2006-11

『デスノート the Last name』

『デスノート the Last name』
  2006年の映画館で観た映画:30本目
  映画を観た日:2006年11月10日(金)


 原作を一切読まずに映画を観終え、その2日後に原作を全巻一気読みした。
 映画も原作も制覇した今の私の心境は、「映画は、物語的には非常に良く出来ている」。即ち、
『デスノート』の映画化は、成功している!
というのが偽らざる感想である。12巻ある原作漫画を、上手く2本(前編・後編)の映画に“変換”しているのだ。

 予告か何かでリュークのCG映像を目にしたことで落胆し、この映画を敬遠している原作ファンもいると思うが、それは非常にもったいない話である。CGの出来の悪さなんか、気になるのは最初の10分間ぐらいだ。意外にすぐ慣れてしまうものなので、原作ファンにも是非この映画版『デスノート』を観てもらいたい。

 『デスノート』という作品の素晴らしい点は、『デスノートパソコン』にしなかったところにある。
 実際、デスノートによる殺人は、所詮遠隔犯罪のバリエーションの一つであり、オンライン犯罪と基本的には同質のものである。『デスノート』という作品は、ハッカーによるオンライン犯罪を、異色な道具立てと演出で描いた作品と言っても良いと思う。

 我々が最近になって活用するようになったオンラインショッピングによる「買い物」を例にすると分かり易いだろう。
 デスノートによる「殺人」は、相手の「顔」と「名前」が分かっていれば、ノートにその相手の名前を記入することで実行できてしまう。
 これは、商品の「顔」と「名前」が分かっていれば、ノートパソコンのモニター上でマウス(ペン先に相当)をクリックすれば「購入」が実行できてしまうオンラインショッピングと、質的には同じである。

 だから、「デスノート」の本質は、闇の世界のインターネットに接続された「デスノートパソコン」なのだ。
 殺人をオンラインで「発注」するという事件は、既に実際に起こっている。あるいは現時点でも核兵器をオンラインショッピングで購入することができるかも知れないし、テロをオンラインで実行できるかも知れない。

 ただし、『デスノート』という作品の肝は、戦争やテロといった従来の恐怖、大規模・広域・無差別といった恐怖とは真逆の恐怖にある。デスノートの犠牲になった人数がいかに多数に上ろうとも、狙われたのは飽くまでも個人個人である。デスノートの恐怖は、「戦争に対する恐怖」ではなく、「暗殺に対する恐怖」なのだ。
 だから、表向きは「個人を特定した遠隔暗殺に対する恐怖」と言うべきなのだろうが、「デスノートの本質はデスノートパソコン」と書いた通り、恐怖の肝となるのは情報化社会がもたらした現状と重なる部分にある。それはつまり、

 「顔」と「名前」を知られたら、いつ・どこに・いるのかも分からない誰かに、デスノートを使って殺されてしまう。
 「名前」と「パスワード」を知られたら、いつ・どこに・いるのかも分からない誰かに、インターネットを使って預金を引き出されてしまう。

 といった恐怖である。
 あるいは、個人情報が他人の手に渡り、そこで自分が思いもよらなかった使われ方をすることに対する恐怖、である。

 噂とか口コミというのは、大昔から存在した。インターネットに流れるその類の情報も、音や映像が加わったことを除けば、内容的には変わっていない。情報自体のレベルは、TVマスコミと同じだ。
 インターネットに流れる情報が、それ以外と何が決定的に違っているのかといえば、帯域とスピードである。検索が容易であること、24時間閲覧が可能であること、いったん発生したら完全に消去することが困難であることから、インターネットに流れる情報はそれ以外の情報とは全く別物と言っても良い拡散挙動をとる。
 インターネットで誤った情報が広まったとしても、それを訂正するにはやはりインターネットを使うしかなく、第三者がその二つの情報を正しく見極めることは難しい。そして、必ずと言ってよいほど、第四者とも言うべき人間が、さらなる偽情報を流して混乱に拍車をかける。

 デスノートで実際に人が殺されることはなくても、インターネットによって実際に人が「殺されたことになってしまう」ということはあるかも知れない。
 実際、℃-uteというアイドルグループに所属していた“めーぐる”という愛称の偶像は、インターネットというデスノートによって殺されてしまったと言えるのかも知れない。
これから先、私達はそういった広い意味での「情報殺人(情報による遠隔殺人)」の時代を迎えることになってしまうのだろうか。
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「あさみ」・「みうな」の卒業に関して

        「あさみ」・「みうな」の卒業に関して
~ ハロプロのメンバーって、月に何日働いているんだろう? ~


 昔観ていたアニメには、「サブキャラ(脇役)が主役より目立った場合、そのサブキャラは近いうちに消える」という法則があった。
 消える前に、活躍の場を与えておこうという方針は、ハロプロも同じらしい。
 こんこんが卒業する前、彼女の写真集とDVDが相次いでリリースされたことを思い起こせば、今回、カントリー娘。が事実上の解散となったことも、自然な流れに映る。

 ハロプロは肥大化していったが、それに対応してアップフロントという会社が組織を大きくしていったかというと、必ずしもそうではなかったと思う。
 ユニット数が2倍になったとき、営業の規模人員が2倍になったかというと、おそらくそうではなかっただろう。ユニット数が2倍になったとき、つんくが2人になったと同じ体制が出来ていたかというと、そうではなかった筈だ。

 モー娘。を中心としたハロプロのユニットが、CDのミリオンヒットを叩きだしていたのは既に昔話である。ハロプロにおけるバブル景気の再来など望めぬ今、ハロプロという組織を、アップフロントという会社の身の丈にあったものに調整していかなければならないことは、社会人なら誰でも理解できる。
 会社の資源(人員、資金)は無限ではない。限定的である。これから℃-uteを新たにメジャーデビューさせようとすると、その資源をアップフロント内部で確保しなければならない。もし資源に余裕が無い場合は、現在「他の何か」に使っている資源を℃-uteに振り向けるしかない。その「他の何か」が、カン娘。だったという側面もあるのだろう。

 もっとも、最近のカン娘。が、それほど会社の資源を消費していたとも思えない。むしろ、どちらかと言えば活動休止状態に近いユニットだった。
 一時期、モー娘。から助っ人を加えることでカン娘。自体の固定ファンを増やそうとしていた(あるいは単にハロプロ総体のCD売上を増やそうとしていただけかも知れない)が、カン娘。自体で利益が出るという見込みがつかなかったということか。
 限られた資源で最大の利益を得ようとするのが、資本主義の基本である。過去の実績において「利益の出ていない商品」を、積極的に売り出すことは難しい。

 アイドルの運命を決めるのは、結局は売れ行きであり、それは即ちファンが商品をどれだけ買ったかということに他ならない。
 その意味で、カン娘。の解散はファンが決めたことなのだ。
 カン娘。というグループのコンセプトが、アップフロントの都合でいかなる変遷を遂げたとしても、それは問いかけに過ぎない。その問いかけに対して最終的に答えを出すのは、ファンなのである。

 それにしても、思う。
 あさみとみうなは、月に何日、仕事があったのだろう?
 サラリーマンは、月に20日以上働くのが普通だ。会社に行けば、中年のオッサンでも朝9時から夕方の6時までは、何かしら仕事があるものだ。
 プロボクサーなら、昼間は他の仕事をして、夕方から練習するという生活を送り、試合の来る日を待つということも出来る。
 しかし、カン娘。が半芸半農というコンセプトを捨てた後、あさみとみうなにはそういった生活を送ることも出来なかったに違いない。若い二人が仕事を与えられず時間を持て余していたとしたら、さぞかし辛かったことだろう。

 かつての全日本女子プロレスの社長が、「女子プロレスラーの定年は25才」と半ば公言していたような記憶がある。
 ハロプロも、「ハロプロメンバーの定年は19才。ただし、売れているメンバーは毎年定年を延長する」と公言した方が良いのではないか。
 アイドルという職業の寿命は、一般的には短い。生涯アイドル視されるような芸能人は、ほんの一握り、いや「一つまみ」に過ぎない。
 アイドルという職業を辞めた後には、第二の人生が待っている。
 あさみとみうなの第二の人生に、幸多からんことを祈る。

『父親たちの星条旗』

『父親たちの星条旗』
  2006年の映画館で観た映画:29本目
  映画を観た日:2006年11月8日(水)


 邦題は『父親たちの星条旗』となっているが、原題は『FLAGS OF OUR FATHERS』。
 「父親」だけではなく「旗」の方も複数形になっている。これには、例の写真に写っている旗が二つめの旗であることが掛けられているようにも思える。

 劇場内予告で“史上初の、日米双方の視点から描いた「硫黄島」二部作”が紹介されていたときは、「映画ファンとしては、これに乗らないというわけにはいかないけれど、似たような映画を2本続けて観させられたらつらいな」と思っていた。しかし、その1作目である本作を見て、それが杞憂であることが分かった。
 「日米双方の視点」とは、「戦場における双方の視点」ではなく、「戦争における双方の視点」だったのだ。

 もっと踏み込んで言えば、「戦勝国の視点と、敗戦国の視点」である。

 日本政府は、第二次世界大戦において国内の報道機関を完全に管理下に置き、報道管制・情報操作を行った。いわゆる、「大本営発表」というやつだ。しかし、日本政府が行った、否、行うことが出来たのはそこまでだった。
 アメリカ政府は同時期、単なる報道管制や情報操作だけではなく、「英雄を捏造し、国債発行の提灯持ちにさせ、全国を巡業させる」という大芝居まで行っていたのだ。同じ偽装、捏造であっても日本政府とはレベルが違う。

 戦時下にあっても、国債を売るために英雄をでっち上げてキャンペーンを張る政府。
 戦時下にあっても、そんな政府のキャンペーンに乗せられて国債を買う国民。
 これが正しい姿かどうかは別にして、これが出来てしまうアメリカは、戦時下で苦しいとか言いつつも、まだそれだけの余裕を持っていたということだ。
 日本には、政府にも国民にも、そんな余裕などなかった。
 これが即ち、国力そのものの差である。

 勝者は、勝利以外に語ることがある。戦場での勝利やそれにつながる栄光以外の何かを、描く余裕がある。
 しかし敗者は、敗北以外に語ることはない。戦場での敗北や、それに伴う悲惨さを描く以外の選択肢を持つことが出来ない。
 “「硫黄島」第2部”では、観客は「敗戦国の視点」を知ることになるだろう。それこそが、現在平和を謳歌している私たち日本人の、過去の視点なのだ。

 ふと、「敗戦国の視点ではない」ことを謳い文句にした、日本の「敗戦映画」を観てみたくなった。クリント・イーストウッドは、そんなことまで考えてくれているのだろうか。

ダブル世界タイトルマッチ in 日本武道館 に関するエトセトラ

ダブル世界タイトルマッチ in 日本武道館 に関するエトセトラ

               前座を全部見るとメインまでに疲れちゃう?

