2006-06

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バードウォッチング2006(その3)

バードウォッチング2006(その3)

日時:2006年6月26日 17時20頃
場所:ホームセンターその他の複合駐車場

 会社から帰る途中にホームセンターに寄るため、やたらに広い駐車場を自転車で横切っていたら、何やら鳥の鳴く声が聞こえる。それも、1羽ではなく複数の鳴き声が。
 こんな、アスファルトでガチガチに固められた平坦な場所に、野鳥がいるわけがない。センサー反応式の警告音発生器が近くに設置されているのか?…と思ったら、私の進行方向右手側に、鳴きながら高速ウォーキングしている鳥の群れ(と言っても3,4羽)が!
 何でこんなところに野鳥がいるんだ?
 高速ウォーキングしているけれどもハクセキレイではない!
 黒い過眼線があって全体の配色も何かアカモズっぽいけれど、絶対に違う!
 脚が長いぞ!? こりゃ初めて見る野鳥だ!

 アパートに帰って図鑑で調べたところ、シロチドリの成鳥(雄)だと判明。名前は白千鳥でも、高速で動く足取りはシッカリしており、千鳥足ではありませんでした。ピュルピュルピュルピュル鳴いていた声は、電子音っぽい感じがした。
 確かに近くに比較的大きな河はあるんだけど、なんでまたあんな開けた駐車場にいたんだろう?
 私が自転車でどんどん接近しているのに、飛び立たずに高速ウォーキングで移動し続けたのは、習性なのか、脚(の速さ)に自信があるからなのか。そう言えば、ハクセキレイも「そんなに急いでるんなら飛べばいいじゃんか」と見ていてこちらが思うくらい高速ウォーキングをし続けるときがある。水辺の鳥は、行動パターンが似ているのかなぁ?
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『セイザーX』、完結!

『セイザーX』、完結!


 昨日、『超星艦隊セイザーX』が完結し、同時に超星神シリーズも終了となった。
 私はシリーズを通してのファンではない。『超星神グランセイザー』は“水のトライブ”が出揃った辺りで視聴を止めたし、『幻星神ジャスティライザー』は多分第1話しか観ていない。
 そんなわけで『セイザーX』も始めは余り観る気がしていなかった。そもそも、「全部集めると願いが叶う」コスモカプセルというガジェットが、ドラゴンボールのパクリという第一印象が強かったのだ。
 そこで、「とりあえず録画しておいて後で観よう」と思っていたら、その第1話の録画に失敗してしまった。それがショックだった(どんなにつまらなさそうでも、特撮番組であれば第1話は観ておくというのが自分のポリシー)ことと、Hyla Japonica のaさんに視聴を勧められたことから、第2話以降は極力オンタイムで観るようになった。
 もちろん、そういった前提はあったとしても、内容がつまらなかったら視聴を続けるつもりはなかった。ところがどっこい、『セイザーX』は面白かったし、カッコ良かった。

 私にとって一番大きかったのは、変身後のヒーローのカッコ良さだった。私がヒーロー番組に求めるのは、第一に“カッコ良さ”なのである。
 東宝の等身大ヒーローの造形は、『ガイファード』の頃から私の好みに合わなかった。どうにもダサいのだ(それでも、『ガイファード』は設定が好きだったから全話観た)。
 『グランセイザー』では(パイシーズなど、少数の例外はあったものの)『ガイファード』以上にダサくて、それが原因で「人気低迷→途中で放送打ち切り」になるんじゃないかと思ったほどだ。『ジャスティライザー』では少しはマシになったように見えたが、毎週チャンネルを合わせようという気にはならなかった。
 このように、超星神シリーズには2年連続で自分の好みに合わなかった。そのため、3作目の『セイザーX』になると、「主役の俳優がロンドンブーツの1号だか2号だかに似過ぎちゃいないか」など、変身後のヒーロー造形以前のことで否定的な印象を抱く有様だった。

 『セイザーX』を第2話から観始めても「主役の俳優がロンドンブーツの1号だか2号だかに似過ぎ」という印象は暫く付いて回ったが、そんなことは変身後のヒーローの活躍が打ち消してくれた。
 造形に関して言えば、ライオセイザーの造形は、ライオンをモチーフにしたヒーローの中では最高の出来だと思う。ガイファードのようなゴテゴテした重さもなく、グランセイザーの基本的な欠陥だった「全裸の状態から、上半身にだけ鎧を被せた」ようなバランスの悪さもない。色彩的にも調和が取れており、非常に洗練されたデザイン・造形だと言える。

 そして、アクションも素晴らしかった。スピード感が溢れ、キレがあり、プロレス(ルチャ)を思わせる特殊な動きもあり、なおかつワイヤーアクションに有りがちな不自然さや突っ込みどころがない。スーツによる条件の差はあるとは思うが、同時期に放送されていた『響鬼』より、1枚も2枚も上を行くレベルであった。
 東宝の等身大ヒーローのアクションは、『ガイファード』の頃から良かった(変身後のヒーローがフェイントを使ったり、スネでキックをガードしたのはこの作品が初めてではないか?)。それが集大成となって『セイザーX』で結実したように思う。

 登場人物たちも魅力的だった。
 特に、主人公の拓人は、子供向けヒーロー番組の一つの理想形である。

(1)普段から、子供が共感できるような考え方や行動をする
(2)「近寄り難い雰囲気」を有してはおらず、子供からも「それじゃダメだよ」と言える位の隙がある
(3)決めるときはカッコ良く決める

