『ドリームガールズ』
『ドリームガールズ』
2007年の映画館で観た映画:4本目
映画を観た日:2007年3月10日(土)
衝撃を受けた。
私は、ハロプロを中心とする日本歌謡曲の現役ファンだが、この映画で描かれたレベルとの違いに愕然とした。
もちろん、この映画はミュージカルを元にした完全なフィクションであってドキュメンタリーではない。しかし、実在のグループ『シュープリームス』とその中心にいたダイアナ・ロスをモデルにしていることもまた事実である。そして、この映画でディーナを演じているのが元『ディスティニー・チャイルド』のビヨンセ・ノウルズとなれば、この映画にリアリティを感じないわけにはいかないし、それが全て錯覚であるとはとても言えないだろう。
私はハロプロ勢だけに注目しているわけではなく、MonTVやMステなどの日本の歌番組も、それなりにチェックしている。ただし、そこで見るのはほとんどが日本人歌手だ。何かの番組でビヨンセのステージを観たこともあるが、そういったことは滅多にない。基本的に、国内以外の音楽シーンには関心が無いのだ(一時期、K-POPをチェックした時期はあった)。
そんな私が、ある日ふとこの映画を観て一番強く感じたことは、
「日本の歌謡曲は、所詮アメリカ製歌謡曲の劣化コピーでなかいのか」
ということだ。
まず、日本の女性歌手の歌唱力というものを改めて考えさせられた。
ベリ工(Berryz工房)や℃-uteといった16歳以下の若年層グループは論外として、メロン記念日やごっちん(後藤真希)といったアダルト路線を打ち出しているグループも、この映画で『ザ・ドリームズ』を演じたメンバーと同じステージに立ったら、まるっきり勝負にならないという気がする。
これはハロプロ勢に限った話ではない。安室、あゆ、くぅちゃん、その他誰でも良いが、『ザ・ドリームズ』と並べて見劣りしない女性歌手が、日本にいるだろうか?
勝ち負けは二の次として、何とかなりそうな気がするのは、ボンボラ(BON-BON BLANCO)ぐらいしか思い浮かばない。とにかく、身体能力の違いによる基礎的な歌唱力において、日本人歌手は大きく劣っていると感じた。
ちなみに『ザ・ドリームズ』を演じたメンバーの年齢(公開当時)は、ビヨンセ・ノウルズとジェニファー・ハドソンが26歳、アニカ・ノニ・ローズとシャロン・リールは34歳だと思われる。撮影当時は、もう1歳若かったかもしれない。ビヨンセとジェニファーに関しては、決して年齢のアドバンテージがあるとは言えない。
しかし、そういった感覚は、むしろ単なる第一印象に過ぎなかった。
「日本の歌謡曲は、所詮アメリカ製歌謡曲の劣化コピーでなかいのか」
と思えたのは、日本の歌謡曲の本質的な音楽性、日本の楽曲の魂に関することなのだ。
メロンやごっちんが歌っている歌が、主にロックに分類されるものであり、それが今日R&Bあるいはソウルミュージックと呼ばれていることは、音楽知識に疎い私でも何となく知っていた。しかし、その原点である1960年代のアメリカの黒人音楽については、今まで全く知らなかったし知ろうともしてこなかった。
だから、この映画を観て、ガーンとなった。
この映画が描いている音楽が、R&Bのオリジナルに他ならないのではないか。
私が今日聴いている日本の歌謡曲のほとんどは、この時代のアメリカの楽曲に対してコピーにコピーを重ね、アレンジにアレンジを重ねて生み出された、言うなれば「コピーとアレンジの成れの果て」なのではないのか。