 前日から悩んでいたのは、何時ごろに会場入りするのかということ。
 何しろダブル世界タイトルマッチである。前座試合を多く見すぎて、メイン二試合の時点で眼が疲れていたり集中力が低下しているという事態は避けたい。イーグルの試合の前に、2試合も見られれば充分である。
 ところが、この興行で何試合が行われるのか情報を得ることが出来ずに、当日を迎えてしまった。これでは、時間を計算することが出来ない。
 しかも、私は筋金入りの方向音痴である。日本武道館に行くのは初めてなので、自分の立てた計画通りに会場入りできるのかという不安もあった。
 
 結局、「前座開始時刻である17時45分に会場入りする」つもりで動いた。
 途中、私は方向音痴振りを発揮してバタバタしてしまったが、最終的には辻褄が合う形になり、会場の自分の席に付いたのは第1試合の1ラウンド目の途中だった。


                  会場で見かけた有名人

 アリーナの入り口を入ってすぐ、背広姿の丸々と太った男性を発見。
 佐山聡さんでした。体型に、初代タイガーマスクだった頃の面影は全くありませんでした。
 同じく背広姿のどなたかと談笑されていましたが、一観客としてチケットを購入して来られたのか、そうでないのかは不明。

 アリーナ4列目辺りで、千里馬会長が客に何かを渡して説明されているところを目撃。そのときは「紙テープかな?」と思ったが、今になって思えば、あれは長谷川の試合の第二ラウンド終了時に飛ばされた風船だったのか?
 事の真偽は不明であり、風船を飛ばすことを仕組んだのが誰なのかも分からないが、こういう意味のない一発芸のような演出は止めるべきだ。第二ラウンド前後、会場のあちこちから、風船から空気が漏れる音が聞こえてきたのは不愉快だった。
 千里馬会長自身は、マッチョでとてもカッコ良かった。ジムの会長というよりは、むしろ1人の格闘家のようでした。


            意外に小さな武道館の、ささやかな雛壇

 日本武道館は外から見ると大きいが、客席から中を見回すと驚くほど小さい。
 後楽園ホールを一回り大きくした程度といった感じである。先入観として、両国国技館のようなイメージを抱いていたので、本当に意外だった。名古屋レインボーホールと同じくらいか?
 アリーナ席ではない席は、かなり勾配があって、観やすそうに見えた。
 私がチケットを取ったアリーナ席は、列ごとに8cm程度の雛壇になっていた。本当に申し訳程度の雛壇だが、それでもないよりは遥にマシである。
 私の前の席に座っていた人は私と同程度の身長だったが、視界は基本的には確保できた。これも、僅か8cmとはいえ雛壇になっているおかげである。


                  私の近くにいた迷惑な人々

 私の右隣の席の観客(女性)が、イーグルの試合中(インターバルではなく、まさにリング上で打ち合いが行われているとき)に、何と自分から携帯電話をかけて話し始めた。
 それもヒソヒソではなく、堂々とである。試合は確か第3ラウンドで、会場内も比較的静か。そんな中、すぐ隣で堂々と電話されたら、自分に話しかけられているのと同じくらいによく聞こえる。
 私はというと、(イーグルの様子がおかしい! どうしたんだイーグル?!)と手に汗握り始めていたところである。隣で電話をしている女性客に対し、思わず
「うるさい! 試合中に電話するな!(あなたが試合をしているという意味ではありませんよ)
と怒鳴ろうとした瞬間、
「長谷川さんの応援をしたいので、2階席の方に移りたいんでけど」
と、その女性客が喋る声がハッキリと聞こえた。
(えっ、ここからどいてくれるの? 隣の席が空くのなら、私にとってもメリットあるわ)
咄嗟に私はそう思い、怒鳴るのを止めた。
 この女性は一旦電話を切った後、ご丁寧にも、もう一度同じ用件で自分から電話をかけた(この時も、リング上でイーグルとトレホが打ち合っている最中)。私は
「電話を止めて、とっとと2階席でもどこへでも行ってくれ!」
と怒鳴ろうと思ったが、ここへきて席移動の交渉が決裂すれば、私は丸っきり「観戦中に耳元で電話され損」である。41才のボクシングファンは、グッと堪えましたよ。
 結局この女性は、長谷川の試合が始まる前には、私の隣から姿を消した。ヤレヤレ、である。
 11月13日、日本武道館のアリーナ西9列2X番の席に座っていた女性に、この場を借りて言いたい。
「電話をするなら、インターバル中に席を立ち、観客から充分離れたところまで移動してからにしなさい!」

 もう1人、困った観客がいた。
 私の斜め後の席の観客(男性)が、試合中、ずっと解説者気取りでダラダラ喋っているのである。
 この人も、隣の客にだけ聞こえるようなヒソヒソ声ではなく、周囲にハッキリ聞こえるような声量で堂々と喋っている。
 これが、的を射た解説ならまだいいが、肝心なところでことごとく間違えるという、素人丸出しのダメ解説なのだ。もう、耳障り以外の何物でもない。
 長谷川 vs ガルシアの試合では、最初のダウンを「今のはスリップダウンだ」と何度も繰り返す始末。このときはさすがに、更に後の席にいると思われる観客から「ナイスアッパーだったよなぁ」と、ボヤキ気味のツッコミが入った。
 私も試合中には要所で絶叫調の声援を飛ばしているので、試合に関することを喋っている他の客を咎める資格はない。ただ、解説者気取りで周囲にも聞こえる声量で喋り続けるのであれば、せめて要所要所で外したことを言うのは止めてもらいたい。
 誤ったことを言っている人に対して、その誤りを指摘したくなるのは人間の本能である。しかし、後方から間違ったことを言われても、前にいる人間は試合中に後を振り返ってそれを指摘することは出来ない。後ろを振り返っていたら、リング上の決定的瞬間を見逃す恐れがあるからだ。
 11月13日、日本武道館のアリーナ西10列2X番の席に座っていた男性に、この場を借りて言いたい。
「周囲の客にストレスを溜めるようなダメ解説を垂れ流し続けるのは、ご遠慮ください」


                 オープン・スコアリング・システム

 採用された2試合とも、観客席からは、これといったリアクション無し。
 現場で観客席側からオープン・スコアリング・システムを“体験”してみると、少なくとも今回はそのメリットあったように感じられた。1ポイントであっても、スプリットであっても、負けていることが分かった方のボクサーが、ポイントを取り返そうとしてよりアグレッシブに戦う傾向が見られからだ。
 ただし、それが「勝っていると思ったら、実際には負けてた」ボクサーにとっては、純粋なアグレッシブではなく「焦りを伴ったアグレッシブ」になっていたようにも見えた。逆のパターンに関しても、同様のことが言える。これにより、試合の展開に独特の影響を及ぼしていようにも感じられた。
 これを直ちにオープン・スコアリング・システムの欠点と言うことは出来ない。同じ状況に立たされても、違う反応をするボクサーもいる筈だからだ。
 おそらく、JBCは次のWBC世界戦でも、オープン・スコアリング・システムを採用するだろう。とりあえず、あと1、2試合は試して見る価値はあると思う。その推移を見守りたい。

ウソ発見?

バードウォッチング2006(その4)
ウソ発見?

  日時:2006年11月14日 9時頃
  場所:アパートの駐車場奥

 朝、窓の外からヒュッ、ヒュッと口笛に似た鳴き声が聞こえてきた。
 もしかしてウソか?!
 音を立てないように窓を開けると、眼下の駐車場の奥に植えてある木の辺りに動くものを発見!
 ウソか? ウソなのか?
 フィールドでウソを見たことはまだ一度もない私は、急いで双眼鏡を取り出す。
 10倍の視野の中に見つけたその姿は!…シジュウカラでした。それも3羽。
 でも、綺麗だわ。背中は本当に上品な色をしている。
 綺麗なのは良いけど、おかしいな~、シジュウカラの鳴き声はヒュッ、ヒュッじゃないし…と思っていたら、突然メジロが2羽視界に入ってきた。実家の庭ではよく見かけるけどコッチでは何か久し振り…
 と思っていたら、今度は何とコゲラが一羽やって来た! 何でこんな細い木に…と思っていたら、すぐに更に奥へと向かって行った。そして間を置かずにドラミングの音が! でも、すぐに止んでしまった。
 うわー、今日はスゲーなぁーと思って視野を少し振ってみたら、今度はタヒバリっぽい鳥を発見。ほんの数秒だったので、ビンズイとの判別が付かず。背中しか見えなかったし。
 と、今度は初めて見る派手な鳥が飛んできて枝に止まった。
 頭が青っぽくて顔から喉は黒っぽく、胸から下は鮮やかな橙色。
 後で図鑑で調べたら、ジョウビタキの雄だったようだ。でも、頭が、けっこう青っぽかったのが気になる。個体差によるものだろうか。光の加減ではなかったと思うのだが。
 ジョウビタキは「ヒッ、ヒッと澄んだ声で鳴く」とあった。どうやら私がウソと思っていた声はジョウビタキの声らしい。今度、鳴いているところを見てみたい。
 それにしてもこの日は同じ場所かつ短時間の間に5種類もの野鳥がやって来てくれて、本当に嬉しかった。千客万来!という感じで、もうウハウハしてしまった。
 季節的には給餌をしてあげたいところだけど、アパートの駐車場だからなぁ。下手なことをすると、逆に野鳥が迫害される原因にもなりかねないし…。ここはひとつ、野性の力で頑張ってくれ!