 こういった、親近感と憧れの両方を抱ける存在の条件を、拓人は満たしていた。
 拓人は、「じいちゃんに早く一人前だと認めてもらいたい」という気持ちを前面に出し、行動するキャラクター。この方向性は、子供が早く大人になりたいと思う本能的な心理ベクトルと一致する。拓人は、番組の主たる視聴者である子供達と同じ視点、同じ気持ちで動くキャラなのだ。

 「変身すること」・「強いこと」・「カッコイイこと」・「戦うこと」・「悪者をやっつけること」、これらの子供の願望を、番組内でやって見せるのが変身ヒーローである。そして実はこれ、大人向けの娯楽ドラマと基本的には同じである。
 しかし、「大人が大人に憧れる(感情移入する)」大人向けの娯楽ドラマのやり方は、「一定のフォーマット」を導入しないと子供番組では受け入れられにくい。私は、『仮面ライダー』第1作目が高い人気を集めた理由が、この「一定のフォーマット」を備えていたからだと思う。即ち、

(1)「悪者が、一般市民の家の中までやって来る」という、視聴者の身に迫った恐怖感を与える。
(2)ヒーローは、その悪者から一般市民を救い出す。
(3)ヒーローは、「一般市民に被害を及ぼさないようにして、その悪者を退治する」ことで、視聴者に与えられていた恐怖感を消し去ってあげる。

 要するに、「恐怖感のマッチポンプ」という単純なパターンではあるが、「ヒーローが戦うことで我々が直接救われる」・「ヒーローと悪の戦いが我々の日常生活と直結している」という図式は、子供にも理解し易い。こういった場合は、「変身すること」・「強いこと」・「カッコイイこと」・「戦うこと」・「悪者をやっつけること」といった条件が揃っていれば、それだけでそのヒーローは子供の憧れの対象と成り得る。実際、35年前の私はそうだった。
 また、大人が見たら「有り得ない絵空事」でも、子供にはリアルに映るというところもポイントである。ちなみに、大人になると“怪人”はフィクションで片付けるくせに“幽霊”にはリアリティを感じ続けるのだから面白いものだ。

 最近のヒーローは、玩具の展開が多岐に渡ることもあって、『仮面ライダー』第1作目のような古典的なフォーマットを採用することが難しくなっている。そのため、ヒーローは子供が感情移入し易い、「大人の姿をした子供キャラ」である必要性が高くなっているのだ。(これ以外にも、実際の「子供キャラ」と密接な接点を持った「大人キャラ」というパターンのヒーローも有り得る。少年ライダー隊の導入以後の『仮面ライダー』第1作目は、このパターンも有しているのだから凄い)

 フォーマットと言えば、『セイザーX』では多様なバリエーションを見ることが出来た。
 東映の戦隊シリーズの亜流と言うべき基本設定でありながら、戦隊シリーズのような決まったパターンに嵌っていないところが『セイザーX』の魅力の一つだった。
 東宝は、映画として平成ゴジラ、平成モスラのシリーズを造り続けていた。それらは映画としてのクオリティは低かったが、それに準じたものをTVで見せられると、逆にクオリティが高く映った。これもまた、全話において必ず巨大戦闘シーンを描くというわけではないという、『セイザーX』の選択肢の多さが生んだ成果である。

 大団円を迎えて『セイザーX』は終了し、同番組枠は、元のアニメ番組枠へと戻った。
 超星神シリーズは、もともとゴジラシリーズが終了したことで空いた特撮スタッフやスタジオを活かすために生み出された企画であるように思える。
 超星神シリーズの終了は、東宝が新しい特撮映画のシリーズを始めることを意味するのだろうか。

 最後に、私が購入した『セイザーX』関連商品を紹介して、この記事の締めくくりとしたい。『セイザーX』の記事なので、ちゃんと“ボケ”も用意しておいた。心の中ででも、突っ込んでもらえたら幸いである。
セイザーX関連商品群

ボウケンジャーの玩具、買っちゃった!

ボウケンジャーの玩具、買っちゃった!


 スーパー戦隊シリーズは、フォーマットが確立されており、余程のことがない限り打ち切りになることはないだろう。そう思っているので、第1話を観て「余程のこと(『ジャッカー』のような暗めで地味な設定とか)」がないことを確認できたら、後は適当に流して観るということが多かった。番組を商業的な側面から支えるために主力玩具を買うということは、今まで一度もしてこなかった。
 しかし最近になって、『タイムレンジャー』のときは結構危なかったらしいという情報を知り、ちょっと『ボウケンジャー』に対しても不安感を抱くようになった。

 『タイムレンジャー』は、私にしては珍しく流さずにキッチリ観ていた戦隊である。ロボットへの合体シーンが最高にカッコ良く、子供に人気があって玩具もバンバン売れているだろうと思って、放送当時は安心して観ていた。それが、実際には視聴率も玩具の売れ行きも悪かったとは信じられないのだが、私好みのSF仕立てのストーリーは、子供達には理解し辛かった可能性はある。

 『ボウケンジャー』は、子供が欲しがる持ち物No.1の携帯電話を変身アイテムとしており、巨大ロボットに関しても定番のメカニック合体である。本来なら、これだけで番組安泰といったところなのだけれども、主人公のレッドが昭和テイストであるところが少々気掛かりである。
 私のような年代の特撮ファンにとっては、『マジレンジャー』よりよっぽど感情移入できるのだが、本来の主たる視聴者である子供達にとってはどうなのだろうか。オッサン臭いと言うか、先生っぽいと言うか、ちょっと馴染めない雰囲気があるような気もする。