昨日までそれなりに楽しんで聴いていたハロプロの楽曲が、突然輝きを失い、「何重にも手垢が付いた劣化コピー」という正体が見えてしまったような気がした。
映画のストーリーが進むにつれ、
「俺は、立派なオリジナルが数々の苦難を経て生まれたことも知らず、その“劣化コピー”であるハロプロの楽曲を能天気に聴いていたのか」
と愕然たる気持ちに陥った。座席の柔らかなシートの背中に、硬直した自分の身体が沈み込んでいくような思いを味わった。
同時に、ソウルミュージックの尻尾に触れることが出来たような気もした。
気持ちを音楽に乗せることが、自然に出来る。
ほとばしる感情を、そのまま歌にすることが出来る。
昂ぶる魂が、生身の喉を通ることで歌に変わる。
そうして生まれた歌を、音楽を、文字通りソウルミュージックというのだ。
劇中で、ザ・ドリームスを解雇されることとなったエフィーが『AND I AM TELLING YOU I’M NOT GOING』を歌い上げるシーンでは、悲しみの感情の奔流が、芸術にまで昇華していく現場を目撃したような感慨を得た。
まず先に、魂ありき。
普段自分が耳にしている日本の歌謡曲は、その原点を失って、歌のための歌というか、気分を紛らわすための手段としての歌に成り下がっているような気がした。
もしそうだとしたら、日本の、日本人の、自分自身のソウルミュージックとは何なのだろうか。
そんな、自分の音楽的なアイデンティティを考えさせる映画だった。
もちろん音楽やテーマ性だけではなく、映像やストーリーを含めた総合的な完成度が高い。優秀な娯楽作品に仕上がっており、今年のベスト映画の最有力候補である。
2007年の映画館で観た映画:4本目
映画を観た日:2007年3月10日(土)
衝撃を受けた。
私は、ハロプロを中心とする日本歌謡曲の現役ファンだが、この映画で描かれたレベルとの違いに愕然とした。
もちろん、この映画はミュージカルを元にした完全なフィクションであってドキュメンタリーではない。しかし、実在のグループ『シュープリームス』とその中心にいたダイアナ・ロスをモデルにしていることもまた事実である。そして、この映画でディーナを演じているのが元『ディスティニー・チャイルド』のビヨンセ・ノウルズとなれば、この映画にリアリティを感じないわけにはいかないし、それが全て錯覚であるとはとても言えないだろう。
私はハロプロ勢だけに注目しているわけではなく、MonTVやMステなどの日本の歌番組も、それなりにチェックしている。ただし、そこで見るのはほとんどが日本人歌手だ。何かの番組でビヨンセのステージを観たこともあるが、そういったことは滅多にない。基本的に、国内以外の音楽シーンには関心が無いのだ(一時期、K-POPをチェックした時期はあった)。
そんな私が、ある日ふとこの映画を観て一番強く感じたことは、
「日本の歌謡曲は、所詮アメリカ製歌謡曲の劣化コピーでなかいのか」
ということだ。
まず、日本の女性歌手の歌唱力というものを改めて考えさせられた。
ベリ工(Berryz工房)や℃-uteといった16歳以下の若年層グループは論外として、メロン記念日やごっちん(後藤真希)といったアダルト路線を打ち出しているグループも、この映画で『ザ・ドリームズ』を演じたメンバーと同じステージに立ったら、まるっきり勝負にならないという気がする。
これはハロプロ勢に限った話ではない。安室、あゆ、くぅちゃん、その他誰でも良いが、『ザ・ドリームズ』と並べて見劣りしない女性歌手が、日本にいるだろうか?