WBC世界バンタム級タイトルマッチ 長谷川穂積 VS ヘナロ・ガルシア

第3回ワールド・プレミアム・ボクシング in 日本武道館
  WBC世界バンタム級タイトルマッチ
        長谷川穂積 VS ヘナロ・ガルシア

  2006年の会場で観た試合:4回目
  観戦日:2006年11月13日(月)

 前回の長谷川 VS ウィラポン戦において、ウィラポンが一度だけ試合の主導権を支配したときがあった。8ラウンド、ウィラポンが執拗にボディ攻めを行ったときがそれだ。長谷川は脚を使って捌こうとしたが捌ききれず、6回まで掴んでいた試合の流れを一時的に手放してしまった。
 ガルシア陣営の見出した「長谷川対策」は、これだったのだろう。
 そしてガルシアは、この「長谷川対策」を愚直なまでに実行した。

 サウスポー・スタイルのボクサーは、ボディの急所である肝臓を相手に近い側に向けている。オーソドックス・スタイルのボクサーは左拳を前にして構えるため、サウスポーを相手にした場合、相手の肝臓は自分の左拳から近い位置にある攻撃目標ということになる。ここに有効打を叩き込めれば、場合によっては一発で大きなダメージを与えることが可能だ。
 実際、ロレンソ・パーラはサウスポーに構えたブライム・アスロウムにそういったボディブローをクリーンヒットさせ、その一発でアスロウムに後退を余儀なくさせている。

 しかし、このボディブローはフックまたはアッパーで「ボディの側面手前の一点」を狙い打つことになるため、難易度が高い。相手がステップバックすれば空振りに、相手が距離を詰めてきたら肝臓ではなく背中を打つことになってしまうのだ。背中を打つのは反則であり、その意味でこのボディブローは「面」ではなく「点」に対する打撃ということになる。
 オーソドックス同士でレバーブローを狙い打つ場合は、相手がステップバックしても鳩尾など腹部の別の部位に当たる可能性があるし、相手が距離を詰めてきても多くの場合は単なるミスブローになる(軌道が低い場合は、タイミングによってはローブローになる)。オーソドックスがサウスポーにレバーブローを命中させることは、単なる経験の少なさだけでなく、こういった構造的な困難さを伴う。

 このためか、ガルシアが選んだボディブローは、自分の右拳で相手の腹部中央を狙うというものが主だった。オーソドックスがサウスポーのボディを狙う場合、右フック(または有効なポジショニングからの右ストレート)なら、点ではなく面に対する打撃となる。それがレバーブローとなる確率は極めて低いが、空振りや反則打になる確率もまた低い。即ち、ボディのどこかに当たる可能性が高くなるということだ。

 ガルシアは、初回からこのパンチを使っていった。
 しかも、ボディを狙うときだけではなく、顔面を狙うときでも頭から突っ込んで行くという荒々しさ。長谷川は否応無しに、常にバッティングを意識させられることになった。
 最悪のケースは、ガードを下げてボディブローをブロックした瞬間に顔面にバッティングを喰らい、そこからの連続動作でボディからの返しのフックを顔面に打ち込まれるというパターンである。もしもこれでダウンしたら、レフェリーの立ち位置によってはバッティングを確認することが出来ず、フック(ボディ)→フック(顔面)の、パンチのみの効果でダウンしたと見做されることも有り得る。

 また、いわゆるスライマン・ルールが適用される場合、偶然のバッティングによって選手が出血した場合、出血しなかった方から無条件に1ポイントが減点される。ぶつけられた方が出血せず、ぶつかっていった方が出血した場合でも、ぶつけられた方が減点されてしまうのだ。
 長谷川は比較的出血しやすい選手なので、「ぶつけられて減点」という可能性は低いが、バッティングによるカットをパンチによるカットと誤審される危険性もある。

 これらを考えると、バッティング覚悟で頭から突っ込んでくるガルシアの戦法は、長谷川にとって非常に厄介なものと言える。そして実際に、長谷川は苦戦を強いられた。

 この試合を見ていて思い出したのは、ホルヘ・リナレス VS サオヒン・シリタイコンドーの一戦である。サオヒンは低い姿勢で突っ込んではリナレスのボディへストレートを伸ばし、リナレスはそれをフットワークで捌き続けた。終始脚を使い続けたため、リナレスが相手に打ち込んだクリーンヒットの数は少なかった。しかし、相手から打ち込まれたクリーンヒットはもっと少なく、10ラウンド戦い終えてもリナレスの顔は綺麗なままだった。

 長谷川は、ガルシアの突進に対し、半分はフットワークで捌き、半分は正面から受け止めている。その結果、相手に打ち込んでいるクリーンヒットの数は、サオヒンと戦ったときのリナレスよりも遥かに多い。しかし、相手から貰っているクリーンヒット、そして貰っているバッティングの数も、遥かに多いのだ。

 4ラウンドには、長谷川の左アッパーがクリーンヒットしてガルシアがダウンする。この際、ガルシアの体が大きく吹っ飛んだのは、アッパーのヒットと同時にガルシアが自分の脚を長谷川の脚に引っ掛けてバランスを崩していたからである。(ガルシアの自業自得で、長谷川に非はない)
 4ラウンド終了時点では、2人のジャッジが長谷川にフルマークをつけており、数字の上では圧倒的な優勢になっていた。しかし、それが額面通りのものでないこともまた、事実であった。

 ガルシアは、長谷川から相当の数の有効打を顔面とボディに喰らっているにもかかわらず、6ラウンドに入っても前進を緩める気配がない。この回、長谷川はラウンド開始直後からフットワークで捌こうとするが、捌ききれずにガルシアに捕まるといった展開が繰り返される。
 有効打は両者互角だが、手数はガルシアの方がやや多い。また、この試合展開では主導権支配はガルシア側にあると見るべきだ。となると、ポイントはガルシアの方へと流れ込む。
 
 7ラウンドは、長谷川がサイドステップを使わなくなったことからガルシアとの真正面からの打ち合いになる場面が多くなった。
 そして、恐れていた長谷川のカットは、パンチによるものとの裁定が下る。
 そのすぐ後に、ウィラポンをKOしたときと同じコンビネーション、「左ストレート(ヒットせず)→右フック(カウンターヒット)」が決まるが、当りがもう一つ浅い。ガルシアは特にふらつきを見せることもなく反撃してくるが、長谷川も手応えはあったのだろう、猛然とラッシュを始める。いいパンチが入るが、それでもガルシアは揺るがない。
 このラウンドは、比較的軽めである有効打の数の累積を取るか、少数だが強烈な有効打を評価するかで、採点の割れるところとなった。

 8ラウンドに入ると、ガルシアの「ボディを打っては頭を付け、クリンチの状態で自然にバッティング」というパターンが露骨になってくる。さすがの長谷川も苛立ちを隠せず、レフェリーにアピール。
 そして、当然の流れと言うべきか、偶然のバッティングによって長谷川が右目の上を大きくカット。ガルシアにも僅かながら出血があったのか、両者に対して減点が行われる。
 この嫌な流れを変えたのは、またしても長谷川の右カウンターだった。長谷川がダウンを奪ったことにより、このラウンドは10対8で決まりである。前の2ラウンド分の不利を、これで一気に相殺した。

 ガルシアが頭から突っ込んでくる以上、フットワークで体ごと避けるのが得策である。
 しかし、9ラウンド以降も、長谷川がロープに詰まってガルシアの乱打戦に巻き込まれる場面が目に付く。2度ダウンしているガルシアのしつこい前進に、ダウンのダメージはほとんど感じられない。

 10ラウンドに長谷川がラッシュを仕掛けるも、両目上のカットの影響からか、パンチの精度がいまひとつで、ダウンを奪うには至らない。逆に長谷川が脚を止めると、ガルシアはへばりつくようにくっついて左右を連打する。
 スタイリッシュなボクシンを身上とする長谷川が、ガルシアのネチネチしたしつこいボクシングに無理やり付き合わされているという印象である。

 11ラウンドは、長谷川がガルシアの突進をかわしてサイドに回りこむことに成功しても、そこから長谷川のパンチが繰り出されることがない。ロープやコーナーに詰められると、長谷川は明らかに苦しそうな表情を浮かべる。
 長谷川を応援する立場の者からすると、フラストレーションの溜まる展開が続く。

 最終ラウンド、長谷川のパンチがカウンターでヒットしてもガルシアの前進が止まらない。ボディを打たれ続けた長谷川は足の踏ん張りが効かなくなって来ているのか、それともガルシアの精神力がここへ来て最高潮に達しているのか?
 それならと、長谷川はディフェンスに徹して時間を稼ぐ。
 そして最後の十数秒は、両者共に左右の連打を打ちまくるという怒涛の展開。クリーンヒットは互に少なかったが、最後の最後にあれだけの無酸素運動を成し遂げる辺り、超人技を見る思いがした。

 判定の結果、大差の3-0で長谷川が王座を防衛。
 しかし、長谷川には大きな課題の残る試合となった。今回、ガルシアがやり通した「長谷川対策」の対策を長谷川が体現しない限り、後半失速して逆転を許す危険性は常にあると言えるだろう。
 もちろん、長谷川が漫然と次の防衛戦を迎えるとは思えない。苦手な戦法を克服し、より強くなった姿を披露してくれることを期待している。

WBC世界ミニマム級タイトルマッチ イーグル京和 VS ロレンソ・トレホ

第3回ワールド・プレミアム・ボクシング in 日本武道館
  WBC世界ミニマム級タイトルマッチ
         イーグル京和 VS ロレンソ・トレホ

  2006年の会場で観た試合:4回目
  観戦日:2006年11月13日(月)

 精密な機械ほど壊れやすい。
イーグル京和という精密機械は、対マヨール戦の勝利と引き換えに、壊れてしまったのではないか。
 そう思える程、この試合のイーグルは不調だった。