 奇しくも『ボウケンジャー』は、『タイムレンジャー』以来、久し振りに私が毎回楽しみに観ている戦隊である。自分が気に入ったことを悪いジンクスだと捉えたくはないが、どうも気になる。
 一度気にし出すと、それを脳裏から消し去ることが出来ない。
 『ブルースワット』の放送時は、「こりゃ、そのうちテコ入れが入るな~」と気付いても、番組自体にさほど思い入れがなかったので平然と観ていたが、『ボウケンジャー』の場合は、そうはいかない精神状態になってしまったのだ。

 だから、思い切って『DX ダイボウケン』買っちゃいました!
ダイボウケン(ショベル&クレーン)

 ついでに、『アクセルラー』も!
アクセルラー

 最初は『DX ダイボウケン』だけにするつもりだったのだが、アクセルラーの売れ行きがマージフォンより悪かったら何か嫌だなと思って買ってしまった。
 ちなみに私は、今まで携帯電話は本物も玩具も含めて一切買ったことがなかったので、このアクセルラーが生まれて初めて買った記念すべき?携帯となった。

 『DX ダイボウケン』は、同じ“DX”でも、『響鬼』の『DX音撃鼓セット』とは違い、本当にデラックス感があって良い。『DX音撃鼓セット』は本当に嫌々買って、買った後も心底ガックリだったが、『DX ダイボウケン』はそうではない。正直、結構イケるんじゃないかと思って買ったら、期待を上回る出来でビックリ。
 特にダイボウケンのメインフレームとなるゴーゴーダンプは単体でも良い出来で、この玩具を買って以来、ダンプが単独で活躍するところを観たくなった。

 アクセルラーも、大きさが適切で機能もそこそこ。番組のようにワンタッチで展開させるのにはちょっとしたテクニックを要する(手の小さい子供には無理か?)点が残念だが、それ以外は特に不満はない。『響鬼』の変身玩具の中で一番まともだった音笛よりも、はるかに遊べる。

 近日中に、劇場版の前売り券も購入する予定である。
 チビッコ(親子連れ)に紛れて、映画館へ“ゴウ!ゴォウ~!”

『アナコンダ2』

『アナコンダ2』
  2006年(4月29日~)のWOWOWで観た映画:5本目
  映画を観た日:2006年6月18日(日)

 アメリカのお家芸とも言える「巨大生物=モンスター」もの。
 この手の映画が、ずっと作り続けられている(本作は2004年)のだから、それだけでも大したものだ。何しろ、日本の怪獣映画とは違って、基本的にはお子様向けではない。また、純粋なホラー映画ファンが、この手の作品を支持するとも思えない。アメリカには、「巨大生物=モンスター」映画のニーズが潜在的にある(国民性として、巨大なキャラクターが好き?)ということなのだろうか。

 そういったアメリカの「巨大生物=モンスター」ものは、けっこう侮れないのでチェックするようにしている。例えば、巨大蜘蛛を描いた作品では、VFXはチャチでもハエトリグモを登場させたりするなど、一見に値するものを持っていた。
 この『アナコンダ2』も、濁った川や沼の水面下を移動する大蛇の映像は、かなりの見所だった。その映像からは、単なる大蛇ではなく“シーサーペント”の系譜を受け継ぐモンスターとしての魅力が感じられた。

 アメリカ映画のモンスターのお約束として、現行の兵器で倒せるのはもちろん、単なるガス爆発などでも一群を全滅させることが出来てしまう。この辺りが日本の怪獣映画を見慣れたものには物足りなく写るのだが、これは逆に言えば超兵器などに頼らず、限られた状況下において工夫と度胸と機転でピンチを切り抜けるキャラクターの活躍を描く上では必要な設定である。
 また、これはアメリカのB級映画全般のお約束だと思うが、悪役が最後の最後までキッチリ悪役を貫いて因果応報の最後を迎え、クライマックスまで物語をしっかりと牽引している点や、弱くて役に立たず、最初に死んでも良さそうなキャラが最後の最後まで生き残って重要な役割を果たす点などは、娯楽作品のフォーマットとして評価できる。
 この『アナコンダ2』も、そういう映画だった。

ハードゲイナー通信(第2号)

『季刊 ハードゲイナー通信 梅雨って雨季雨季だね号』
(通算第2号 6月24日に撮影)

 全国のハードゲイナーの皆さん、ハードゲイナーではない皆さん、今日は。
 ちなみにハードゲイナーとは「ハードなゲイ」のことではなく、「体重が増えにくい(なかなか増やせない)人」のことを指す用語である。この反対語はイージーゲイナー、即ち「体重が増えやすい(容易に増やせる)人」だ。
 ハードゲイナーは脂肪が付きにくいと同時に筋肉も付きにくく、筋トレをしてもなかなか成果を得ることが出来ない。そして残念なことに、私は筋金入りのハードゲイナーなのだ。

 この『季刊 ハードゲイナー通信』は、そんな私が体重を増やそうと悪戦苦闘、試行錯誤を続ける中での一里塚である。季刊と謳ってはいるものの、前回の1号は去年の9月の発表。9ヶ月経って、漸く2号の発表となった。次回は、4ヵ月後(元々、季刊と言いつつ発表間隔は4ヶ月に設定)の10月末を予定している。

2006年6月24日  
 身長175cm
 体重62.0kg(前回比…0.5kg減だがバラツキの範囲内)
 体脂肪率14% (前回比…1%減だがバラツキの範囲内)
 【最終目標 体重68.5kg 体脂肪率15%】
 状態:当日トレーニングなし、パンプアップなし(前日のトレーニング…腕と胸)
    クレアチン休止中(休止期間6月18日~7月1日)