勝ち負けは二の次として、何とかなりそうな気がするのは、ボンボラ(BON-BON BLANCO)ぐらいしか思い浮かばない。とにかく、身体能力の違いによる基礎的な歌唱力において、日本人歌手は大きく劣っていると感じた。
ちなみに『ザ・ドリームズ』を演じたメンバーの年齢(公開当時)は、ビヨンセ・ノウルズとジェニファー・ハドソンが26歳、アニカ・ノニ・ローズとシャロン・リールは34歳だと思われる。撮影当時は、もう1歳若かったかもしれない。ビヨンセとジェニファーに関しては、決して年齢のアドバンテージがあるとは言えない。
しかし、そういった感覚は、むしろ単なる第一印象に過ぎなかった。
「日本の歌謡曲は、所詮アメリカ製歌謡曲の劣化コピーでなかいのか」
と思えたのは、日本の歌謡曲の本質的な音楽性、日本の楽曲の魂に関することなのだ。
メロンやごっちんが歌っている歌が、主にロックに分類されるものであり、それが今日R&Bあるいはソウルミュージックと呼ばれていることは、音楽知識に疎い私でも何となく知っていた。しかし、その原点である1960年代のアメリカの黒人音楽については、今まで全く知らなかったし知ろうともしてこなかった。
だから、この映画を観て、ガーンとなった。
この映画が描いている音楽が、R&Bのオリジナルに他ならないのではないか。
私が今日聴いている日本の歌謡曲のほとんどは、この時代のアメリカの楽曲に対してコピーにコピーを重ね、アレンジにアレンジを重ねて生み出された、言うなれば「コピーとアレンジの成れの果て」なのではないのか。
昨日までそれなりに楽しんで聴いていたハロプロの楽曲が、突然輝きを失い、「何重にも手垢が付いた劣化コピー」という正体が見えてしまったような気がした。
映画のストーリーが進むにつれ、
「俺は、立派なオリジナルが数々の苦難を経て生まれたことも知らず、その“劣化コピー”であるハロプロの楽曲を能天気に聴いていたのか」
と愕然たる気持ちに陥った。座席の柔らかなシートの背中に、硬直した自分の身体が沈み込んでいくような思いを味わった。
同時に、ソウルミュージックの尻尾に触れることが出来たような気もした。
気持ちを音楽に乗せることが、自然に出来る。
ほとばしる感情を、そのまま歌にすることが出来る。
昂ぶる魂が、生身の喉を通ることで歌に変わる。
そうして生まれた歌を、音楽を、文字通りソウルミュージックというのだ。
劇中で、ザ・ドリームスを解雇されることとなったエフィーが『AND I AM TELLING YOU I’M NOT GOING』を歌い上げるシーンでは、悲しみの感情の奔流が、芸術にまで昇華していく現場を目撃したような感慨を得た。
まず先に、魂ありき。
普段自分が耳にしている日本の歌謡曲は、その原点を失って、歌のための歌というか、気分を紛らわすための手段としての歌に成り下がっているような気がした。
もしそうだとしたら、日本の、日本人の、自分自身のソウルミュージックとは何なのだろうか。
そんな、自分の音楽的なアイデンティティを考えさせる映画だった。
もちろん音楽やテーマ性だけではなく、映像やストーリーを含めた総合的な完成度が高い。優秀な娯楽作品に仕上がっており、今年のベスト映画の最有力候補である。
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『さくらん』
『さくらん』
2007年の映画館で観た映画:5本目
映画を観た日:2007年3月10日(土)
渋谷のシネクイントで観たのだが、上映前に出来た列のまぁ長いこと長いこと。これは、原作漫画の人気なのか、それとも主演の土屋アンナの人気なのか?
列に並ぶ客の殆どが若い女性だったのは、男単身で来ていた私には幸いだった。私以外、全員カップルだったら、さすがの私もいたたまれないところだ。(カップルも勿論いたが、比較的少数だった)
女性客の多くが、いかにも「渋谷に来ている女」みたいだったのが可笑しくて、列の最後尾へと歩いていく女性が自分の前を通り過ぎる度に笑えてきた。ああいう、いかにも「ファッション雑誌を参考に、ちょっとキメてきました」というナリをしないと、渋谷は歩いちゃいけないのか?