 確かに今回の挑戦者、ロレンソ・トレホは強者だった。42戦28勝14敗という戦績は、数字だけ見ると7位というランキングの割にはむしろ悪い内容に映る。
 しかし、その対戦相手を知れば、その負け数にも納得がいく。97年には1勝の後に3連敗を経験しているが、その相手は何とホルヘ・アルセ、ホセ・アントニオ・アギーレ、フェルナンド・モンティエルである。その次に1勝を挟んで、マシプレレ・マケプラに敗戦。これらの4敗のうち、モンティエル戦以外は全て判定負けである。何とも濃密な敗戦履歴ではないか。

 それでも、本来のイーグルであれば、対マヨール戦のときのイーグルであれば、こんな苦戦はしなかったに違いない。対マヨール戦を後楽園ホールで観戦した私の眼には、この日のイーグル京和はまるで別人に見えた。

 もっとも、私がイーグルが明らかにおかしいことに気付いたのは、2ラウンドが終わろうとしているときである。イーグルが棒立ちになっている場面が目に付きだしたのだ。もともとアップライトに構える選手ではあるが、余りにも「突っ立ている」感が強い。膝のバネが効いていない感じだ。

 3ラウンドに入ると、開始直後からイーグルのフットワークの悪さが気になるようになった。その時私は、トリニダードが復帰第1戦目でマヨルガと対戦した試合の第1ラウンドを思い出していた。あのときのトリニダードほどではないが、今リング上にいるイーグルも膝の動きが硬く、脚の運びがギクシャクしている。まるで、脚関節の潤滑油が切れて、ギシギシと音を立てて動いている感じだ。

 上から打ち下ろす右を当ててダウンを奪った後にラッシュをかけるものの、「一体ダウンしたのはどちらのボクサーだ?」と思えるほど、イーグルの動きが悪い。いつものスピードがないだけではなく、リズムに乗れておらず、パンチにも鋭さがない。

 4ラウンドに入ってもイーグルの動きは相変わらずで、私はもう彼が足首か膝か股関節か腰を痛めていると断定して試合を見ていた。
 私の後の席の客が、解説者気取りで「イーグルはディフェンスが良いから、安心して見ていられるねぇ」などと素人丸出しのことを言っているが、私の方はとてもそんな気分にはなれない。
 すると、リングの上でイーグルが右肩を軽く回すような仕草をした。
 肩か! 右肩を痛めているのか?! 以前痛めた肩は、右か左のどちらだっけ?
 私がそう思った次の瞬間、イーグルが右を強振した。
 右肩ではないのか? 確かに、肩を痛めてフットワークがギクシャクするというのも不自然だ。すると、背中か? 背中を痛めると、ギックリ腰同様の状態になることがあることを、私は自分の経験から知っている。

 イーグルは度々棒立ちの状態になるため、どうしてもボディのガードが空く。そこを狙ってトレホが有効打を何発も入れ、イーグルの意識がボディにいったところで今度は顔面に連打を決める。
 挑戦者が、試合の流れを掴みかけている。

 6ラウンドにイーグルがこの回2度目のダウンを喫したときは、
「イーグルは眼を壊しているのではないか?」
と思った。1度目のフックは打ち合いの中で貰ったパンチだったが、2度目のダウンの際には、見えているはずのパンチを無反応で喰ったように見えたからだ。
 過去、眼を壊していながら防衛戦を行ったチャンピオンが日本にいた。鬼塚や川島がそうだ。イーグルも、前回のマヨール戦で眼を壊し、それを隠してこの試合に臨んでいるのではないか?

 7、8ラウンドは、倒すことを意識し過ぎてボディを打たなくなった挑戦者に、チャンピオンが助けられた形になった。展開は一進一退で、採点は割れると思われた。
 こういうとき、オープン・スコアリング・システムは有効だ。
 中間発表されたスコアは、「75-74でチャンピオンを支持」が二人、「74-75で挑戦者を支持」が一人のスプリット。私は「74-75または73-76で挑戦者を支持」だったので、ちょっと意外だった。しかし、逆に言えば、このスコアならまだイーグルにも望みがある。

 9ラウンド目の展開は、オープン・スコアリング・システムが微妙に影響を与えていたように思う。イーグルが少し落ち着きを取り戻して上体を振るようになり、逆にトレホは少し慌てて攻め急いでいるように感じた。その結果、トレホのパンチに空振りが目立った。
 10ラウンドは、もうドロドロの乱打戦・消耗戦の様相を呈した。11ラウンドもその流れが続いたが、攻め疲れで失速したトレホにイーグルが連打を浴びせ、大きな山場を作った。私も
「詰めろ! ここで倒せ!」
と思わず絶叫。

 最終ラウンドも、オープン・スコアリング・システムの影響を受けていたと思う。
 イーグルが、この試合で初めて脚を使って戦おうとする。ポイントで勝っていると判断して、このラウンドを流そうとしているのだ。トレホは逆に、この回を10対9で取っても勝ちはないと思っているのだろう。守勢など微塵も見せず、前に出て手を出し続ける。
 イーグルが、いつぞやのフェリックス・シュトルムのように、徹底して脚を使って逃げ回らず、終盤は打ち合いに乗じたのは、彼の性格によるものなのか、その方がむしろ安全だと判断したからなのか。

 スコアは「113-112」が二人、「114-113」一人と、3人のジャッジが皆1ポイント差でチャンピオンを支持するという“薄氷のユナニマス・ディシジョン”。
 このスコアは、おそらくイーグル陣営の計算通りだったのではないか。
 ちなみに、私の採点では逆に1ポイント差で挑戦者の勝利(「112-113」)となっていたが、僅差のラウンドを1つ逆につけていたらチャンピオンの勝利(「113-112」)に変わる。ジャッジの下した判断は、適切な範囲内にあると思う。

 イーグルは、試合前に右の拳を痛めていたとのことだが、それだけではあのフットワークの悪さや棒立ちの姿勢だったことに納得することは出来ない。最悪の状態でも勝ったことは評価したいが、今後のイーグル京和に大きな不安を残す試合となったことも確かである。

粟生隆寛 VS ガブリエル・ペレス

  日本武道館ダブルタイトルマッチのアンダーカード
  粟生隆寛 VS ガブリエル・ペレス

  2006年の会場で観た試合:4回目
  観戦日:2006年11月13日(月)

 58kg契約ウェイトの6回戦、しかも来年3月に日本王座挑戦が決まっているとなれば、この試合はタイトル前哨戦ならぬタイトル挑戦前の調整試合である。ペレスの体を見ても、明らかに粟生よりも一回り小さい。かませ犬と言うよりは、ちょっと癖のある調整相手と言ったところだろう。

 この試合、粟生は右はほとんどジャブのみしか出さなかった。それもチョンチョンと距離とタイミングを計るだけのジャブである。傍目には、左腕一本だけで戦っているように感じられた。
 それでも1ラウンドに、その左のカウンターであっさりとダウンを奪う。その後相手に粘られたものの、6ラウンドに相手のいきなりの右に自分の右フックを被せ、そこへコンパクトな左フックを返すと、これが綺麗に顎を打ち抜いた。視線を宙に泳がせて前のめりに倒れそうになるペレスをレフェリーが抱き止め、試合は終了した。

 調整試合としては、まぁこんなところだろう。
 客席で観ている私もそう思ったし、試合後のリング上でインタビューを受けている粟生もそんな感情を漂わせていた。
 相手に警戒されている左を最後にキッチリ決めるところは、史上初高校6冠は伊達ではないと思わせた。相手のバッティングで目の上を腫らしても、試合中はレフェリーにアピールしなかった点も評価できる。

 試合後のインタビューでは、「(日本王座挑戦は)あっさり勝たしてもらう」と断言していたが、さすがに今日のような試合内容にはならないだろう。
 地上波で放送された煽り映像では、右でもダウンを奪っていた。日本王座挑戦では、粟生の右の使い方に注目したい。
 また、今回の試合ではほとんど出さなかったボディブローを、実際にどこまで武器に出来ているかにも興味がある。『エキサイトマッチ』に出演した際、バレラとのスパーリングに関して「(バレラのボディーブローで)何度倒されたことか」と語っており、ボディブローの重要性も身を以って知っている筈だ。左のカウンターをボディに突き刺してのKO勝ちというパターンも見てみたい。

 この日、粟生がカウンター使いというテクニシャンでありながら、骨格が太いという点に気が付いた。左のカウンターの威力は、タイミングと切れが良いのはもちろんとして、この骨格の太さに支えられている点もあるように思えた。日本人ボクサーにしては珍しいタイプである。

Berryz工房 と ℃-uteを解体する必要性を再確認!

Berryz工房 と ℃-uteを解体する必要性を再確認!

      ~ 「ヲタ向けの学芸会」ではなく、
                   「一般人の鑑賞に耐えるもの」を ~


             やはり、一般向けとしても通用する!

 『ワンダフルハーツランド』のDVDに収録されている、吉澤、三好、矢島、熊井による『印象派 ルノアールのように』を観たとき、「これだ!」と正に我が意を得た気持ちになった。何故ならそれが、私が“Berryz工房 と ℃-uteを解体せよ!”という記事で提唱した

  【B】スタイル特化グループ(モデル系、ダンス系)

   矢島舞美(1992年2月7日生まれ)
   須藤茉麻(1992年7月3日生まれ)
   梅田えりか(1991年5月24日生まれ)
   熊井友理奈(1993年8月3日生まれ)


のイメージに近いものだったからである。
 吉澤、三好、矢島、熊井による『印象派 ルノアールのように』は、このDVDに収められている「アイドルグループ(臨時編成組と常時編成組の両方)」の中で、最も「一般人の鑑賞に耐えるもの」であると私は思う。
 もちろん、100点満点などと言うつもりは毛頭ない。あの緑色のフリンジは如何なものかと思うし(エロさを抑えるためだとしても、もう少し軽い色にすべき)、舞美と友理奈は体がまだ出来ていないので、露出の高い衣装を着せること自体に無理がある。
 そういう問題点はあるものの、とにかく単純に「美しかった」。
 彼女達の美しさは、一般向けとしても通用する美しさであり、端的に言うと「パッと見で、人目を惹く」美しさなのだ。