 数字は、9ヶ月前とほぼ同じである。
 去年の11月に故障してしまってトレーニングを中断、今年2月の時点で約2kg減。そこから戻しに向かったものの、ゴールデンウィークに怠けてしまい、ここでも半歩後退することに。
 結局、「9ヶ月間トータルでは進歩なし」という情けない結果になってしまった。
 メインメニューで使用しているウェイトに関しては以下の通り。

 ベンチプレス
  22.5kg(シャフト除く)×8を1セット
  27.5kg(シャフト除く)×6を1セット
  35.0kg(シャフト除く)×3を1セット
  42.5kg(シャフト除く)×6を2セット
  35.0kg(シャフト除く)×7を1セット

 スクワット
  22.5kg(シャフト除く)×8を1セット
  30.0kg(シャフト除く)×6を1セット
  37.5kg(シャフト除く)×3を1セット
  45.0kg(シャフト除く)×6を2セット
  37.5kg(シャフト除く)×10を1セット

 ベンチプレスは2ヶ月毎に2.5kg増、スクワットは1ヶ月毎に2.5kg増を、次の4ヶ月間の目標とする。10月末には
 ベンチプレス関しては、MAX時47.5kg(シャフト除く)×6を2セット
 スクワットに関しては、MAX時55.0kg(シャフト除く)×6を2セット
を達成したい。
 体重は、4ヶ月かけて1kg増やし、63kg台で安定したいところ。

 とりあえず、斜め前の角度から1枚。
斜め前


 同じく普通にしているときの後姿。
背面(通常)

 力を入れると、こうなる。
背面(ポーズ)

 逆三角形には程遠い。
 11月から3月まで、(故障予防のための安全策とはいえ)広背筋のトレーニングを休止したのは誤りだった。今年の冬期は、低荷重×高回数というやり方で広背筋のトレーニングを続行することにしよう。

 腹にもかなり脂肪が付いたが、いちおう腹筋の輪郭は確認できる。脂肪に関してだけは、現状が理想のように思える。
合掌ポーズ


 今回、一番見栄えがする一枚。腕を脇に押さえつけない状態で、力を込めた状態。
側面


 脚は、上半身と比較すると標準に近いように思う。
 ジョギング用短パンに穿き替えて(ちゃんとポケットがあります)
下着ではありません

 ちょっとコマネチ!(※注…ハイレグカットを意味する昭和ギャグ)
 そんなに細くはないと思う。しかし、筋力面から考えると、まだまだである。自分の体重をスクワットで6回×2セット出来るように、早くなりたい。
脚


 最後は尻。
 尻は、腕や胸とは違って、普段は自分の目線の高さで確認できないので、今回撮ってみることにした。
 フンドシ一丁で堂々と撮影したいところだが、そのフンドシがないので、短パンをめくって半ケツを出すことにした。(フンドシってどこに売っているんだろう? 締め方も分からんのだが…)
 中年オヤヂの尻なんか見たくねぇ!という方は、急いで避難して下さい。












大臀筋(半ケツ)

41歳にしては、まぁまぁ…と言いたいところだが、実は横の厚みがない(たまたま照明の加減でそう見えていないだけ)。どういうメニューをやったら尻側面の厚みが付く(若い頃の形に戻る)のだろう?
 フンドシが似合う尻にしたい。

ゴジラの武器は“放射火焔”か“破壊光線”か?

ゴジラの武器は“放射火焔”か“破壊光線”か?

 昭和シリーズのゴジラの武器は“白熱光”と表記されることも多かったが、実際には光線そのものではなく「青白い光を放つ高温の火焔放射、または特殊なガスの噴射」であった。寒くなると人間の吐く息が白く可視化されることと(直接の原理は異なるものの)基本的なイメージ的は同じ。決して鏡で反射されるような性質のものではなかった。
 “放射火焔”は、「命中した対象物の内外を短時間で加熱し、可燃物なら発火、燃料等があれば爆発を起こさせる」といった効果を持つ。後に登場するキングギドラが吐く光線や、メカゴジラが発射するビームは、ゴジラとは種類の異なる飛び道具であった。

 これが『84』になると、ゴジラの“白熱光”は今までとは異なり、高層ビルをブチ抜く強力な貫通直進性(収束性)を持つようになる。一方で、シルバーメタリックなスーパーXをこんがりと焦がすなど、「ガスバーナーの炎であぶる」といったイメージもあった。劇中で“熱線”という表現が用いられたのも、微妙な感じである。

 VSシリーズでは、「命中すると何故かその物体が無条件に爆発四散する」・「鏡で反射できる」という純粋な“破壊光線”となった。ゴジラだけではなく、VSシリーズに登場した怪獣の放つ飛び道具は、その名称は違っていても、そのほとんどが“破壊光線”であった。とにかく、怪獣は光線を発射し、光線が当たった所は無条件で爆発が起こるのだ。

 VSシリーズのいわゆる「光線合戦」は、派手さにおいて怪獣バトルの一つの完成されたスタイルであるとは思う。『vsモスラ』の「キラキラ燐粉による光線反射フィールドでゴジラを包み、追い込む」といったシチュエーションは、その成功例として評価されるべきものだろう。
 しかし、ゴジラと対戦相手が単に“破壊光線”を出し合って延々と戦う映像は、「同質の強い刺激が繰り返される=単調なもの」であるため、感覚が麻痺して(慣れて)しまうのだ。要するに、派手ではあるがワンパターンで工夫が無く、すぐに飽きる。この辺りが、VSシリーズで子供観客の定着率が悪かった(シリーズが進んでも中学生の観客層が現れない)ことや、VSシリーズをリアルタイムで観た観客が『ミレニアム』にほとんど足を運ばなかった要因の一つになっているのではないだろうか。

