『機動戦士ガンダム』第5話の感想 〜 ついでに『ガンダムOO』も 〜
『機動戦士ガンダム』第5話の感想
〜 ついでに『ガンダム00』も 〜
変革、変革って言う前に、
「現在の状況」
「現状の問題点」
「何故そういう現状に至ったのか、過去に遡って、その原因」
を描かなければ、この世界のどこをどう変えるべきなのか、全然見えてこないだろう。
裏を返せば、そういう掘り下げをすれば、イノベイターなどというチャラチャラした設定は不要。
前のシーズン(1期)で、地球側の紛争の中心になっている中東の過去・現状・問題点を体系的に描いていないから、こういうことになってしまうのだ。
沙慈やルイスというキャラを日本に置いたのが、そもそも間違いだった。二人とも、両親の仕事で中東に来ているという設定にすべきだったのだ。
第5話 大気圏突入
DVDが2枚目に突入、物語ではホワイトベースとガンダムが大気圏に突入。
この回、作画の品質は良くないが、ドラマとしてはもの凄く出来が良い。もう、見ていて引き込まれてしまった。話の緩急の付け方が絶妙である。
始まりの部分では、「シャアは追撃を諦めたのではないか?」という希望的観測が広がる、穏やかなムード。このムードの中で、前回同様、「連邦=正義」ではないことが描かれる。
避難民としてホワイトベースに乗り込んでいた老人の語りが、それだ。
「もう二度と地球の土は踏めんと思っとりましたがなぁ…
今度地球に帰ったら、わしは絶対に動かんよ。ジオンの奴らが攻めてきたって、地球連邦の偉いさんが強制退去を命令したって、わしは地球で骨を埋めるんだ」
つまり、地球連邦は自国民に宇宙移民を強制させていたということだ。この老人にとっては、連邦にもジオンにも正義はない。老人は、自分の故郷に帰って生活したい、ただそれだけ。
老人の地球に対する強烈な愛着と、それに共感を示さなかったアムロ。“地球世代”の老人と、“宇宙世代”の少年の間に横たわるジェネレーションギャップが、さりげなく描かれている。
この世の中は、自分の世代だけで構成されているのではない。
アムロのような少年もいれば、老人もいるし、アムロより年下の子供もいる。
このように幅広い世代の存在を描写することが、リアリティの基本だということが伝わってくる。
大きな世界が存在していて、ここで描かれているのはそのごく一部なのだという感覚。
それが、「物語の世界が見えてくる」という感覚なのだ。
それが、作品の持つリアリティとなるのだ。
リード中尉がモニターに登場し、ブライトをいきなり「若造」呼ばわり。ブライトは、それを当然のように受け入れる。アムロからみたら大人側に位置するブライトも、リード中尉のような“本当の大人”からすれば「若造」なのだ。
ガンダムのドラマは、一貫してここまで「大人と少年が同居する社会」を舞台にし、「少年が大人と互角に渡り合う(渡り合おうとする)」姿を描いている。
ガンダムが再々放送で視聴率20%を獲得できたのは、この要素も大きい。
その当時中学生だった私が言うのだから、間違いない。自分とほぼ同世代の少年達が、大人に混じって互角に渡り合っていく姿に、強く感情移入したのだ。
単に「少年達が活躍した」のではない。
「少年が、大人の中に混ざって」、「少年が大人を相手にして」奮闘するドラマだったから、私達(当時の中学生)は、熱中できたのだ。
この「大人の存在があってこその少年ドラマ」だったということが、非常に重要である。少年や青年しか出てこない、キャラクターの層が薄いドラマであったら、ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』)が視聴率20%を獲得することはなかったと私は断言する。
ガンダムの成功は、登場するキャラクターの年齢層の広さ、多様性といった“総合的なキャラクターの層の厚み”があってこそ、もたらされたものなのだ。
もちろん、「戦争ものとしてのロボットアニメ」という面でも、ファーストガンダムは優秀である。
今回、ほぼ30年振りにこの第5話を見返して、本当に感心させられた。
作戦直前にザクが3機補給され、戦闘によってその全てが失われるのだが、そのパターンが3機とも違う。
1機目のザクは、ガンダムに肉薄したところで全身にバルカン砲を浴び、爆発。ちなみに、ガンダムが頭部バルカン砲で敵を撃破したのはこれが初めて。これは私の記憶にも30年間ハッキリと残っていた。