                    揃っていることは美しい

 以前、モー娘。とMAXが某番組で共演していたとき、娘。のメンバーがMAXのステージに関するコメントを求められて
「(MAXは)踊りが揃っていて、(娘。よりも)きれいですね」と応えていた。
 最近では、千聖がDVDの特典映像の中で
「℃-uteは、もっとダンスが揃うようにならないと」という趣旨の発言をしている。
 アイドル以外でも、ダンスというものは原則として「揃っていること」が求められる。ダンスではないが、直訳すれば「同調水泳」となるシンクロナイズド・スイミングなどは、その最たるものだろう。揃っていることは美しく、「十分に揃えられない状態」や「揃えることに失敗している状態」は美しくないという価値観が、歴然と存在しているのだ。
 私が学生の頃は、学校行事の行進などでも「全員が動きを揃えるように」と指導されたものだ。こういう経験は、大なり小なり誰もが経験しているに違いない。

 ある程度まで揃えることは、素人にも出来る。いわゆる「学芸会」レベルの芸だ。しかし、それは一般的にはプロの芸、即ち「金を払っても見る価値のあるもの」とは見なされない。
 多くの場合、プロのダンスには、そういった「学芸会」レベルを越えて揃っていることが求められる。何故なら、ある一定のレベルを越えて揃っていると、それだけでとりあえず人の注意を引くことが出来るからだ。そこには、人間の本能に訴えかける何かがあるのかもしれない。
 このことは、意外に見落としがちなことなので、注意が必要である。


         「バラエティ編成」では、踊りを揃えることに限界が生じる

 私は以前、“Berryz工房 と ℃-uteのDVDを観た感想”という記事の中で、ベリ工と℃-uteの問題点について書いた。その内容を箇条書きにまとめると、次のようになる。

(1)メンバー間の体格差が大きすぎて、ダンスのフォーメーションに制約が発生しているのではないか。
(2)メンバー間の年齢差から来る外見の差(体格差を含む)が大きくなっていることにより、ビジュアル的にグループとしてのまとまりを喪失している。
(3)現時点のベリ工と℃-uteのパッと見の印象は、「統一性がなく、バラバラ」である。これでは、パッと見で明確かつ肯定的なイメージを植え付けることが出来ず、見た人の記憶に残らない。
(4)このような「不統一性」は、メジャー化に向けた売り出し戦略にも支障をきたす。例えば、メンバーに小学生が含まれているアイドルグループが、男性誌(青年誌)のグラビアに登場することはまず有り得ない。
(5)「不統一性」は売り出し戦略に支障をきたすだけではなく、一般層からの完全新規ファン獲得の本質的な障害になる。ベリ工と℃-uteの年長組が高校生になっても、同じグループ内に小中学生のメンバーがいると、一般的な中高生はファンになることに抵抗を感じる。よって、一般層からの新規ファンが増えず、「モー娘。とベリ工と℃-uteが、互いに既存のファンを奪い合っている」という構造的問題から脱することが出来ない。

 ここでは、ダンスチームとしての弊害に関して補足してみよう。
 大きな体格差がある・身長差があるということは、もう止まっている時点で「揃っていない」ということだ。当然ではあるが「静的な不統一」、まずこれが一点。
 次に、「動的な不統一」。大きな身長差がある場合、歩幅にも当然差が生じる。メンバーが横一列に完全に等間隔で並んでいても、同じ動きで横に一歩ステップを踏めば、それだけで等間隔という状態が崩れてしまう。等間隔を保とうとすれば、身長の高いメンバーが動きを小さくするか、身長の低いメンバーが動きを大きくすることになり、今度はアクションが揃わなくなる。
 また、腕を大きく回すという単純な動作も、メンバー間の身長差が大きいとそれぞれが大きさの異なる円弧を描くということになり、動きのタイミング自体は合っていてもバラついた印象は否めない。

 前にも述べた通り、パッと見で一般の目を引くのは「一糸乱れぬ動き」である。
 中途半端に揺らいでいるフォーメーションは、特に注目されることなく、ただ意識の上っ面を通り過ぎていくだけになってしまう。
 そういった意味において、現状のベリ工と℃-uteは、真にプロフェッショナルなチームダンスを披露することが不可能になっていると私は思う。

 モー娘。の一時期の人気は「素人の寄せ集めが頑張ってメジャーを目指す」というコンセプトや、そんな彼女達の「学芸会レベル」の歌や踊りに対する親近感によって生じたと考えられる。
 また、色々なタイプのメンバーを一つのグループに詰め込んだ「幕の内弁当」的な「バラエティ編成」が、世間一般に広くウケたという側面もあったのだろう。要するに、色々なタイプのメンバーを一度に見ることができてお徳だし、その中に1人くらいは自分の好きなタイプのメンバーを見つけられたという訳だ。

 しかし、最近のモー娘。の人気の低迷を見れば、「学芸会レベル」の歌や踊りや「バラエティ編成」が、一般からの支持を失っていることは明らかである。こういった要素は、「素人の寄せ集めが頑張ってメジャーを目指す」という発展途上の状況下では許されるが、一旦目的地であったメジャーというポジションに到達した後は、逆にマイナスでしかなくなってしまうのだ。

 真のプロフェッショナルに、「学芸会レベル」の歌や踊りは許されない。
 そして既に述べたように、「バラエティ編成」といった中途半端なメンバー構成では「静的な不統一」・「静的な不統一」が発生するので、「学芸会レベル」を脱することは非常に困難である。


           一般層の鑑賞に耐え得る、アイドルの「完成形」とは

 MAXもSPEEDも、それぞれのメンバーに個性はあったが、メンバー間の身長体格差は小さかった。年齢差に関してもそうである。
 バスケットボールにおけるゾーンディフェンスのような計算されたフォーメーションでもない限り、メンバー間の身長体格差や年齢差は、出来るだけ小さくする必要がある。そして、そうすることによって、自然に「特化されたプロフェッショナル」なチームが生み出されることになるのだ。
 それが即ち「一般人の鑑賞に耐えるもの」であり、例えアイドルといえどもプロである以上は到達しなければならない「完成形」である。

 いつまでも「未完成」のままのものを見せ続けられたら、普通は飽きる。
 「未完成」が一時的にウケることはあっても、最終的に人が求めるものは「完成品」であり、素人を超越したプロの技能である。
 子供に対して「いつまでも子供のままでいて欲しい」と思う親のエゴは、どこかにあるものなのかも知れない。
 しかし、子供が本当にいつまでも子供のままであったら、正常な親は途方に暮れるだろう。

 ベリ工と℃-uteが、所詮ヲタにしか通用しない人材の集まりだとは、私には思えない。
 彼女達なら、「ヲタ向けの学芸会」ではなく、「一般層の鑑賞に耐えるステージ」を創り出すことが出来ると思う。
 キッズ世代の真のメジャーデビューに向けてベリ工と℃-uteが解体され、一般向けのアイドルグループとして再編成されることを、切に願う。


                      追記

 “Berryz工房 と ℃-uteを解体せよ!”という記事で、私は

  【A】スター性&歌唱性特化グループ(アイドル王道系)

    久住小春(1992年7月15日生まれ)※小春は2006年の年末にモー娘。を卒業させる
    夏焼雅(1992年8月25日生まれ)
    村上愛(1992年6月6日生まれ)
    嗣永桃子(1992年3月6日生まれ)
    鈴木愛理(1994年4月12日生まれ)


というグループを提示した。
 しかし、村上さんは既にハロプロにはいない。
 そして、小春は現在「月島きらり STARRING 久住小春」というスタイルで、一般層(この場合は一般の小学生層)の支持を受けた正統派アイドルとして順調な活動を展開している。このまま行けば、かつてあややが占有していたポジションに到達できそうである。
 よって、この【スター性&歌唱性特化グループ(アイドル王道系)】は、

    夏焼雅(1992年8月25日生まれ)
    嗣永桃子(1992年3月6日生まれ)
    鈴木愛理(1994年4月12日生まれ)


の3人編成が現実的ということになる。
 ビジュアルのセンターが雅、ボーカルは愛理と桃子のダブルメインである。
 3人編成となったが、愛理と桃子を擁するこのグループが、歌唱力においてはキッズ世代の最強メンバーであることに変わりはない。
 以前、ビジュアル的には、根っからの「陽」である小春と、どこかに「陰」を含んだキャラクターである雅との対比を考えていた。今回3人編成としたことで、対比そのものは「雅」と「桃子&愛理」でも可能であることに気付いた。即ち、「正統派美人」と「個性派」の対比である。

 このグループの問題点としては、「雅と桃子が高校生になっても愛理が中学生」という年齢構成が挙げられる。しかし、愛理は歌唱力においては超中学生級であり、一般的にもプロとして通用するレベルにある。このことが、「雅と桃子が高校生、愛理は中学生」となっている状況下でも、一般の中高生がこのグループのファンとなる言い訳として成立する可能性が高い。つまり、愛理の高い歌唱力が、彼女を例外扱いすることを許すのである。

久住小春は正統派アイドル ~ヲタの力では大ヒットは生まれない~

久住小春は正統派アイドル
         ~ヲタの力では大ヒットは生まれない~


 アップフロントには、Berryz工房や℃-uteとは対照的に、普通のアイドルとして売り出されている中学生もいる。
 久住小春である。
 正確には、「月島きらり STARRING 久住小春」と言うべきか。
 先日、2ndシングルが見事オリコン8位に入り、人気が定着しつつあることを窺わせた。
 ここで言う人気とは、ベリ工や℃-uteのような「ヲタに対する人気」ではなく、「一般に対する人気」である。更に具体的に言うと「一般的な小学生に対する人気」だ。

 CD購入者の統計を見たわけでもないのだが、「月島きらり STARRING 久住小春」の売り出し方を見ると、そう思える。一貫してヲタ向けではなく、小学生向けの商売をしているのだ。(ちなみに『きら☆レボ』自体も、アニヲタ向けではなく一般的な小学生向けの商売をしているようだ)
 断言するが、ハロプロメンバーの中で、自分よりも年下のファンを最も多く擁しているのは「月島きらり STARRING 久住小春」である。そしてこれは、アイドルの伝統的なスタイルなのだ(関連記事は→こちら)。

