2006-09

〜昭和歌謡シアター『時の流れに身をまかせ』〜

劇団「シニアグラフィティ」第2回公演
   〜昭和歌謡シアター『時の流れに身をまかせ』〜
                劇を観た日:2006年9月9日(土)


 今回は、カオリンこと飯田圭織を見るために劇場へ足を運んだが、小劇場系の芝居を観るのはこれが初めてではない。今回で4回目である。
 過去3回は、出演者目当てではなく、純粋に劇そのものを観る目的で足を運んだ。ストリップ観劇を続けていた当時、ふと普通の芝居の舞台を観たくなったのだ。半年ほどの間に3回観劇し、ある種の満足感を得て、それっきりになっていた。

 だから、かおりん目当てで芝居を観に行くことに対し「邪道だな」という一種の負い目があった。
 しかし、公演内容に対して客が否定的な先入観を持っても仕方のないことだ。そう思って、新宿【スペース107】の階段を降りて行った。
 相田翔子さん宛ての花輪が、他の出演者のそれを圧倒していることに驚く。
「相田翔子さんって、そんなに大物だったっけ?」
「Wink時代には、たった2人でモー娘。並みのヒットを飛ばしていたのかな?」
「単に主役だから沢山お祝いが来てるのかな?」
などと思っているうちにテケツに着く。同じような規模の小屋でも、テケツの雰囲気からしてストリップ劇場とは違うな…と感じる。

 テケツを抜けると、グッズ売り場になっていた。
 パンフレットの販売案内があったが、
「かおりんは脇役だろうから、せいぜい2ページぐらいしか載っていないだろう」
と思うと、1300円払ってまで買う気にならない。ここら辺が、かおヲタとの違いだと自覚する。ここで「せいぜい2ページ」に1300円を出さないということが、かおファン止まりである証拠なのだ。

 芝居が始まると、思った通り、かおりんは脇役だった。
 役柄の所為もあると思うが、ののの方が生き生きして見えたのが、かおファンとしてはちょっと残念だ。

 役柄以外にも、かおりんがののに負けていた理由がある。
 第一に、ののは、体型が舞台映えする。約6頭身で、比較的顔が大きい。(ちなみに今回、ののは明らかにオーバーウェイトで腰周りに余計なお肉がついていたが、それでもなお普通にクビレていたことに驚かされた。モー娘。時代に太ったときは、普通にドラム缶体型だったのに)
 これに対し、かおりんは9頭身に近く、その分顔が小さく見える。体格差から考えて、ののとかおりんの顔の大きさに大差はないと思うが、舞台の上の印象では、かおりんの方が明らかに小さく(要するに目立たないと)感じられた。

 もう一つは、衣装の差。
 ののは四肢が完全に露出し、上半身と下半身にメリハリが付いた衣装を着ていた。全身のバランスが非常に良かった。
 これに対し、かおりんの衣装は単色のロングドレスであり、脚がほとんど見えない。
 かおりんは衣装によって胸から下が一体化してしまい、平面的な印象を受けた。同時にロングドレスによって下半身にボリューム感が出てしまうため、小さい顔が余計小さく見える。これは、舞台演劇ではマイナスでしかない。

 かおりんは、モー娘。時代、舞台ではパンツをはいている事が多かったように思う。あれが、脚の長いかおりんを、最も舞台映えさせるパターンなのだ。特に、白地に赤のラインが上下に入ったパンツをはいていたときは、腰のくびれと相まって、日本人離れした美しさを強烈に放射していた。
 もちろん、プリプリピンクのような、超ミニスカートでも良い。細身で顔も小さいのだから、脚の長さを強調し、全身のシルエット、即ち“ボリューム”ではなく“切れ”で勝負すれば良いのだ。
 今回でハッキリしたことは、スラッとした女性がスラッとした普通のドレスを着ても、舞台では基本的に見栄えがしないということ。かおりんは胸を寄せて少し谷間を作っていたようだが、あの程度のボリュームでは、せいぜい前から5列目までしかアピールしない。

 今回、かおりんのビジュアルで良かった点は、背中の露出だろう。色が白い上、適度な筋肉が着いているので、照明の当たり具合によってキレイな陰影が浮かび上がり、目を引いた。やはり、かおりんは生きている芸術品である。

 演技に関しては、今回は特に言うべきことはない。久し振りの舞台だったし、慣らし運転といったところだろう。

 問題は、歌である。
 アッちゃんと比較すると、歌手としてのレベルの差は、残酷なまでに歴然としていた。
 第二部で歌った『Papillon』は、それなりに歌い込んでいることは伝わってきたが、逆にその分、かおりんの歌手としての基本性能の限界が見えてしまった。
 ののは、真剣に歌に取り組めば、アッちゃんのレベルには達することができるように思う。しかし、かおりんには、歌手としての伸びしろがほとんど見出せなかった。

