとき、一度ガンダムを“卒業”しているんだと思う。
 それでも、『逆シャア』は確か初日に観に行って、プレス向けの資料を特典として貰っているんだよな。このとき、23歳か…。『0080』も、当時レンタルで観たような気がする。

 26歳のときの『F91』は観に行っていない。『0083』は、当時レンタルで観たかな?
 28歳の年に放映されていた『Vガンダム』は殆ど観ていない。
 29歳の年の『Gガンダム』は言うに及ばず…

 ほほう、『Gガンダム』を6歳のときに観ていた人は、今26歳か…意外と若いなぁ。
 この世代の人は、14歳のときに『SEED』を観ることになるわけだから、タイミングとしては結構恵まれている。この世代が親になり、その子供がガンプラを欲しがり出すのは、まだ10年以上先のことだろう。

 あれ? 今10歳前後の子供の親が14歳の頃に放送されていたガンダムって、『X』なのか…。うーむ、ここら辺が“谷間の世代”ってことなのかな?

『機動戦士ガンダムAGE』第47話から第50話の感想(その1)

『機動戦士ガンダムAGE』第47話から第50話の感想(その1)

 第47話『青い星 散りゆく命』

 ある意味、前回の裏返しのような回。
 ウェイガンから大量破壊兵器・ゼノン砲を撃ち込まれた連邦は、出力は及ばないもののやはり大量破壊兵器であるフォトンブラスターで反撃する。大量破壊兵器の撃ち合い、大量殺人の応酬である。
 本来は“外交の最終手段”である筈の戦争が、“破壊と殺戮を最高の効率で行うシステム”として加速してゆく。戦争は1つのベクトルで成り立っているわけではないからだ。自国が敵国に仕掛けている破壊と殺戮、敵国が自国に仕掛けている破壊と殺戮、この2つのベクトルを合わせたものが戦争であり、その行き着く先は「両国の全てを破壊する」なのだ。
 戦争が拡大したその先には「全ての文明を破壊するシステム」としての戦争遂行装置が待っている。それこそがバーサーカーであり、EXA-DBとシドはその萌芽なのだ。

 セリックの乗るモビルスーツが敵艦に擱坐してしまい、脱出は不可能。連邦がこの戦いに勝つには、セリックごと敵艦を撃つしかない。
 当然、ディーヴァのクルーは撃つことを躊躇う。勝利至上主義のフリットですら即時発射を命じず、救援を差し向けようとする。
 ここでディーヴァのクルーが躊躇っているのは、1人の仲間の命を奪うことである。
 1000人の敵兵の命を奪うことには何の躊躇いも見せないにも関わらず、1人の仲間の命を奪うことには躊躇うのだ。

 戦争だから… 否、それだけではない。
 どこかの他所の国で内戦が起こって、1000人の死者が出ても、日本では大きなニュースにはならず、注目もされない。しかし、外国の内戦で1000人の死者が出たとき、その中に1人でも日本人が混じっていると、日本でも大きなニュースとして報道され、関心が集まる。
 1000人の外国人の命と、1人の日本人の命の、どちらが大切なのか?
 1000人の他人の命と、1人の家族の命の、どちらが大切なのか?
 平和な日常の中にも、程度の差はあれ、本質的な点では同じ心理が存在している。

 そしてキオもまた、“裏返しの自分”と戦場で遭遇する。
「ヴェイガンの人も地球の人も救いたい…それが僕の戦いだ!」
そう決意していた筈なのに、自分の目の前でディーンを殺したザナルドに対しては
「お前は絶対に許さない!」と殺意を剥き出しにする。
 そのときキオは、裏返しになった自分の中に「ウェイガンは絶対に許さない」とする祖父・フリットを見たに違いない。それは共感と呼ぶには余りにも辛い感覚である。こんな形で祖父を理解することが出来ても、嬉しい筈がない。

 共感も理解も出来ない方が幸せなこともある。
 しかし、それでも共感し理解してしまったとしたら。
 それを否定することが出来ないキオは、この先、どう戦っていくのだろうか?