この戦果により、アムロは「バルカンでもザクをやれる」と確信したのだろう。後にアムロがバルカンでのザク撃破にこだわり、結果的に帰艦のタイミングを逸してしまったことにも納得できる。
2機目のザクは、バズーカでダメージを受けた後も戦闘継続するが、ガンダムハンマーの直撃を喰らって爆発。ビームサーベルとは違った、硬くて重量感のあるダメージ表現は、十分な説得力がある。
3機目のザクは、大気圏突入時の摩擦熱によって崩壊していく。この崩壊の仕方がもの凄く悲惨で、今見ても衝撃的である。
部下の死を目の前で傍観するしかなく、苦悶するシャア。
「しかしクラウン、無駄死にではないぞ。お前が連邦軍のモビルスーツを引き付けてくれたお陰で、撃破することが出来るのだ」
シャアが搾り出すように発するこの台詞が、クラウンの死の悲惨さを増幅させている点も上手い。人の死は、それを悼んでくれる人がいるからこそ悲惨なのだという、効果的な演出である。
ファーストガンダムでは、このように一兵士の描き方が非常に丁寧である。こういうところからも、物語のリアリティが生まれているのだ。
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おまけ 『ガンダム00』 #10 天の光
スメラギの過去なんか、どうだっていい。
ハレルヤの覚醒なんか、どうだっていい。
戦術予報士とは、紛争を未然に防ぐ理論を考え付かないアホが選ぶ職業なのか?
絵に描いたような若い天才、美形キャラばかり出しても、全然リアリティが無い。登場するキャラクターの、この層の薄さは不自然さを通り越して「アホらしい」。
大量破壊兵器の登場も安易。
武力介入によって地球連邦が設立されたとき、なぜ中東が適切な形でそこに加入しなかったのか?
資源が枯渇し、価値の無くなった中東に対し、なぜ地球連邦が再編に乗り出したのか?
中東内での対立はあるのか、あるなら何故か?
何故テロリストは軌道エレベータを狙わないのか?
テーマに沿ったイベントで、話を進めるべきだ。
褒めたくても、褒める部分が無い。
ま、自分がコスプレするイアン・ヴァスティに嫁さんがいたのは良かった。二十歳でミレイナを産んだとしたら34歳だが、実際の設定はどうなんだろう?
〜 ついでに『ガンダム00』も 〜
変革、変革って言う前に、
「現在の状況」
「現状の問題点」
「何故そういう現状に至ったのか、過去に遡って、その原因」
を描かなければ、この世界のどこをどう変えるべきなのか、全然見えてこないだろう。
裏を返せば、そういう掘り下げをすれば、イノベイターなどというチャラチャラした設定は不要。
前のシーズン(1期)で、地球側の紛争の中心になっている中東の過去・現状・問題点を体系的に描いていないから、こういうことになってしまうのだ。
沙慈やルイスというキャラを日本に置いたのが、そもそも間違いだった。二人とも、両親の仕事で中東に来ているという設定にすべきだったのだ。
第5話 大気圏突入
DVDが2枚目に突入、物語ではホワイトベースとガンダムが大気圏に突入。
この回、作画の品質は良くないが、ドラマとしてはもの凄く出来が良い。もう、見ていて引き込まれてしまった。話の緩急の付け方が絶妙である。
始まりの部分では、「シャアは追撃を諦めたのではないか?」という希望的観測が広がる、穏やかなムード。このムードの中で、前回同様、「連邦=正義」ではないことが描かれる。
避難民としてホワイトベースに乗り込んでいた老人の語りが、それだ。
「もう二度と地球の土は踏めんと思っとりましたがなぁ…
今度地球に帰ったら、わしは絶対に動かんよ。ジオンの奴らが攻めてきたって、地球連邦の偉いさんが強制退去を命令したって、わしは地球で骨を埋めるんだ」
つまり、地球連邦は自国民に宇宙移民を強制させていたということだ。この老人にとっては、連邦にもジオンにも正義はない。老人は、自分の故郷に帰って生活したい、ただそれだけ。
老人の地球に対する強烈な愛着と、それに共感を示さなかったアムロ。“地球世代”の老人と、“宇宙世代”の少年の間に横たわるジェネレーションギャップが、さりげなく描かれている。
この世の中は、自分の世代だけで構成されているのではない。
アムロのような少年もいれば、老人もいるし、アムロより年下の子供もいる。
このように幅広い世代の存在を描写することが、リアリティの基本だということが伝わってくる。
