11月3日はゴジラの日 〜『ゴジラ』第1作目を想う〜
11月3日はゴジラの日 〜 『ゴジラ』第1作目を想う 〜
『ゴジラ』第1作目が公開されたのは、1954年11月3日。もう少しで、54年が経過することになります。
ということで、まだ日はあるのですが、忘れないうちに記事にしておきます。
まずは、だいぶ前に撮影した、日比谷のゴジラ像の写真。

背びれは初ゴジ、顔と上半身はビオゴジというかVSシリーズのゴジラを思わせます。尻尾が短いのは、スペースの制約があるからでしょうか。それでも、体全体のバランスは取れており、なかなかイイ感じです。
脚は割と細めで、指は4本。この角度からだと、ゴジラの頭部が“キノコ雲”っぽく見えます。

これが、私の一番お気に入りのカメラアングル。怪獣は横面が命ですし、ゴジラは見上げてナンボです。

私自身は“チャンピオン祭り”世代なので、一番思い入れのある造形は総進撃ゴジだし、ヒーロー怪獣としてのゴジラも大好き。しかし、やはり第1作目は別格です。
『ゴジラ』第1作目の続編は何度も作られていますが、第1作目のリメイクはまだ一度も作られていません。
今日、第1作目のリメイクというのは難しいでしょう。一般的に“核”よりも“地球温暖化”の方が、人類共通の潜在的な問題として遥かに高い関心を集めています。また、特定の組織による“自爆テロ”といった具体的な恐怖の方が、“全面核戦争”といった抽象的な恐怖よりも現実的となっています。
今、社会に蔓延している不安は暗喩的なものではなく、もっと具体的で即物的なものなのです。だから、社会的恐怖のメタファーとしてゴジラが出現するということには、説得力もなければ必然性もない。
『ゴジラ対ヘドラ』がゴジラ映画のデフォルトである私にとって、ゴジラは“大自然の怒りの象徴”です。公害が社会問題となっていた当時は、人間側に「自分達は自然の破壊者であり、いつかは自然から恐ろしい報復を受ける」という不安というか覚悟のようなものがあったように思います。
今日も人間は環境破壊を続けていますが、「地球温暖化という現象で、現時点で既に罰を受けている」という認識を持ち、その問題解決意識が「地球に優しく」なのです。このイメージからは、ゴジラという強烈なメタファーは生まれにくいでしょう。
ただ、自然災害のメタファーとしてのゴジラであれば、有り得ると思います(私の案は → こちら )。
いつの日か、ゴジラの新作が作られるとしたら「ゴジラが初めて出現した世界を描く」という意味で、『ゴジラ』第1作目のリメイクにして欲しいです。
第1作目のゴジラは、“大自然の怒りの象徴”というよりは、“核や戦災のメタファー”でした。
ケロイド状に焼けただれたような皮膚と、表皮が焼け落ちて骨が剥き出しになったような背びれを背負ったその姿は、核実験の被害者であることを物語っています。
そして、視点の定まっていない目、目的不明の行動。第1作目のゴジラからは「生死の境をさまよいつつ、人の住む世界をさまよっている」といった、ある種の“境界の姿”を描いた作品であるような印象を受けるのです。
「常に死にかけているが、絶対に死なない」という、生と死の境界。
なぜ生きているのか分からないし、なぜ死なないのかも分からない。
そんなゴジラを分析しようとする人間と、ゴジラを抹殺しようとする人間、そしてその境界に立つ人間。
ゴジラが、海と陸との境界を行ったり来たりするのも、ゴジラが“境界の存在”だということを意味しているように思えます。
また、ゴジラの進入を防ぐために、東京湾に沿って鉄塔を建て、高圧送電線を張り巡らすという作戦が遂行されますが、これはまさにゴジラがいる側と人間がいる側に境界を設ける作業に他なりません。「帝都の周囲に結界を張り巡らせ、“もののけ”が入り込むことを防ぐ」というわけです。
ゴジラはこの高圧送電線を易々と突破しますが、その姿はまるで巨大な亡霊が結界を破るようでもありました。
物語冒頭で語られた「ゴジラが現れたら、生贄を海に出す」という伝説は、物語の最後でゴジラが科学兵器によって葬られる現実を暗喩するものでした。芹沢博士は、自ら生贄となって海に出て、ゴジラを鎮めたのです。あるいは、オキシジェン・デストロイヤーという形を借りた“お札”によって、ゴジラを黄泉の世界に封印したのです。
それは、「伝説と現実の境界」が、「科学と現実の境界」と重なった瞬間だったのかも知れません。
ゴジラに関わる二人の科学者も、常に人間社会における“境界の存在”でした。いや、人間が生み出した科学そのものが“境界の存在”です。正しく使えば人々に幸せを、悪用すれば破滅をもたらすのですから。
芹沢博士は密かに発明したオキシジェン・デストロイヤーを人の世に出すことにより、「ゴジラを斃して自分がゴジラになる」のか、「自分自身もゴジラと一緒に消滅してしまう」のか、その境界に立たされました。結果的に芹沢博士は後者を選びましたが、『ゴジラ』第1作目のリメイクとして、芹沢博士が前者を選ぶ物語を描くというのも興味深いのではないでしょうか。
ゴジラを葬った芹沢博士が人間のエゴによって追い詰められ、ついには第二のゴジラと化す姿を描いた、“人間としてのゴジラ”の物語。
人間がいる限り、ゴジラは現れる。そんな“人としての業”を描いたようなゴジラ映画も観てみたいと思うのです。
『ゴジラ』第1作目が公開されたのは、1954年11月3日。もう少しで、54年が経過することになります。
ということで、まだ日はあるのですが、忘れないうちに記事にしておきます。
まずは、だいぶ前に撮影した、日比谷のゴジラ像の写真。