 ディーンの乗るモビルスーツが爆発四散した際、その細かい破片がキオの乗るAGE-FXを掠め、幾つかは機体に命中して小さな火花を散らす描写があった。
 まるで、ディーンの返り血をキオが浴びているかのように見えた。
 キオの怒りに反応してFXバーストモードの発動プロトコルが起動したような描写も併せ、実に“ガンダム的”な演出だった。

『機動戦士ガンダムAGE』第39話から第42話の感想(その2)

『機動戦士ガンダムAGE』第39話から第42話の感想(その2)

 第40話『キオの決意 ガンダムと共に』

 前回、イゼルカントがプロジェクトエデンの真実を明かしたことに続き、今回はアセムが海賊となった真の理由を打ち明ける。

 ヴェイガンと連邦の間で力の均衡が保たれていれば、戦争は膠着状態が続き、大きな被害は出ない。そういった膠着状態を維持するため、両者が大規模な作戦を実行できないように、情報・物資の両面から妨害を行ってきたというのだ。まるで、どちらからも頼まれていないのに、二重スパイを強行しているようなものである。
 確かに、究極的な妨害によって全ての作戦を未遂に終わらせることが出来たとしたら、戦闘行為のない戦争が続くことになり、それは事実上の休戦状態となる。
 アセムは、「戦争を止めることは出来ない」という現実論に立脚点を置きつつも、「戦争の規模が小さくなるように双方に干渉する」という第三局からの戦いを自分に課したのだ。

 そしてキオもまた、新たなるガンダムを得たことで、自分の新しい戦い方を見出す。連邦側のパイロットという立場はそのままとした上で「相手を殺さずに戦う」という道を選択したのだ。

 これでアスノ家の3人は、それぞれ異なる道を歩むことが明らかになった。
 フリットは連邦に属し、ヴェイガンを殲滅する道を。
 アセムは、連邦にもヴェイガンにも属さない、海賊という道を。
 キオは連邦に属しながらも、ヴェイガンを殺さない戦い方をするという道を。
 一旦こうして別れた3人の道が、この先交わることがあるのだろうか?
 そして、イゼルカントやゼハートといったヴェイガン側の人間が歩む道とは、どのような交わり方をするのか、それともしないのか。極端な話、「多くの人間を切り捨てることで人類が平和を得る」という意味では、フリットとイゼルカントの考えは一致しているのだが。

 AGE-FXは、番組のCMに登場していたので存在自体は事前に知っていたのだが、それ以上の情報は何も仕入れていなかったので、新鮮に感じられた。

 先ず、AGE-1・AGE-2・AGE-3に関しては、それぞれRX-78・Ζ・ΖΖという過去のシリーズに登場している機体をベースにしてデザインされているというイメージを強く抱くことに対して、AGE-FXにはこれといったデザインベースが思い浮かばない。もちろん、ファンネル装備型ガンダムという意味ではνガンダムを連想するのだが、その点を除くとAGE-FXにνガンダムのイメージは無い。
 過去のシリーズのガンダムをベースにしていない、『ガンダムAGE』独自のガンダム。主人公が乗る4番目のガンダムでありながら、AGE-4ではなくAGE-FXという名が冠せられていることには、そういった理由もあるのではないかと思える。

 また、AGE-FXはカラーリングや脚部のデザインにおいて、いわゆるガンダムらしさが希薄である。言うなれば“偽ガンダム”であるガンダムレギルスの方が、パッと見では遥かにRX-78に近いイメージを抱かせるのとは対照的だ。ちなみに、ダークハウンドもカラーリングやドクロのディディールによって、“正統派ガンダム”とは言い難いイメージになっている。
 この3機のガンダムの中だと、連邦のガンダムよりもヴェイガンのガンダムの方が、一見“正統派”に見えるというのは面白い。

『機動戦士ガンダムAGE』第43話から第46話の感想(その4)

『機動戦士ガンダムAGE』第43話から第46話の感想(その4)

 第46話『宇宙要塞ラ・グラミス』

 宇宙要塞ア・バオア・クーならぬ、宇宙要塞ラ・グラミス。
 今回のラ・グラミス攻防戦は、アセム編の終盤におけるノートラム攻防戦とは攻守が逆転している。アセム編では連邦がノートラムを守り切って(その裏ではヴェイガンが多数地球への降下を果たして)戦いが終わるという“守りの戦い”だったが、今回は連邦軍が攻め込む側なのだ。

 そして、超大型攻撃兵器をどちらが使用するかに関しても、入れ替わっている。ノートラム攻防戦では連邦がフォトンリング・レイを使用したが、今回はヴェイガンがゼノン砲を使用するのだ(ちなみに、ファーストガンダムでもソロモン攻防戦では連邦軍がソーラ・システムを使用し、ア・バオア・クー攻防戦ではジオン軍がソーラ・レイを使用するという、超大型攻撃兵器を使用するサイドの入れ替わりがあった)。
 
 ノートラム攻防戦では、連邦側がフォトンリング・レイの射線上に味方を入れないように軍を展開させ、そこへヴェイガンを誘い込むような作戦を取った。これに関しては、今回ヴェイガン側が裏の裏をかいた格好だ。射線上に友軍(実はダミー)を展開させ、撃たないと見せかけて撃ったのである。