 『GMK』で、怪獣の武器に差別化が見られたのは嬉しいことである。ゴジラの“熱線”は、射程距離が非常に長いうえに威力も大きく、他の怪獣とは異なる「ゴジラ特有の武器」という一種のステイタスが感じられた。また、バラゴンは空を飛べず光線も吐かないが、それ以外の特技や動きそのものによって魅力的に描かれていた。

 ゴジラを攻撃する人類側の武器は、血の通わない機械である場合が多い。ゴジラの武器は、機械と生物を対比させるという意味においても、「呼気・呼吸」を意識させる“放射火焔”である方が良いと思うのだが…
 今後の怪獣映画では、怪獣の技や能力の差別化・個性化を行って欲しい。

 (1)燃やす (2)凍らせる (3)溶かす (4)爆発させる
 (5)圧縮させる、小さくする (6)膨張させる、巨大化させる
 (7)崩す、分解する (8)くっつける、合体・融合させる (9)消滅させる
 (10)変質、変容させる (11)固める、拘束する、停止させる
 (12)ねじ曲げる、折る (13)向きや進路を変える (14)反射する (15)吸収する
 (16)切る、裂く (17)刺す、穿つ、貫通させる (18)抉る、千切る
 (19)同化する、侵食する (20)化ける、擬態する (21)不可視化
 (22)吹き飛ばす (23)浮き上がらせる (24)落とす、沈ませる、潜らせる
 (25)引き寄せる (26)瞬間移動・転送させる
 (27)痺れさせる、麻痺させる、眠らせる (28)夢を見させる、欺く、狂わせる、操る
 (29)寄生する (30)透視する、情報を読み取る

 悪名高き?メガロも、同じ「爆発させる」属性の飛び道具を2種類(光線と実体弾)持っていた。怪獣プロレスの件も含め、芸のある怪獣による、個性豊かな怪獣バトルが見たいと思う今日この頃である。

初代ゴジラに関する考察

初代ゴジラに関する考察
(1999年10月13日(水)頃に書いた文章に後日加筆修正したもの)

 ※以下の文章は、私個人のイメージであり、事実とは異なる部分があることを予めご了承下さい。

 初代ゴジラは「概念」だ。あのとき東宝は、努力そして偶然という幸運によって、ゴジラという「概念」生み出したのだ。
 原始の海から、最初の生物が生まれたときのように。
 始めに巨大な怪物ありき。それが企画のスタートだった。その巨大な怪物が日本を襲うのも、日本の大衆娯楽映画として妥当な成り行きだ。 核ウンヌンは、巨大な怪物を登場させるための方便に過ぎない。
 何しろ日本では初めての試みだから、過去の海外の作品を参考にしつつも、独自の多種多様な意見が出る。とても絞り込めない。どうするか。全部取り入れる。この時点で、ゴジラは「生物」でも「怨霊」でもなくなった。
 ゴジラは「巨大な怪物の最小公倍数」という「大きな概念」となったのだ。

 このゴジラと類似例として、『禁断の惑星』の「イドの怪物」、そして『エイリアン』一作目のエイリアンなどがあげられる。特にエイリアンは、生物だという表向きの設定を持ちながら、「完全無欠の怪物」という概念を宿した一種のシンボル(あるいは究極の生物という設定を持たされたデザイン)であるというところから、ゴジラに通じる部分が多きい。ゴジラの場合、その「概念」は、「人気恐竜の良いとこ取り」を基調にしたデザインの中に注入され、動き出すことになった。

 ゴジラという「概念」は、形で言えば「球」、色で言えば「黒」である。全てを取り入れた結果だ。
 この「概念」を端的に表せば、それは「日本を苦しめるもの」だ。
 ゴジラは「日本を苦しめるもの」の集合体であるから、日本を襲い、日本人を苦しめるのだ。疑問の余地のない、究極の同義反復である。
 「日本を苦しめるもの」。台風。戦争。空襲。原水爆。放射能。僅かだが共通点がある。それらは皆、海から(海を越えて)来る。ゴジラもまた、海からやってきた。
 「日本を苦しめるもの」。地震。火山。荒ぶる神。日本人は、山岳信仰がある。ゴジラが初めてその姿を現したのは、山の陰からである。
 「日本を苦しめるもの」。人間。天変地異も、決して全てを奪わない。日本を焼け野原にしたのは、戦争だけである。それは、人間による行為である。日本を最も苦しめたものは、人間である。
 初代ゴジラは、人間でもあるのだ。直立した人間に近いあの姿勢は、人間を示している。当時、イグアノドンやティラノサウルスが、上体を直立させて尻尾を引きずる姿勢をとっていたのは、何故か? それは我々人間が、2足歩行をする遥か昔の地球の王者に、自分の姿を求めたからである。
 我々は結果として、「日本を苦しめるもの」にも、我々人間の姿を求めたのである。人間の皮を被った悪魔など存在しないことを、我々は心のどこかで知っている。存在するのは、悪魔の皮を被った人間なのだ。
 ゴジラが最期に見せた白骨化した姿は、ゴジラという「概念」の芯に、人間が入っていたことの証である。死んだ人間が髑髏や白骨を晒すように、ゴジラも最期に自分の正体の一部を晒したのだ。