 この伝統的なスタイルを、私は正統派と表現したい。
 何故なら、それが中学生アイドルの安全性を最も高くするビジネスモデルであるからだ。極端な話、ファンが全員小学生だった場合、その中からストーカーが現れて盗撮写真をネットに流すという可能性は、限りなくゼロに近いだろう。
 もう一つ、これは本来最初に挙げるべきなのだが、小学生が年上のアイドルのファンになるのは自然なことであり、いつの時代でもそのニーズが存在しているからだ。自然な状態で存在するニーズを取り込むのは、まさしく正統派の仕事である。

 「月島きらり STARRING 久住小春」は、なぜ成功しつつあるのか?
 理由は幾つかあるが、最も大きいのは、現在「小学生向けアイドル歌手」が少ないからだと思う。つまり、「月島きらり STARRING 久住小春」には競争相手が少ないため、一人勝ちを収めつつあるのではないか?
 もちろん『きら☆レボ』自体は、『プリキュア』とか『アンパンマン』とか『ポケモン』とかディズニー作品とか、ライバルには事欠かない状態である。しかし、それらのアニメは生身のアイドル歌手とタイアップしていない。着ぐるみのアンパンマンやポケモンは、ある意味「画面から飛び出したアイドル」であるが、彼らは「月島きらり STARRING 久住小春」のような本格的な歌手活動をしていない。

 小学生に対して最も知名度があるアイドルは、おはガールか小学生向け雑誌のモデルではないかと思うのだが、歌手という面では「月島きらり STARRING 久住小春」と競合していない。
 もっとも、おはガールに関しては、競合させないようにテレビ東京が調整して、上手く棲み分けさせているということなのだが。(おはガールに本格的に歌手活動をさせるのは、スケジュール上難しいとも思える)
 この辺りは、テレビ東京とアップフロントが、互に良い仕事をしていると思う。『きら☆レボ』の韓国での放送と「月島きらり STARRING 久住小春」がどうリンクしていくのかは知る由もないが、細心かつ大胆な展開を期待している。

 未就学児ならともかく、小学生となれば、アニメと実写(生身)の区別は付く。女の子には雑誌モデルみたいに可愛い服で着飾りたいというニーズもあるだろうし、モデルに準ずる可愛い衣装を着て、歌ったり踊ったりすることに対するニーズも当然ある筈だ。「月島きらり STARRING 久住小春」には、そういったニーズが集中しつつあるのではないか。

 「少子化」・「子供の娯楽の多様化」という言葉は良く聞かれるが、昔から存在する娯楽が、ただ漫然とそういう時代の波に押し流されてきたわけではない。
 代表的なのは、男子未就学児を対象にした特撮番組であろう。『スーパー戦隊シリーズ』は、今年で30周年を迎える長寿シリーズで、シリーズ第1作の『ゴレンジャー』をリアルタイムで観ている私は感慨もひとしおである。
 このシリーズを見ると、「少子化」とは、「一人当たりの子供にかける予算が増加すること」でもあることが分かる。「少子化が進んでいるから子供向けの商売はダメ」などと諦めるのではなく、むしろ「少子化を逆手に取った商品展開を番組に反映させる」という対応を進めてきた結果、昔よりも視聴率が低下しても番組を存続させることが可能になっているのだ。

 特撮ヲタという人種が存在することは事実だが、子供向け特撮番組を支えているのは決して彼らではない。一般的な子供たちが、子供向け特撮番組を支えているのだ。
 中学生アイドル歌手にも、同じことが言える筈だ。
 ミニモニ。のCDが大ヒットしたのは、5年ほど前のことである。
 モー娘。本体の大ヒットもそうだが、この結果にはヲタはせいぜい数パーセントしか寄与していない。大ヒットとは、一般層が中心になって起こる現象なのだ。

 かつてミニモニ。が獲得し、そして失った客層を、今、「月島きらり STARRING 久住小春」が再び取り戻そうとしている。
 あるいは、久住小春は「ミニモニ。経由」で、松浦亜弥と同じコースに乗ろうとしているのかも知れない。
 いずれにせよ久住小春は、アップフロントの売り出している中学生アイドルの中で、今のところ唯一と言って良いほど「まともなアイドル道」を歩んでいると思える。
 このまま、正統派アイドルとして順調に歩み続け、高校生アイドルになった頃には、単独で紅白に出場するところまで登りつめて欲しい。
 頑張れ、小春!
 頼むぞ、アップフロント!

村上愛さん脱退に思う ~ヲタ向けの商売をしてるから、こんなことになるんだよ!~

村上愛さん脱退に思う
 ~ヲタ向けの商売をしてるから、こんなことになるんだよ!~

 ℃-uteが、普通のアイドルとして売り出されていれば、こんなことにはならなかったのではないか?
 今からでも遅くないから、Berryz工房と℃-uteを解体し、対象年齢別に再編成を!


 私は、今回の「相合傘写真のネット流出」はアップフロントによる「偽装流出」である可能性もあると考えている(その記事は→こちら)が、この記事ではその可能性を除外しておく。
 つまり、この記事では、村上愛さん(もう“めーぐる”と呼ぶべきではないだろう)が℃-uteとハロプロを脱退した理由が、「相合傘写真のネット流出」にまつわることであると仮定して話を進める。

 以前はどうか知らないが、最近のファンクラブ会員限定イベントは、顔写真付き身分証明書で個人を確認している。私がパシイベに2回、広尾DSに1回参加した経験(いずれも℃-uteのイベントではない)からは、このチェックはそれなりにキチンとしたものであるように思える。証明書の顔写真と参加者本人の顔をチラチラと見比べていたような気がするのだ。だから別人が当選者を装って入場しようとしても、顔写真付き身分証明書の顔とかなり似た顔をしているか、顔写真付き身分証明書自体を上手く偽造していないと、バレてしまう可能性が高い。

 さて、村上愛さんに関する問題の写真をネットに流した人間が、その写真を撮影した本人であり、その人が村上愛さんのストーカーだったと仮定する。更に、そのストーカーはハロプロのファンクラブの会員であり、最近の℃-uteの会員限定イベントに参加した経験が複数回あると仮定する。
 そうすると、このストーカーである可能性のある人物は、かなり絞り込まれてくる。
 こうして絞り込まれる“容疑者”が、1000人なのか100人なのかは分からないが、その一人一人に関しては「どこの誰」だか特定できる可能性が高い。仮に別人になりすましてイベントに参加していたとしても、別の当選者から当選データを受け取って参加していたわけだから、そこから尻尾を掴むことは出来る筈だ。
 おっと、℃-uteイベ参加者だけを“容疑者”呼ばわりするのは不公平だ。この“事件”が世間一般の注目を集めることはないが、もしそうなったとしたら、マスコミに“容疑者”扱いされるのは、ハロプロFC会員全員だろう。それにはこの私も含まれている。

 話が逸れた。問題は、ストーカーを特定できるということではなく、ストーカーがハロプロFCの会員で、いわゆる「めーぐるヲタ」である可能性が高いということだ。
 つまり、アップフロントからすれば「飼犬に手を咬まれた」ならぬ「客に新人を潰された」という状況が発生したのだ。いままでイベントやらグッズなどで、ヲタから散々金を集めていたところに、手痛いしっぺ返しを喰らった格好である。
 我々ハロプロファンの立場からすると、「身内の犯行」ということだ。

 もちろん身内であっても(否、身内だからこそ)、ストーカーの行った行為は、いかなる理由があるにせよ許されるものではない。
 少なくとも、℃-uteに於いて“めーぐる”という愛称で親しまれていた偶像は、そのストーカーが放った数枚の写真という“弾丸”によって抹殺されてしまったのだ。
 ピストルの引き金を引き、その“弾丸”を放ったのは、ストーカー本人である。
 では、その“弾丸”を、ピストルに込めたのは誰なのか?
 私は、アップフロントに他ならないと思う。

 普通、アイドルというのは、主に年下~同世代に支持されるものである。
 その昔、私が中学生の頃、学校でアイドルといえばピンクレディー(ただし人気は急降下していく)や松田聖子(人気上昇中)、個人的には河合奈保子(中学生向け雑誌の表紙の常連)といったところだった。全員、当時の私よりも年上であり、私や同級生もそのことを知っていた。アイドルが自分より年上であることは、当然のことだったのだ。
 逆に、当時の中学生だった私たちにとって、自分より年下のアイドルのファンになるということは、まず有り得なかった。当時は中学生以下のアイドルがいなかったのかも知れないが、そのこと自体も記憶に無い。それくらい、自分たちより下の世代の芸能人は眼中になかった。

 このことは、基本的には現在でも同じだろう。今の中学生が、小学生のアイドルのファンになるとは思えない。中学生が中学生アイドルのファンになるというのも、男子に限って言えばほとんどタブーに近いものがあるのではないか。中学生男子が「中学生アイドルの○○が好き」と言うのは、「隣のクラスの○○が好き」と言うことに準じる恥ずかしさがあると思う。
 だから小学生アイドルに関しては、尚更である。中学生が、萩原舞のファンであることをクラスで公言しようものなら、それだけで変態のレッテルを貼られることになりかねないと思う。

 逆に女子の場合は、アイドルに自分を重ねて見る場合があるので、自分と同じ中学生の雑誌モデルとか、あるいは久住小春のような純然たるアイドルに憧れる=ファンになるということも珍しくないかも知れない。
 高校生になると男子でも同世代か一つ下ぐらいまでのアイドルのファンになることが許容されるようになり、大学生になると高校生世代のアイドルまで許容されるようになるように変化いていくように思う。

 私よりもちょっと前の世代のことなのでハッキリしたことは言えないが、キャンディーズは同世代のファンが多かったらしい(キャンディーズはデビュー時に17才前後、引退時で22才前後)。大場久美子の場合は、「1億人の妹」というキャッチフレーズで売り出されたことを考えると、年下よりも年上の層(このキャッチフレーズが出た時点で大場久美子は17才)を狙っていたと考えるべきだろう。
 しかし、両者とも同世代あるいは年上の層をターゲットにしたのは17才以降のことである。大場久美子のキャッチフレーズにしても、25才を過ぎたサラリーマンまでもを対象にしていたとは思えない。