 今回の主役を務めた相田翔子さんは、歌手としてはかおりんと同レベルかそれ以下だ。だから、かおりんがこれからも主に歌手として活動していくことも、出来なくはないだろう。
 かおりんが「歌が大好きで、歌っているときが一番幸せ」なのは分かる。
 しかし、それでは宝の持ち腐れとなる可能性が大きい。
 周囲の人のアドバイスと、本人の英断に期待したい。

 最後に、会場内のハロプロファンに関して。
 会場入りする前から、観客のある程度を占めるであろうハロプロメンバーのファンが、芝居小屋という場所に相応しくない服装や振る舞いをしなかということが気掛かりだった。そして、嫌な予感は的中した。

 芝居が始まる数分前、私の前のブロックにいる観客が、自分の席でTシャツを着替えた。要するにその馬鹿は、観客席で一時的に上半身裸になったのである。観客席は既にほぼ全席埋まっている。雛壇になっている後方の席からは丸見えだし、照明等のスタッフの席からも見えただろう。
 幾らアップフロントが製作しているとは言え、この場はハロプロのコンサート会場ではないのだ(ハロプロのコンサート会場であっても、TPOをわきまえるべき行為である)。自分の隣の席の客がそんなことをやり始めたら、私は絶対に注意してやめさせていたと思う。

 ガッタスのレプリカユニフォームを着ていた辻ファンにも、嫌な気分にさせられた。真っ黄っ黄で目立つその服は、客のマナーから外れるものだったと思う。
 何故なら、この公演の主役は相田翔子さんであって、ハローのメンバーではない。準主役の父親役を演じている役者も、もちろんハローのメンバーではない。この公演の芝居においては、ののを含むハロプロのメンバーは全員脇役なのだ。見る側も、それをわきまえるべきだと私は思う。
(以前、サッカーの試合会場でガッタスが前座試合を務めた際、コンサート用の特攻服を着て客席に陣取った非常識なファンがいたそうだ。他人に直接迷惑をかけているわけではないし、もしかしたら主催者側の許可を取っているのかもしれないが、本来自粛すべき行為である)

 逆に、ちょっと小粋に思えたのは、「辻希美」と書かれた提灯を持ち込んでいた辻ファンである。会場内にはセットとして多数の提灯が取り付けられていたので、その場の雰囲気と調和しており、客席からの一種の演出のようにも感じられた。色も地味というか普通で、目障りではない。ただ、サイズが大きいので、端の席で扱わないと周囲の客の迷惑になるだろう。その辺がどうだったのかは、ちょっと覚えていない。

 客席全体としての雰囲気は良く、舞台は第一部(芝居)、第二部(ミニコンサート)ともに滞りなく進行し、良い公演だった。
 ただし、たった3度とはいえ、似たような空間で純粋な芝居を観た経験のある者としては、アイドル系の歌手が役者に混じって舞台に立ったり、芝居の後にミニコンサートがあることに対しては複雑な思いを抱かざるを得なかった。芝居の内容が「小さくとも純粋な劇団の頑張り」を描いていたものだっただけに、尚更である。

「映画鑑賞」って、「映画館で観る」ってことだよね?

「映画鑑賞」って、「映画館で観る」ってことだよね?

 日本の文化をハイカルチャーとか大衆文化なんて区分をしている人は、脳ミソに士農工商の時代の味噌でも詰まっているんじゃないかと思う。日本が再び士農工商の時代に逆戻りでもしない限り、日本の文化は「古い文化」と「新しい文化」そして「その中間」の3つにでも区分けすれば充分である。

 ただし、
「趣味は映画鑑賞です」
と聞けば、「それって映画館で観るってことだよね」と思うし
「趣味は読書です」
と聞けば、「それって漫画は含まれないよね」と思う。
 これは別に、お茶の間で映画を観る行為や、漫画というジャンルを1段低く見ているわけではない。

 映画を映画館で観ることが少ない映画ファンは、
「趣味は、DVDで映画を観ることです」と言うべきだと思うし、
 漫画以外の本を読むことが少ない漫画ファンは、
「趣味は漫画を読むことです」と言うべきだと思う。
 貴賎の問題ではなく、純粋に区分するする必要があると思うのだ。限定表現できる部分は、出来るだけそうしていかないと、一つ一つの言葉の意味が薄くなる。言葉は浸透させても良いが、拡散させるべきではない。