 では、ゴジラは死んだのか。
 「概念」であるゴジラが死ぬことはない。ただ、一時的に打ち消されただけである。
 「日本を苦しめるもの」のうち、潜在的に最も大きな部分を占めるのは「原水爆」である。これを超える概念である「超核兵器=オキシジェンデストロイヤー」の前には、ゴジラという概念は打ち消される。例えるなら、カードゲームでキングがエースに打ち消されるのと同様である。便宜上、映画の中でゴジラの死が描かれてはいるものの、実際には、概念の記号的な処理がなされたに過ぎない。
 それが初代ゴジラなのだ。

 だから、「初代ゴジラのリメイク」を謳った作品は一つもない。『84』や『2000』は、あくまでも「初代ゴジラの続編」を謳ったに過ぎない。その意味では『ゴジ逆』とスタンスは同じである。
 何故、「初代ゴジラのリメイク」を謳った作品は一つもないのか。それは、「初代ゴジラ」をリメイクしても、「初代ゴジラ」にしかなりようがないからである。「初代ゴジラ」をリメイクするならば、その概念をそのまま継承することになり、それは「最小公倍数」であり、即ち「球」であり「黒」であるということだ。
 「球」は何度作り直しても、その大きさこそ違え、見た目が「球」であることに違いはない。
 ゴジラの概念を「アジアを苦しめるもの」「先進国を苦しめるもの」「人類を苦しめるもの」「地球を苦しめるもの」とスケールアップしたところで、本質的には何も変わらない。ゴジラはゴジラを超える概念によってのみ打ち消されるという記号式は変わらない。その度に「アジアを苦しめるもの」「先進国を苦しめるもの」「人類を苦しめるもの」「地球を苦しめるもの」という概念を飲み込み、永遠に肥大し続けるほかない。
 それが「初代ゴジラ」という「最小公倍数」が持つ宿命である。

 トライスターが、この初代ゴジラという概念を採用しなかったことは、結果的には英断であったとも言える。
 トライスターの初代ゴジラは、東宝の初代ゴジラとは逆に、「巨大な怪物の最大公約数」という「小さな概念」を採用したのだ。
 「最大公約数」と「最小公倍数」。我々日本人から見れば、「大きな概念」の方が「小さな概念」よりも優れて入るように思える。しかし、それは錯覚である。
 「小さな概念」でのスタートは、削ぎ落とされたものであるが故、リメイクや続編に新しい可能性を見いだせるという大きな長所がある。

 我々の初代ゴジラは、スタート時点で既に終極点であったのだ。我々は、最初に「球」がクルリと一回転するのを見てしまったのだ。
 その結果、我々は完璧な「概念」の一部を切り取ることによってしか、新しいゴジラを作り出すことが出来なかった。逆に言えば、完璧である「球」をあえて切り取り、変形させることによって、初代とは異なった「球ではない別の形」のゴジラを造り出したのだ。
 「絶対的な存在」という概念を捨ててアンギラスの存在を許し、「相対的な存在」に変形した『ゴジ逆』。
 「怨霊」その他の概念を捨てて「帰巣本能を持つ生物」という枠組みに収まった『84』。
 初代ゴジラという概念から何かを捨てなければ、新しいものを得られないのだ。
 
 初代ゴジラをリメイクしようという試みを、誰も考えなかったわけではない。関係者やファンの多くが考えたであろうし、例えば、私もその1人である。
 以下に示すのは、『VSキングギドラ』公開後、SFサークルの会報に寄せた一文である。

****************************************
 『ゴジラ』第一作目が誕生したのは1954年である。長崎、広島に原水爆が投下されて日本が無条件降伏、太平洋戦争が終結したのが1945年。『ゴジラ』第一作目は、空襲、原水爆、敗戦という現象の生々しさが、まだ残留している世界が生み出した作品なのだ。
 また1950年には、日本海を挟んだ隣国朝鮮で戦争が勃発、53年まで続いた。この戦争で日本経済は大いに潤ったのである。
 日本の歴史を紐解いて何が言いたいのかと言うと、すなわち、『ゴジラ』第一作目当時の日本およびその近辺には(“ゴジラ”はいなかったが)“戦争がいた”のである。ゴジラが映画の中で存在することの説得力を持ちえたのは、映画を作った人々が、現実に“戦争がいた”世界を日常として生きていたからに他ならない。作中の「また疎開かね…」という台詞が、それを端的に表現している。
 ゴジラを単に戦争(戦災をもたらすもの)の象徴と決めてかかるわけではない。が、あのモノクロ映画の中に“ゴジラがいる”ことを実感できるのは、当時の現実世界とあの映画が妄想のパイプで繋がっていたからだと私は確信する。
 現在、私たちが住んでいる日本には、戦争の姿は跡形もなく消えている。せいぜいTVで湾岸戦争を見て喜んでいる程度である。
 つまり、映画の中で(ひょっとしたら現実でも)新宿が焼け野原になろうが、大阪が火の海になろうが、所詮は対岸の火事なのだ。映画を作る人間も見る人間も、戦災で焼け出された経験などないのだから、説得力のある映像を作れないし、感情移入して見ることもできない。
 現代の現実世界とゴジラを妄想のパイプで繋ぐことさえできれば、ゴジラは現代に蘇る。
 イチバン手っ取り早いのは、もう一度日本が本土空襲されてICBMの二、三発も打ち込まれ、全土一面焼け野原になり、国民全員が戦災の恐怖を骨の髄まで味わうことだ。しかしそれでは製作費のかさむゴジラ映画を作ることが難しくなってしまう。そこで次に考えられることは、現在の日本人が恐怖感を抱いている対象にゴジラを当てはめることである。
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 ちなみに、朝鮮戦争当時、米軍は原水爆を使用する作戦も検討していた。
 そして現時点でも、核兵器は存在し、その拡散は続いている。
 核は、あの日以来日本を苦しめてはいないが、いつも私たちの傍にいる。
 