 これに対し、℃-uteやベリ工はどうか? 中学生主体の彼女たちのファンの年齢層は、どうなっているのか?
 私は℃-uteやベリ工のイベントに行ったことはないので推測で言わせてもらうが、20歳以上が圧倒的多数なのではないか(村上愛さん脱退の件があってから、このことを確認するため、出来れば一度℃-uteのイベントに参加してみようと考えてはいる)。その根拠は、ベリ工と℃-uteも出演していた去年の「Hello! Project 2005 夏の歌謡ショー」に行った際、その観客の平均年齢の高さに驚いた経験があるからだ。(その記事は→こちら
 当時は「ベリ工単体のコンサートは、さすがにこんな客層ではないだろう」と思っていたが、現時点では、この想像が外れていると思える。

 もし私の推測が正しいとすれば、℃-uteやベリ工のファン層は、明らかに歪んでいる。メンバーが中学生主体である℃-uteやベリ工のファンの年齢層は、小学生が中心でなければ不自然なのだから。
 自分が中学生だった頃のことを思い出すと、20才以上の男性など「オッサン」そのものである。℃-uteやベリ工のメンバーの認識も、多分同じだろう。彼女たちは、オッサン相手に商売をさせられているわけである。
 何故こんな状態になっているかと言えば、アップフロントがそういう売り出し方をしてきたからである。一時期は観客の年齢を制限したイベントも開いていたとのことだが、それが徹底して継続されることはなかった。
 最近、おはガールの握手会で、客の年齢制限(小学生以下限定?)が行われていることを知った。℃-uteもこういう方針を徹底していれば、今回のような事態は避けられたと私には思える。

 二十歳を過ぎた男性が、中学生以下のアイドルの握手会の列に並ぶと言うのは、ハッキリ言って常軌を逸した行動である。そういう人を単純に異常者と言うつもりはないが、それが普通の感覚からすると一線を越えた行為であることを自覚していないとしたら、危険である。℃-uteのファンが、そのような種類の人間の集団であるとしたら、彼らのうち一人(または今回の事件と同一のストーカー)が、再び今回のような事件を起こすリスクは高いと言わざるを得ない。
 このことは、自動車の運転に例えるとイメージし易い。
 理由はどうあれ、スピードを出すタイプのドライバーは、他のドライバーよりも高いリスクを抱えている。そのリスクを自覚し、コントロールできていないない場合は、実際に事故を起こす危険性もより高いと言わざるを得ない。℃-uteのファンもそれと同じだ。

 ピストルの引き金を引き、“弾丸”を放ったのはストーカー本人であり、
 その“弾丸”をピストルに込めたのは、アップフロントに他ならない。

 そう書いた意味が、もう理解していただけたと思う。
 アップフロントは、結果としてヲタ向けの商売を℃-uteにやらせてきた。
 ヲタは可処分所得が比較的多い(あるいはヲタ本人の努力でそうなっている)。アップフロントにとって、そういったヲタはグッズ購入も含めて「お得意様」、つまり金を吸い上げやすい相手であることは想像に難くない。しかし、ヲタを野放しにすることにはリスクも伴うということが、今回の一件で明らかになったのではないか。

 別にヲタを犯罪予備軍呼ばわりするつもりはない。
 しかし、ヲタではない小学生ファンと比較すれば、明らかにリスクの高い集団であることは間違いない。
 どちらをファンの中心にしたら、アイドルの安全性が高くなるかは、言うまでもないだろう。

 人間の物事の受け止め方や振る舞いは、周囲の環境に左右される。ヲタもその例外ではない。
 イベント会場の8割が小学生とその親、いわゆる親子連れであったのなら、それだけで「ストーカー化するヲタ」は限りなくゼロに近づくと思えるのは、私だけだろうか。

 あるいは、アップフロントにとっては、今回の“事件”も予め織り込み済みのリスクの一部に過ぎないのだろうか。アップフロントが投資しているのは、℃-uteというユニットであって、村上愛という個人ではない。「ストーカー化したヲタ」によって、一人や二人のメンバーが潰されることは充分承知のうえで、ヲタ相手の商売を展開し続けてきたのだろうか。

 握手会の際に最も情熱的だった(眼差しや、ギュッと握る強さとか)言われていた“めーぐる”が、本当に「ストーカー化したヲタ」によって消滅を余儀なくされたのであるならば、皮肉では済まされない悲劇である。
 ここで私は敢えて、暴走が連鎖し、エスカレートする危険性を警告しておきたい。
 今回は、プライベートの盗撮であっても、彼氏とのツーショットといった写真週刊誌レベルのものだった。
 年齢制限のない握手会などの「接触系イベント」や、FC限定といった「選民感覚」・「独占感覚」を刺激するイベントを今後も続けていくとしたら、トイレ盗撮などの、犯罪レベルのプライベート盗撮が行われないとも限らない。
 忘れてはならないことは「あのストーカーは、まだ存在している」ということである。そして「あのストーカーが、最後の一人だとは思えない」のだ。

 新たな悲劇が行われることのないよう、抜本的な対策を早急に行う必要がある。
 すぐに行える対策は次の二つ。

1.中学生以下のメンバーに関しては、握手会を行わせない。あるいは、参加者を小学生以下に限定する。
2.中学生以下のメンバーに関しては、FC限定イベントに出演させない。あるいは、参加者を小学生以下とその保護者(女性のみ)に限定する。

 すぐには行えないが、Berryz工房と℃-uteを解体し、対象年齢別に再編成することも必要である。このことは、今回の事件が起こる以前に、今回の趣旨とは別に書いたものだが、結果的には真に抜本対策と言える内容になっていると自負している(その記事は→こちら)。
 その記事には、村上愛さんの名前も入っているが、修正はしない。
 キッズが、ヲタ向けではなく一般向けのアイドルとして売り出されていれば、こんなことにはならなかったのではないかという思いが、そこに新たに込められているからだ。

村上愛が「卒業」ではなく「脱退」であることに関するアレコレ

村上愛が「卒業」ではなく「脱退」であることに関するアレコレ


 ハロプロのオフィシャルサイトの「『℃-ute 村上 愛』について皆様へ大事なお知らせ」を読んで、めーぐるが純粋に「学業に専念するために」℃-uteそしてハロプロを辞めたと思うのは、ハロプロのことをよく知らない人で、かつ社会人ではない人ぐらいだろう。
 ハロプロことを全く知らない人であっても、少なくとも社会人であれば、一企業の公式サイトが
「○○は、昨日付けで辞めました」 
と発表することの非常識さは、それこそ読んだ瞬間に感じる筈だ。
 また、例え中学生であったとしても、ハロプロファンならば、舞波やこんこんのケースと比較して「これはおかしい。何か隠していて、真相を伝えていない」と思うに違いない。

 私は社会人かつハロプロファンなので、このお知らせを読んだ瞬間、
「懲戒解雇」
の四文字が真っ先に浮かんだ。
 矢口が若手俳優との恋愛関係を写真週刊誌に掲載されても、アップフロントは彼女を解雇しなかった。
 あいぼんが、喫煙場面を写真週刊誌に掲載されても、アップフロントは彼女を解雇しなかった。
 それなのに、めーぐるは「昨日付けで退職しました」ときたもんだ。
 一体、めーぐるは何をやらかしたんだ?

 タバコを吸いながら恋人と一緒にラブホテルから出てくるところを写真週刊誌に掲載されるくらいしないと、ハロプロは彼女を解雇しないのではないか?

 さすがに気になってネットで調べたら、すぐに「めーぐるらしき少女が、男性と相合傘で腕を組んで歩いている」という、何とも微笑ましい写真が見つかった。別に写真週刊誌に掲載が決まっているわけでもないらしい。第一、℃-uteなんか一般には全く無名だから、アイドルゴシップ記事としての価値は非常に低い。「モー娘。の妹分」という枕詞を付ければ見出しにはなるかもしれないが、実際の記事として成立するかといえば、かなり難しいだろう。

 こんな写真がネットに流れたぐらいで、アップフロントがめーぐるを解雇したとは考えにくい。
 「彼氏と別れなければ、解雇」というパターンも考えにくい。交際の続行を認め、矢口みたいにユニットからは外してハロプロには残すという前例があるからだ。
 めーぐるの場合、ペナルティとして半年ぐらい℃-uteから外し、活動を停止させる。この口実として「高校受験(しばらくの間、学業に専念)」を使えば良い。もちろん、めーぐるには「今後は人前では彼氏と腕を組んだりするな」と釘を刺しておく。まぁ、普通に考えるとこんなところだろう。それにへそを曲げるほど、めーぐるも子供ではあるまい。
 とにかく、「交際発覚→即解雇」は可能性が低い。第一、中学生の交際を、大の大人がギャアギャア騒ぐとは思えない。矢口もそうだが、放っておいても別れたりするものだ。

 よって、今回はアップフロントによる「懲戒解雇」ではなく、飽くまでもめーぐる側からの「突然の退職」であるというのが、私の見方だ。って言うか、ハロプロファンのサラリーマンなら、普通そう思うだろう。

 ここまでは、かなり正しいという自信がある。
 そして、ここからは単なる憶測となる。
 何故、めーぐる側から「突然の退職」の申し出があったのだろうか。

 私は、めーぐるが直接的な脅迫を受けていたのだと思う。直接的というのは、ネットの書き込みとかではなく、郵送などの個人情報を特定された方法によって、という意味だ。掲示板に「殺す」と書かれるのと、自宅の郵便受けに「今度イベントに出演したら殺す」と書かれた手紙が入っているのとでは、恐怖感が全く異なる。

 プライベートの盗撮など、アイドルを志すものなら当然覚悟しているだろうし、モー娘。なんか、盗撮としか思えないような写真ばかりを集めた写真集が普通に本屋に売られていたことさえある。
彼氏とのツーショットを盗撮され、それがネットに流されれば、確かにショックだろう。しかし、メジャーデビューを目前にしためーぐるが、一切の挨拶無しにファンの前から姿を消す理由としては、それだけでは弱いという気がしてならない。

 ただし、親ともなれば話は別だ。
 今回、めーぐるはアップフロントとの労働契約を解除した。未成年者の労働契約が法的にどうなっているかが気になって労働基準法を調べてみたら、こんなことが書いてあった。