大きな世界が存在していて、ここで描かれているのはそのごく一部なのだという感覚。
それが、「物語の世界が見えてくる」という感覚なのだ。
それが、作品の持つリアリティとなるのだ。
リード中尉がモニターに登場し、ブライトをいきなり「若造」呼ばわり。ブライトは、それを当然のように受け入れる。アムロからみたら大人側に位置するブライトも、リード中尉のような“本当の大人”からすれば「若造」なのだ。
ガンダムのドラマは、一貫してここまで「大人と少年が同居する社会」を舞台にし、「少年が大人と互角に渡り合う(渡り合おうとする)」姿を描いている。
ガンダムが再々放送で視聴率20%を獲得できたのは、この要素も大きい。
その当時中学生だった私が言うのだから、間違いない。自分とほぼ同世代の少年達が、大人に混じって互角に渡り合っていく姿に、強く感情移入したのだ。
単に「少年達が活躍した」のではない。
「少年が、大人の中に混ざって」、「少年が大人を相手にして」奮闘するドラマだったから、私達(当時の中学生)は、熱中できたのだ。
この「大人の存在があってこその少年ドラマ」だったということが、非常に重要である。少年や青年しか出てこない、キャラクターの層が薄いドラマであったら、ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』)が視聴率20%を獲得することはなかったと私は断言する。
ガンダムの成功は、登場するキャラクターの年齢層の広さ、多様性といった“総合的なキャラクターの層の厚み”があってこそ、もたらされたものなのだ。
もちろん、「戦争ものとしてのロボットアニメ」という面でも、ファーストガンダムは優秀である。
今回、ほぼ30年振りにこの第5話を見返して、本当に感心させられた。
作戦直前にザクが3機補給され、戦闘によってその全てが失われるのだが、そのパターンが3機とも違う。
1機目のザクは、ガンダムに肉薄したところで全身にバルカン砲を浴び、爆発。ちなみに、ガンダムが頭部バルカン砲で敵を撃破したのはこれが初めて。これは私の記憶にも30年間ハッキリと残っていた。
この戦果により、アムロは「バルカンでもザクをやれる」と確信したのだろう。後にアムロがバルカンでのザク撃破にこだわり、結果的に帰艦のタイミングを逸してしまったことにも納得できる。
2機目のザクは、バズーカでダメージを受けた後も戦闘継続するが、ガンダムハンマーの直撃を喰らって爆発。ビームサーベルとは違った、硬くて重量感のあるダメージ表現は、十分な説得力がある。
3機目のザクは、大気圏突入時の摩擦熱によって崩壊していく。この崩壊の仕方がもの凄く悲惨で、今見ても衝撃的である。
部下の死を目の前で傍観するしかなく、苦悶するシャア。
「しかしクラウン、無駄死にではないぞ。お前が連邦軍のモビルスーツを引き付けてくれたお陰で、撃破することが出来るのだ」
シャアが搾り出すように発するこの台詞が、クラウンの死の悲惨さを増幅させている点も上手い。人の死は、それを悼んでくれる人がいるからこそ悲惨なのだという、効果的な演出である。
ファーストガンダムでは、このように一兵士の描き方が非常に丁寧である。こういうところからも、物語のリアリティが生まれているのだ。
****************************************
おまけ 『ガンダム00』 #10 天の光
スメラギの過去なんか、どうだっていい。
ハレルヤの覚醒なんか、どうだっていい。
戦術予報士とは、紛争を未然に防ぐ理論を考え付かないアホが選ぶ職業なのか?
絵に描いたような若い天才、美形キャラばかり出しても、全然リアリティが無い。登場するキャラクターの、この層の薄さは不自然さを通り越して「アホらしい」。
大量破壊兵器の登場も安易。
武力介入によって地球連邦が設立されたとき、なぜ中東が適切な形でそこに加入しなかったのか?
資源が枯渇し、価値の無くなった中東に対し、なぜ地球連邦が再編に乗り出したのか?
中東内での対立はあるのか、あるなら何故か?
何故テロリストは軌道エレベータを狙わないのか?
テーマに沿ったイベントで、話を進めるべきだ。
褒めたくても、褒める部分が無い。
ま、自分がコスプレするイアン・ヴァスティに嫁さんがいたのは良かった。二十歳でミレイナを産んだとしたら34歳だが、実際の設定はどうなんだろう?