 もっとも、今回の戦闘のメインは超大型攻撃兵器を巡る攻防ではなく、モビルスーツ同士のそれ。Xラウンダーであるキオとゼハートは、それぞれファンネルとビットを自機の周囲に高密度高速展開させることでバリアーのようなフィールドを作り出す。その状態でぶつかり合う2機のモビルスーツを、色の異なる“幾何学的な光の軌跡”として描いていたのは斬新で印象的だった。

 キオは、ピンチに陥ってもAGE-FXの新たな機能・FXバーストモードを発動させない。出撃前、ウットビットから
「お前、死にたいのかよ?! 殺られないためには殺るしかないんだぞ!!」
と強く警告されて一時的に見せた迷いも、父であるアセムの言葉を思い出したことで抑え込まれている。フリットがキオと同じ位の年齢のとき、ユリンを救えなかったことで、より強い力を欲していたのとは対照的である。
 キオもまた、シャナルアやルウを救えなかった辛い経験を持っている。しかし、いかにガンダムが強力な兵器であったとしても、あのときのシャナルアやルウを救うことは出来なかった。武力では救えない命があることを、キオは身に染みて知っているのだ。
 
 イゼルカントからプロジェクトエデンの全権を託され、表向きは“ヴェイガンの救世主”となったゼハート。
 フリットから託された「ヴェイガンを殲滅し、(地球圏の)救世主となれ」という願いを拒絶したキオ。
 果たして、“人類の救世主”となるのは、どちらなのだろうか?
 それとも、どちらも救世主になることは出来ずに終わってしまうのか?

『機動戦士ガンダムAGE』第39話から第42話の感想(その1)

『機動戦士ガンダムAGE』第39話から第42話の感想(その1)

 第39話『新世界の扉』

 キオ編の、いや『ガンダムAGE』の中でも衝撃的な回。
 イゼルカント本人から、プロジェクトエデンの真実が明かされたのだ。

 これで、この戦争には2つの面があることが明らかになった。
 1つは、前回語られた、純然たる領土戦争という面。異なる陣営同士が「○○は私たちの領土だ」と主張し合って行う、現実的な戦争である。
 もう1つは、今回語られた「新たな人類の歴史を担う優れた種を選び出す」という面。ヴェイガンも連邦も関係なく、ただ人類を選別するための戦争である。

 コロニー崩壊のような極限状況下でも理性と知性を保ち、それに基いた最善の選択肢を実行することが出来る人間だけを集めれば、戦争を起こさない世界を作ることが出来る。
 そういう人間を、同じく極限状況である戦争という状態を作って、現に選び出す。
 即ち、戦争の中で新しい人類の創造を行う。
 これが、イゼルカントの戦争に対する彼独自の理念なのだ。
 
 これは正に、“イデオロギーを明確にしたギレン”である。
 ギレンは、国民に対して選民思想を交えた演説を行っていたものの、デギンに対しては「せっかく減った人口です。これ以上増やさず、優良な人種だけを残す…それ以外に人類の永遠の平和は望めません」と語っており、選民思想は所詮後付けの理屈に過ぎないとの印象を与えている。結局、ファーストガンダムでは、ジオンが独立戦争を起こした理由が明確には描かれていないのだ。

 『ガンダムAGE』で描かれた、ヴェイガンの窮状と地球圏の豊かさ。
 “持たざる者”ヴェイガンと、“持っていることが当たり前”である地球圏との格差。
 そして、そういった現実を超越した、イゼルカントの理想。
 戦争の背景・理由が明確に描かれることは、戦争自体を描くことと同様に重要なのだと感じられた。

 また今回は、モビルスーツ戦にも見応えがあった。単なるビーム合戦ではなく、各局面ごとに異なる攻防が描かれていた。相手との間合いや角度(位置関係)で武器を使い分け、その瞬間に最も有効な攻撃を繰り出しているのだ。
 ダークハウンドが、打ち出したフック(ワイヤー)を戻す際に、敵機の背後から命中するように軌道を調節しているのを見て、ファーストガンダムに登場した有線サイコミュ兵器を連想した。中学生時代に読んだ『アニメック』には、「相手の死角から放たれる打撃武器“山越えハンマー”を使うガッシャというモビルスーツのアイディアが、有線サイコミュへと発展した」といった旨の記事が書かれていたように記憶している。

 あと、アセムの海賊船に積み込まれた「ガンダムの換装パーツ」とは、Gセプターのことだったのね? てっきり、「AGE-1用に開発された新ウェア(AGE-2でも換装可能)」だと思っていた。ダークハウンドの換装シーンを期待していたので、ちょっと残念。

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震電

震電

 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。

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