****************************************

(未成年者の労働契約)
第五十八条  親権者又は後見人は、未成年者に代つて労働契約を締結してはならない。
○2  親権者若しくは後見人又は行政官庁は、労働契約が未成年者に不利であると認める場合においては、将来に向つてこれを解除することができる。

第五十九条  未成年者は、独立して賃金を請求することができる。親権者又は後見人は、未成年者の賃金を代つて受け取つてはならない。

(労働時間及び休日)
第六十条  第三十二条の二から第三十二条の五まで、第三十六条及び第四十条の規定は、満十八才に満たない者については、これを適用しない。
○2  第五十六条第二項の規定によつて使用する児童についての第三十二条の規定の適用については、同条第一項中「一週間について四十時間」とあるのは、「修学時間を通算して一週間について四十時間」と、同条第二項中「一日について八時間」とあるのは、「修学時間を通算して一日について七時間」とする。

****************************************

 アップフロントとの労働契約および賃金の受け取りが、法的にもめーぐる本人によって行われていたことには驚いたが、それは脇に置いておこう。ここで注目すべきは、法的にも「親権者若しくは後見人が、未成年者が締結した労働契約を解除することができる」という点だ。
 めーぐる本人がどんなに頑張っても、親御さんがダメと言えば法的にもうダメなのだ。アップフロントが、とりあえずハロプロからめーぐるの籍を抜かないでおこうとしても、親御さんがダメと言えば法律違反となるのだ。
 めーぐる本人は「ストーカーが何をしようが絶対に辞めない」という意思を持っていたのだが、親御さんの意向によって契約解除となったというケースも考えられる。

 もう一つ、余り考えたくないけれど浮かんでしまうのは、移籍に関するゴタゴタがあったのではないかということだ。鈴木あみとか、松本恵のパターンである。
 めーぐるが脅迫を受けたことが原因で退職するのであれば、アップフロント側も少なくとも発表の上では円満退社を装うのではないかと思えるのだ。「昨日付けで脱退しました」という発表の仕方からは、どうにもこうにも「懲戒」の臭いが漂う。
 「11月末日をもって卒業」とし、目の前のイベントを欠席する理由や卒業イベントを行わない理由は「学業および学校行事を優先するため」とする。その代わり、「めーぐる卒業グッズ」を販売する。商魂たくましいハロプロなら、これくらいのことはやりそうである。しかし実際には、めーぐるのグッズは販売中止・返金の措置が取られているのだ。
 もちろん、めーぐる側から
「卒業ではなく脱退という表現にしてください。グッズも止めて下さい」という申し出があったという考え方もできるのだが。

 もっとも、一番すっきりと説明できるのは、明日香のように「メンバー内での不仲による脱退」というパターンである。これなら、「学業」を建前に持ち出したこととも、「“卒業”ではなく“脱退”」と表現されたことも、卒業イベントを行わないことも全て納得がいく。
 個人的には、めーぐるの自宅に殺人予告の手紙が届いたと考えるよりは、こちらの方が遥に気が楽である。(もちろん、自宅の郵便受けに殺人予告の手紙が入れられていたとなれば、さすがに警察も動くだろうし…この件はこれ以上あれこれ考えても仕方がない)

 「メンバー内での不仲による脱退」パターンでは、例のネット流出写真は、実はハロプロ側が流した「偽装流出」であると考えることも出来る。哀れなヲタは「この程度のことで、めーぐるをクビにするなんてアップフロントは酷すぎる」と激昂したり、「めーぐるは結局アイドルではなく男を選んだんだ」と落ち込んだりすることはあっても、もっと残酷な現実を知ることなく済むというわけだ。

 私は一応℃-uteのファンである。しかし、めーぐるは別に推してはいない。それでも、ユーティリティ・プレーヤーとしてその将来に期待はしていた。
 元めーぐること、村上愛さんが、℃-uteそしてハロプロを辞めたことは残念である。
 そして、私はこれからも℃-uteそしてハロプロのファンで有り続ける。
 それがいつまで続くのか、私自身にも分からないのだが。

『鉄人28号』

『鉄人28号』
  2006年(4月29日~)のWOWOWで観た映画:15本目
  映画を観た日:2006年10月22日(日)


 意外な良作! これなら、劇場で金を払って観ても良かった。詫びの気持ちも込めて、遅れ馳せながらDVDを購入したところだ(中古じゃなくて新品ね)。

 この作品が劇場公開される前、どこかで予告映像を見た際、その余りにCG丸出しの出来に興醒めした私は、TV放送待ちを決め込んでいた。WOWOWが『鉄人28号』放送してくれて、本当に良かった。レンタルで観ようとは全然思っていなかったので、WOWOWが放送してくれなかったら、この隠れた佳作を観る機会は相当先になっていただろう。

 この作品においてロボットのCGのクオリティが低いことは事実である。
 しかしそれは、『マトリックス』における“タコ(イカ?)”のCGのクオリティが低い事実と同様、作品全体としては大きな欠陥にはなっていない。これもまた、事実である。
 『鉄人28号』も『マトリックス』も、CGのクオリティは低いが、見せ方が上手い。意地悪な言い方をすると、CGのクオリティの低さを、見せ方で上手く誤魔化しているのだ。

 『鉄人28号』の場合、まず最初に「空を飛ぶ腕」だけが登場する。この見せ方が良い。プロップを使って撮影したものを合成したような映像的不自然さ(所謂ミニチュア感)が全くないうえ、巨大感とスピード感の両方が出ている。CGの長所を存分に生かした映像だ。この「空を飛ぶ腕」だけの時点では、CGのクオリティの低さはほとんど気にならない。この「気にならない(意識に上らない)」というところがポイントである。
 この後で、「両腕のないブラックオックス」が登場する。「空を飛ぶ腕」は当然ながらブラックオックスの腕だ。両者のCGのクオリティも、当然ながら同一である。
 ここで視聴者は、既に「空を飛ぶ腕」の映像クオリティに一定の満足感を抱いている。この「空を飛ぶ腕」が「両腕のないブラックオックス」合体して一体化することにより、視聴者が抱いていた「映像に対する一定の満足感」も、「両腕が合体後のブラックオックス」と一体化するのだ。

 言ってしまえば、「満足感の引継ぎ」であり、一種の錯覚である。
 しかし前述したように、この錯覚は『マトリックス』で使われていた手法と同質のものであり、映像の「騙しのテクニック」なのだ。

 『マトリックス』の“タコ(イカ?)”も、単体で見ればCG丸出しのキャラクターである(ネオ達が乗り込む船も、かなりCG丸出し)。
 “タコ(イカ?)”は、「リアルワールドに存在する実物キャラ」なのだから、本当はあんなCG丸出しの映像では駄目な筈だ。しかし観客は、“タコ(イカ?)”を、「コンピュータ世界内部からやって来たサイバーキャラ」のようなイメージで見てしまう。ああいう「見た目がCG」なキャラでOKなんだと、何故か納得してしまう。

 明らかに勘違い、あるいは錯覚である。けれども、これが『マトリックス』における、映像作品としてのそもそもの方法論と同調した、正しい錯覚の仕方なのだ。
 『マトリックス』における「我々が普段現実だと思っている世界」は、実はコンピュータ内部に構成された仮想現実という設定になっているのだが、それをCGで描くのは大変なので、そのほとんどは普通に実写で撮影されたものになっている。一方、『マトリックス』における「真の現実世界」はCGで描かれているのだが、この映画では飽くまでもそちらの方が「実物」である。だから、「見た目がCG」なキャラでも「実物」として受け入れる。「正しい錯覚」とは、そういう意味なのだ。

 ブラックオックスの場合、CGで描かれた「空を飛ぶ腕」の映像クオリティに一定の満足感を感じさせ、それと同質のCGで描かれたブラックオックス本体にも、何となく「こんなものだろう」と満足させてしまう。
 もちろん、錯覚のテクニックはそれだけではない。
 鉄人やブラックオックスが、漫画然としたリアリティの欠如したデザインであることが、「見た目がCG」であることの許容を高めているのだ。

 『鉄人28号』における鉄人やブラックオックスは、原作漫画のデザインをかなり忠実に再現している。レトロで味のあるデザインであると同時に、現代では古色蒼然としたリアリティの無いデザインでもある。そういうロボットが、現代の日本に突如現れる。この、デザインとシチュエーションにおける度を越した荒唐無稽さによって、鉄人やブラックオックスは「劇中では実物して描かれている」という面と「漫画がそのまま実体化したもの」という面の二面性を持ったキャラクターになっている。よって観客は、劇中では「実物」であるのに「見た目がCG(漫画の実体化)」という矛盾した状態を受け入れる。これも「正しい錯覚」である。

 また、リモコンで操縦される鉄人は、ラジコンの飛行機同様、玩具としての側面も持つ。デザインが漫画的であれば尚更だ。これに操縦者が小学生であることも相まって、鉄人は「ピカピカの巨大な玩具」というイメージを、かなり強く放射している。「ピカピカの巨大な玩具」と「見た目がCG」というのは、実は相性が良い。「ピカピカの巨大な玩具」がもし本当に存在したら、CGっぽく見えても不思議ではない。むしろそれが自然だろう。
 つまり『鉄人28号』という作品は、「実在する“ピカピカの巨大な玩具”がCGっぽく見えてしまう」という現実に起こり得る錯覚を、そのまま映像として具現化しているのだ。
 ここまでくると、単なる「騙しのテクニック」ではなく、「錯覚の映像設計」と呼ぶべきだろう。

 誰でも、旅先の風景などで「目の前に見ている現実が、まるで合成写真のように嘘っぽく見える」という経験をしたころがあるだろう。それもまた、「正しい錯覚」なのだ。
 『鉄人28号』も『マトリックス』も、そういう映像感覚を上手く利用して創られている。
 マーティ・フリードマンは「良い歌には、“歌の魔法”がある。歌で魔法をかけることができる」と語っていたが、映像にも同じことが言える。
 良い映画には、“映像の魔法”があるのだ。
 観客に映像の魔法をかけてくれる作品に、これからも巡り会いたい。一映画ファンとして、そう思う。

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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。