 初代ゴジラは「概念」である。「生物」でも「怨霊」でもなく、「原水爆」でもない。それらを全て含む「日本を苦しめるもの」という概念である。
 初代ゴジラがリメイクされる日は、果たしてくるのだろうか。

私の好きな俳優・歌手

私の好きな俳優・歌手


 高校時代にアイドルに夢中になった経験を持たず、結婚の経験もないまま年齢を重ねてきた私は、いつの頃からか、若い女性俳優や歌手に興味を持つようになっていた。具体的には、写真集やPVを買ったり、俳優目当てで映画を観たりするようになった。1年程前からは、コンサートにも脚を運ぶようになった。
 その対象が一人か二人なら、独身中年男性の偶像欲求心理として特に珍しくないと思うが、私の場合はそうではない。とにかく、好きな俳優・歌手の数が多いのだ。

 まず、“かおりん”こと飯田圭織 が、全てを超越する女王として存在する。ソロまたはそれに近い関連商品で一般に市販されているものを全て買い揃えているのは、かおりんに関してだけである。(絶対数が少ないということもあるが)
 夢中になると一線を越えそうな気がするので、ディナーショーなどの距離が近いイベントへの参加は控えるようにしている程である。かおりんが誰かと結婚したとき、祝福してあげられないような自分になりたくないのだ。
 かおりんに関しては、別の記事で詳しく語りたい。

 キーラ・ナイトリィ もまた、別格の存在であり、いわば西洋の女王である。
 私は洋画好きだが、特定の俳優のファンになるということは少ない。外国人俳優目当てで映画を観るという行動を私に取らせたのは、キーラ・ナイトリィが初めてである。
 私が好感を持った最初の外国人俳優はナスターシャ・キンスキーだった。キーラは、ナスターシャほど美人ではないが、どこかその流れを汲んでいるように感じる。もっと具体的に言うと、
 ナスターシャ・キンスキー → ウィノナ・ライダー → キーラ・ナイトリィ
という流れが私の中では繋がっている。私なりの“美女の系統”とでも言おうか。

 栗山千明 もまた、俳優目当てで映画を観る気にさせる数少ない女優の一人である。
 彼女は、自分がオタクであることを公言している。
 一般的な人気(特に、同性に対する人気)のことを考えたら、絶対に隠し通した方が得策だと思えるのだが、栗山千明は隠さない。それどころか、TV番組の要請に応じて自分が所有する綾波レイのフィギュアをスタジオに持ち込み、「オタク度満点なんですけど」と言いつつ披露する。漫画喫茶にいる客に対してどう思うかと問われれば「私と同じ匂いがしますね」と真顔で言う。こういった部分に感情移入する部分は大きい。
 にもかかわらず、栗山千明は化粧品のCMに採用されるなど、一般の人気が高いように思える。だから、本当はもっと応援しなければいけないのだが、私の入れ込み度はキーラ・ナイトリィほど高くはない。申し訳なく思う。今度、主演に近い映画が公開されたら、チケットを2枚購入するつもりだ。(『妖怪大戦争』のDVDも、やっぱり買うべきなのかなぁ)

 ココナッツ娘。のアヤカ には、上記の3人のようなカリスマ性を感じないが、それゆえ親しみを感じる部分は大きい。
 美人でスタイルが良いにもかかわらず、何故ブレイクしないのか不思議でしょうがない。バイリンガルでもあるのに…。漢字に弱いのがネックになっているとも思えないのだが。
 アヤカ目当てで『友情と魔法のトランプ』のDVDを購入して、彼女の美しさを再確認。ゴールドレディのパートは、もう何回観たことか。
 個人的にはゴルフは大嫌い(自分に権力があったら、日本国内からゴルフ場を消滅させたいと思っているくらい嫌い)なのだが、アヤカが出演しているのでゴルフのDVDを買ってしまった。アヤカには、ゴルフではなく格闘技のキャスターをやって欲しい。
 
 メロン記念日は、歌手グループとしては現在イチ推しである。
 その中でもイチ推しなのが、“村っち”こと、村田めぐみ
 彼女はルックスもさることながら、そのキャラクターに愛着を感じる。「自由の毛ガニ」に代表されるギャグのセンス、不思議系のオモチャを愛でる趣味、時折垣間見せるちょっと弱々しい一面、その全てと相性が良い感じがするのだ。
 私は原則として細身の女性は好きではないのだが、村っちに関しては、かなり細かったときから好きだった。今は細いなりに肉が付いてきて、とっても嬉しい。
 コンサートで、歌手が特定の観客の行動に気付いて反応を示すことを「レスを貰う」と言うらしいが、私が「レスを貰いたい」と思うのは、村っちだけである。村っちだけには、独占欲のような感情を抱いてしまうのだ。(かおりんとかには、恐れ多くてそういう感情を抱けない)