もっとも、私も普段は映画を観るために外出するにあたって髭を剃るとか、Gシャツの下から覗かせても恥ずかしくないデザインのTシャツを選んで着るとかはしないので、似たようなモノなのかも知れない。まぁ、無精髭ボーボーのままで来なくて良かったと、現場で思ったことも確かである。エレベータに乗ったときも、男は私一人だけだったりしたから。
そんなワケで、上映待ちの列に並んでいるときは面白かったのだが、肝心の映画はと言うと、これがガッカリな出来栄え。
とにかく、全般的に映像が汚い。一枚の絵も汚いし、絵の繋ぎも雑。
菅野美穂の裸の背中が汚く映っていたときは、彼女のファンだけに本当に落胆した。照明の当て方で、もっと綺麗な絵になるだろうに。
間夫に裏切られた“きよ葉”が、川の中で泣くシーンも、もうちょっと綺麗に撮れなかったのだろうか。確かにリアルな絵ではあるが、キタナイのだ。この作品を観に来る客が、ああいうリアリティを求めていたとは思えない。無様に泣いても、なお美しい。そんな哀しいまでの美しさを映し出して欲しかった。
遡れば、花魁の“粧ひ”が、きよ葉に対して「女郎は思った通りのことを客に言わせることができる」ことを実践して見せるシーンも演出が足りなった。
良かったのは、菅野美穂と土屋アンナがキャスティングされていたことだけと言っても過言ではない。
まるで、悪い意味でVシネマのような、期待外れの映画だった。
2007年の映画館で観た映画:5本目
映画を観た日:2007年3月10日(土)
渋谷のシネクイントで観たのだが、上映前に出来た列のまぁ長いこと長いこと。これは、原作漫画の人気なのか、それとも主演の土屋アンナの人気なのか?
列に並ぶ客の殆どが若い女性だったのは、男単身で来ていた私には幸いだった。私以外、全員カップルだったら、さすがの私もいたたまれないところだ。(カップルも勿論いたが、比較的少数だった)
女性客の多くが、いかにも「渋谷に来ている女」みたいだったのが可笑しくて、列の最後尾へと歩いていく女性が自分の前を通り過ぎる度に笑えてきた。ああいう、いかにも「ファッション雑誌を参考に、ちょっとキメてきました」というナリをしないと、渋谷は歩いちゃいけないのか?
もっとも、私も普段は映画を観るために外出するにあたって髭を剃るとか、Gシャツの下から覗かせても恥ずかしくないデザインのTシャツを選んで着るとかはしないので、似たようなモノなのかも知れない。まぁ、無精髭ボーボーのままで来なくて良かったと、現場で思ったことも確かである。エレベータに乗ったときも、男は私一人だけだったりしたから。
そんなワケで、上映待ちの列に並んでいるときは面白かったのだが、肝心の映画はと言うと、これがガッカリな出来栄え。
とにかく、全般的に映像が汚い。一枚の絵も汚いし、絵の繋ぎも雑。
菅野美穂の裸の背中が汚く映っていたときは、彼女のファンだけに本当に落胆した。照明の当て方で、もっと綺麗な絵になるだろうに。
間夫に裏切られた“きよ葉”が、川の中で泣くシーンも、もうちょっと綺麗に撮れなかったのだろうか。確かにリアルな絵ではあるが、キタナイのだ。この作品を観に来る客が、ああいうリアリティを求めていたとは思えない。無様に泣いても、なお美しい。そんな哀しいまでの美しさを映し出して欲しかった。
遡れば、花魁の“粧ひ”が、きよ葉に対して「女郎は思った通りのことを客に言わせることができる」ことを実践して見せるシーンも演出が足りなった。
良かったのは、菅野美穂と土屋アンナがキャスティングされていたことだけと言っても過言ではない。
まるで、悪い意味でVシネマのような、期待外れの映画だった。
『墨攻』
『墨攻』
2007年の映画館で観た映画:3本目
映画を観た日:2007年3月2日(金)
日本の漫画を原作にした(その漫画は日本の小説を原作にしている)、香港の監督による映画。結果的に、日本・韓国・香港・中国という3カ国4地域が手を組んだ形になった、言わばアジア映画となっている。
作品の分類上は「歴史アクション映画」であるが、その内容は娯楽性より人間性、社会性に重きを置いたものになっている。単に合戦映画と人情映画を合わせただけの娯楽作ではない。
この映画は、思弁哲学の実践における現実との葛藤を描いた作品なのだ。
主人公の革離は、武術全般に優れ、卓越した戦術理論を修めた“墨者”であるが、実際に戦争を指揮した経験はない。「非攻」という思想の元、大国による小国の侵略を阻止しようとする革離は、単身で国境にある小国に乗り込み、徹底抗戦を唱えて国民や王を説得する。その結果、彼は軍のほぼ全権を与えられ、文字通りの総力戦に挑み、見事初戦に勝利するのだが…
盤上の戦いとは違い、現実の戦争では敵味方に多数の犠牲者が出ることを目の当たりにした革離は、自分の哲学に疑問を抱く。侵略を拒んで防衛のための戦いを起こしても、多くの人命が失われることには変わりがない。敵も見方も同じ人間、愛する家族を持つ同じ人間なのだ。結局は殺人によってしか事態を解決できない自分のやりかたに、純然たる哲学との乖離を痛感した革離は、自責の念に苛む。
その姿を見て、私は最近のイラク戦争の現場の一兵士の話を思い出した。
「家族を守るためだと思ってイラクへ来た。でも、敵だと思って銃を撃ち、前へ進むとそこには年端もいかない子供たちの死体が転がっているんだ」
兵士は、英雄なのか? 家族を守るため、敵を多く殺した兵士は褒め称えられるべきなのか?