背びれは初ゴジ、顔と上半身はビオゴジというかVSシリーズのゴジラを思わせます。尻尾が短いのは、スペースの制約があるからでしょうか。それでも、体全体のバランスは取れており、なかなかイイ感じです。
脚は割と細めで、指は4本。この角度からだと、ゴジラの頭部が“キノコ雲”っぽく見えます。

これが、私の一番お気に入りのカメラアングル。怪獣は横面が命ですし、ゴジラは見上げてナンボです。

私自身は“チャンピオン祭り”世代なので、一番思い入れのある造形は総進撃ゴジだし、ヒーロー怪獣としてのゴジラも大好き。しかし、やはり第1作目は別格です。
『ゴジラ』第1作目の続編は何度も作られていますが、第1作目のリメイクはまだ一度も作られていません。
今日、第1作目のリメイクというのは難しいでしょう。一般的に“核”よりも“地球温暖化”の方が、人類共通の潜在的な問題として遥かに高い関心を集めています。また、特定の組織による“自爆テロ”といった具体的な恐怖の方が、“全面核戦争”といった抽象的な恐怖よりも現実的となっています。
今、社会に蔓延している不安は暗喩的なものではなく、もっと具体的で即物的なものなのです。だから、社会的恐怖のメタファーとしてゴジラが出現するということには、説得力もなければ必然性もない。
『ゴジラ対ヘドラ』がゴジラ映画のデフォルトである私にとって、ゴジラは“大自然の怒りの象徴”です。公害が社会問題となっていた当時は、人間側に「自分達は自然の破壊者であり、いつかは自然から恐ろしい報復を受ける」という不安というか覚悟のようなものがあったように思います。
今日も人間は環境破壊を続けていますが、「地球温暖化という現象で、現時点で既に罰を受けている」という認識を持ち、その問題解決意識が「地球に優しく」なのです。このイメージからは、ゴジラという強烈なメタファーは生まれにくいでしょう。
ただ、自然災害のメタファーとしてのゴジラであれば、有り得ると思います(私の案は → こちら )。
いつの日か、ゴジラの新作が作られるとしたら「ゴジラが初めて出現した世界を描く」という意味で、『ゴジラ』第1作目のリメイクにして欲しいです。
第1作目のゴジラは、“大自然の怒りの象徴”というよりは、“核や戦災のメタファー”でした。
ケロイド状に焼けただれたような皮膚と、表皮が焼け落ちて骨が剥き出しになったような背びれを背負ったその姿は、核実験の被害者であることを物語っています。
そして、視点の定まっていない目、目的不明の行動。第1作目のゴジラからは「生死の境をさまよいつつ、人の住む世界をさまよっている」といった、ある種の“境界の姿”を描いた作品であるような印象を受けるのです。
「常に死にかけているが、絶対に死なない」という、生と死の境界。
なぜ生きているのか分からないし、なぜ死なないのかも分からない。
そんなゴジラを分析しようとする人間と、ゴジラを抹殺しようとする人間、そしてその境界に立つ人間。
ゴジラが、海と陸との境界を行ったり来たりするのも、ゴジラが“境界の存在”だということを意味しているように思えます。
また、ゴジラの進入を防ぐために、東京湾に沿って鉄塔を建て、高圧送電線を張り巡らすという作戦が遂行されますが、これはまさにゴジラがいる側と人間がいる側に境界を設ける作業に他なりません。「帝都の周囲に結界を張り巡らせ、“もののけ”が入り込むことを防ぐ」というわけです。
ゴジラはこの高圧送電線を易々と突破しますが、その姿はまるで巨大な亡霊が結界を破るようでもありました。
物語冒頭で語られた「ゴジラが現れたら、生贄を海に出す」という伝説は、物語の最後でゴジラが科学兵器によって葬られる現実を暗喩するものでした。芹沢博士は、自ら生贄となって海に出て、ゴジラを鎮めたのです。あるいは、オキシジェン・デストロイヤーという形を借りた“お札”によって、ゴジラを黄泉の世界に封印したのです。
それは、「伝説と現実の境界」が、「科学と現実の境界」と重なった瞬間だったのかも知れません。
ゴジラに関わる二人の科学者も、常に人間社会における“境界の存在”でした。いや、人間が生み出した科学そのものが“境界の存在”です。正しく使えば人々に幸せを、悪用すれば破滅をもたらすのですから。
芹沢博士は密かに発明したオキシジェン・デストロイヤーを人の世に出すことにより、「ゴジラを斃して自分がゴジラになる」のか、「自分自身もゴジラと一緒に消滅してしまう」のか、その境界に立たされました。結果的に芹沢博士は後者を選びましたが、『ゴジラ』第1作目のリメイクとして、芹沢博士が前者を選ぶ物語を描くというのも興味深いのではないでしょうか。
ゴジラを葬った芹沢博士が人間のエゴによって追い詰められ、ついには第二のゴジラと化す姿を描いた、“人間としてのゴジラ”の物語。
人間がいる限り、ゴジラは現れる。そんな“人としての業”を描いたようなゴジラ映画も観てみたいと思うのです。