 区別するということは、両者に違いがあるということだ。
 「読書」に関しては、実際に「漫画を読む」作業と「小説を読む」作業とでは、やっていることが違うのだから一緒くたにすることには無理がある。「漫画を読む」という作業は、読書よりもむしろ映画を観る作業に近い。通常の洋画でも、吹き替えでない場合は常に
「映像を見ながら字幕を読んでいる」のだ。漫画も
「絵を見ながらフキダシを読む」のである。
 漫画の本(書籍)という物理的な体裁と、それに収められている情報を人間が認識処理する際のスタイルの不一致を上手く補完する言葉は、今のところ存在しないようだ。「読」の代わりに、「言見(言偏に見)」という文字を用いる等すれば良いと思うのだが。「言見」+「む」で“よむ”と発音し、「言見」+「画」で“けんが”(「読」+「書」の代わり)と発音するという具合である。

 次に、「映画鑑賞」について。
 映画は、劇場のスクリーンで観ることを絶対条件として作られている部分があり、お茶の間のTVではその部分を観ることが出来ない。私がそのことを最初に知ったのは、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーのインタビュー記事を読んだときである。
「スクリーンで見ると、遠くの戦艦も砲塔や艦橋まで細かく描き込んであるのが分かるでしょう。これをTVで見たって、(映像が潰れてしまって)ただの豆粒にしか見えませんよ」
 当時中学生だった私はこれを読んで「ああ、映画は劇場で観なければ、本当に観たことにはならない」と思い知らされた。「映画鑑賞」という従来は劇場限定であった行為と、TVで映画を観る行為とは分ける必要があるという考えは、こうした物理的な現象(事実)に基づいている。

 ただし、
「それなら“音楽鑑賞”は? 家でCDを聴くことを“音楽鑑賞”と称すことの是非は?」
と聞かれると、返答に窮する。自宅の安物のCDラジカセによるものであっても、ちゃんと椅子に座り、落ち着いてじっくりと音楽に耳を傾けていれば、音楽鑑賞と呼んでも良いように思える。しかし、これは映画鑑賞の定義と矛盾する。困ったものだ。
 少なくとも自分の行為に関しては、家でCDを聴くことを「音楽鑑賞」と言わないようにしよう。

 終わりに、人類の文化全体について。
 中学生の頃、私は既に人類の文化が本質的に2種類に分かれていることを知っていた。そして、その「分かれかた」(あえて分類方法とは言わない。何故なら、分類しなくても、本質的に分かれているからだ)を理解できない人が多数いるであろうことも認識できた。その「分かれかた」とは
「SF以外とSF」
である。もう少し噛み砕いて言えば
「人間性に帰結する感動であるか、必ずしもそれを必要としない感動であるか」
となる。
 SFファン以外には理解不能だとは思うが、私の文化に対する認識の根幹・大前提である。

『スーパーマン リターンズ』

『スーパーマン リターンズ』
  2006年の映画館で観た映画:25本目
  映画を観た日:2006年9月9日(土)


 『帰ってきたウルトラマン』ならぬ『帰ってきたスーパーマン』。
 略すと、どちらも『帰りマン』。
 そんなどうでも良いこと行きの電車の中で考えたりもしたが、一番気になっていたことは「あのダサいスーツのデザインをどう処理するのか?」であった。何しろ、青いレオタードの上に赤いパンツ(ブルマ)をはいているうえ、顔は丸出し。70年前ならともかく、20年でも充分ダサい。今なら、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいダサい。
 バットマンも昔はパンツをはいているデザインだったが、今は違う。パンツキャラではないが、スパイダーマンもデザインが変わってきている。どちらも、現代風のカッコ良さを出すようにアレンジされているのだ。

 しかし、帰ってきたスーパーマンのスーツデザインには、大きな変更点はなかった。正直、やはりダサかった。それでも何とかギリギリで許容できる範囲に収まっていたのは、
(1)パンツの色がドギツイ赤ではなく、渋い赤茶色系の色になっている。
(2)パンツの面積を小さくして目立つことを抑えている(“親父ブリーフ”というよりは競泳水着のイメージに近い)
というマイナーチェンジが施されていたからだ。
 これ以外に気になった点は、ブーツのヒールが高かったこと。これは、役者の脚の長さがチョット不足していたので、ブーツのヒールで補ったということだろう。

 ストーリーは、オーソドックスなスーパーマン話で、まるで『水戸黄門』を見ているような安心感があった。クリプトナイトは“逆・葵の印籠”である。
 役者はスーパーマンらしいし、空を飛んでいるシーンもカッコ良い。スーパーマン映画として、充分に合格点を付けられる作品になっていた。
 スーツに関しては、既に述べたようにデザインはギリギリ許容範囲。不自然な皺が全く出来ず、安っぽさは微塵も感じられない仕上がりになっている。この仕上がりに関しては見事と言うしかない。

 日本のウルトラマンが、この映画のスーパーマン並みの仕上がりのスーツで、この映画のスーパーマン並みにカッコ良く飛んでくれるのは、一体いつの日になることやら…。
 この映画では、スーパーマンがマント無しでも飛べることを映像でハッキリと描いている。同じスタッフで、『ウルトラマン』も映画化してくれないかなぁ。

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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。