革離は決して英雄ではない。
この映画は、英雄を否定した映画でもある。
現実の戦争は何かと英雄を作りたがり、戦争映画にもその手の作品は多いが、この映画は違うのだ。
人は勝ち負けを気にするし、ドラマは勝敗を描きたがる。
革離は、果たして勝利したのだろうか、それとも敗北したのだろうか。
勝ったのなら何に勝ち、負けたのなら何に負けたのだろうか。
戦いによって何を得たら勝利で、何を失ったら敗北なのだろうか。
いろいろな事を考えさせる、観た後に余韻を残す映画だった。
「人間が相争うことは決して宿命ではないという理想だけは、決して捨ててはならない」
席を立つ際に、私は確かにそう思った。
2007年の映画館で観た映画:3本目
映画を観た日:2007年3月2日(金)
日本の漫画を原作にした(その漫画は日本の小説を原作にしている)、香港の監督による映画。結果的に、日本・韓国・香港・中国という3カ国4地域が手を組んだ形になった、言わばアジア映画となっている。
作品の分類上は「歴史アクション映画」であるが、その内容は娯楽性より人間性、社会性に重きを置いたものになっている。単に合戦映画と人情映画を合わせただけの娯楽作ではない。
この映画は、思弁哲学の実践における現実との葛藤を描いた作品なのだ。
主人公の革離は、武術全般に優れ、卓越した戦術理論を修めた“墨者”であるが、実際に戦争を指揮した経験はない。「非攻」という思想の元、大国による小国の侵略を阻止しようとする革離は、単身で国境にある小国に乗り込み、徹底抗戦を唱えて国民や王を説得する。その結果、彼は軍のほぼ全権を与えられ、文字通りの総力戦に挑み、見事初戦に勝利するのだが…
盤上の戦いとは違い、現実の戦争では敵味方に多数の犠牲者が出ることを目の当たりにした革離は、自分の哲学に疑問を抱く。侵略を拒んで防衛のための戦いを起こしても、多くの人命が失われることには変わりがない。敵も見方も同じ人間、愛する家族を持つ同じ人間なのだ。結局は殺人によってしか事態を解決できない自分のやりかたに、純然たる哲学との乖離を痛感した革離は、自責の念に苛む。
その姿を見て、私は最近のイラク戦争の現場の一兵士の話を思い出した。
「家族を守るためだと思ってイラクへ来た。でも、敵だと思って銃を撃ち、前へ進むとそこには年端もいかない子供たちの死体が転がっているんだ」
兵士は、英雄なのか? 家族を守るため、敵を多く殺した兵士は褒め称えられるべきなのか?
革離は決して英雄ではない。
この映画は、英雄を否定した映画でもある。
現実の戦争は何かと英雄を作りたがり、戦争映画にもその手の作品は多いが、この映画は違うのだ。
人は勝ち負けを気にするし、ドラマは勝敗を描きたがる。
革離は、果たして勝利したのだろうか、それとも敗北したのだろうか。
勝ったのなら何に勝ち、負けたのなら何に負けたのだろうか。
戦いによって何を得たら勝利で、何を失ったら敗北なのだろうか。
いろいろな事を考えさせる、観た後に余韻を残す映画だった。
「人間が相争うことは決して宿命ではないという理想だけは、決して捨ててはならない」
席を立つ際に、私は確かにそう思った。