 チャーミーこと石川梨華 は、常に私の理想に近いボディを見せてくれる、貴重な存在である。
 一時期、ののに付き合って?少し太った時期があったがすぐ元に戻り、以後は安定して中肉かつクビレ(と言うより、横から見たらボン・キュッ・ボンか?)のスタイルを維持している。色が黒いところも私好みである。
 村っちのような独占欲を抱くことはないが、愛着を感じるキャラクターである。私の基準では、チャーミーは美人ではなく、庶民派なのだ。しかし彼女は単なる庶民派ではなく、その気になればキレイな女性を自己演出することも出来る。実際、写真集ではドキッとするほど綺麗に写っている写真もある。この振れ幅がチャーミーの大きな魅力だ。
 私がチャーミーのファンになった瞬間は、明確に特定できる。『二人ゴト』で、
「私、家の中でも靴下をはいているから、よく転ぶの。バカでしょ?」
と、チャーミーがカメラ目線で笑顔で語ったその瞬間である。本当に可愛かった。あれで、ハートにドキュンと一発撃ち込まれてしまった。
 自分でも「バカでしょ?」と思うが、得てして男とはそういうものではないだろうか。
 

 まだまだ好きな俳優・歌手はいるのだが、今日のところはこのくらいにしておこう。
 ちなみに、年齢の話をすると、かおりん・アヤカ・村っちは同じ1981年生まれ(ただし村っちは3月生まれなので学年が1つ上)。私より16歳くらい年下。
 キーラ・ナイトリィ(1985年3月)と栗山千明(1984年10月)とチャーミー(1985年1月)は学年が同じ。私とは約20歳違い。ウッ、改めて年齢差を確認すると、ファンであることに何か罪悪感を感じる。でも、彼女たちは既に二十歳を越えているのだ。二十歳過ぎれば一人前の女性! 40過ぎのオッサンがファンになっても、いいんじゃないかと思っている。

『オーメン』

『オーメン』
  2006年の映画館で観た映画:15本目
  映画を観た日:2006年6月16日(金)


 当初は劇場に脚を運ぶ予定はなかった。しかし、この映画が6月6日に封切されたと知って、観に行くことを決めた。普通、映画は土曜日からの封切となる。06年の6月6日が火曜日であるにも拘らず、公開をそこに持って来た心意気に、映画ファンとして応えた格好だ。

 私はホラーファンではなく、単にホラーも好きな映画ファンであり、ホラー映画の何たるかを語るようなレベルにはいない。その立場で言うならば、この映画は丁寧な造りではあるが、恐怖を感じるには物足りない出来であった。
 全体的に、ソフトなのである。心に喰い込んでくるような要素が欠けていた。

 一番不満だったのは、ダミアンがこちらを振り返るラストのカット。余りにも普通過ぎるというか、驚きが無い。予定調和ではあっても、映像にハッとするような鋭さが欲しかった。
 例えば…

 ダミアンがこちらを振り返っても、数秒間はカメラ目線ではなく、どこか違うところを観ている(スクリーンに写っていない誰かとアイコンタクトしている感じ)。
 そして、不意にパッとダミアンがカメラ目線になって、観客とダミアンの目線が合う。
 それも一瞬で、直ぐに画面がブラックアウトしてスタッフロールが始まる。

 こうすれば、観客に「ダミアンに気付かれた!」「目をつけられてしまった!」「ヤバイ!」という感覚を残して映画が終わってしまう。このような、観客の心理に切り込んでくるような鋭い演出があれば、観終わったときの印象も変わっていたように思う。

 今回映画を観て、過去、日本で『オーメン』が受けたのは、キリスト教に詳しくなくても理解できる話だからだということに気付いた。“ノストラダムスの終末予言”が日本で受けたことと、現象としてはほとんど同じである。
 重要なのは、キリスト教ではなく、予言であり、“666”という数字なのだ。特に、宗教や文化に関係のない単なる数字の組み合わせという要素をメインに据えたことは大きい。
 例えば、私は今回事情があって前売り券を買わずに1800円を支払ってこの映画を観た。1800というのは、6×3×100である。6×3とは、“666”とも取れる。
 また、帰りに地下鉄日比谷駅のホームに立った私の正面には「6」と書かれたプレート(停車する電車の車両番号を示すと思われる)が設置されており、更に右手側にも「6」、左手側にも「6」と書かれたプレートがあった。6号車両には3つドアがあるということなのだろうが、これは6の3並びでモロに“666”である。
 このように、十進法を使っている以上、“666”という数字は日常的に見つけることが出来る。これが、日本でも『オーメン』が受けた大きな理由の一つであることは間違いない。

 悪魔というキャラクターが、自然災害や単なる偶然による事故という“不幸”を説明するために生み出されたように、『オーメン』における“666”も、虚構を身近に感じるために仕込まれたキャラクターなのだ。

メロン記念日コンサート2006 『MEL-ON TARGET』

メロン記念日コンサート2006
             『MEL-ON TARGET』

コンサートを観た日:2006年6月11日(日)


                   初めての“単独”コンサート

 4月の『ハロ☆プロ パーティ~!2006 ~後藤真希 キャプテン公演~』から約2ヶ月の間隔を置いて、メロン記念日のコンサートに行ってきた。1月には『Hello! Project 2006 Winter ~エルダークラブ~』に行っているから、今年はこれで3回目。コンサートに関して、年内は合計6公演を鑑賞する予定にしているので、残りはあと3回である。

 私は、かおりん大本命、メロン一推し。
 元々は「かおりんがソロコンサートをやるようになったら、コンサートを観に行く」と考えていたので、かおりんがモー娘。所属中には一切のコンサートと無縁であった。自分は『ハロプロ』という組織のファンではなく、かおりんとメロン、他一部のメンバーのファンだという意識から、ハロプロのファンクラブ加入もずっと見合わせてきた。そのため、かおりんのディナーショーのチケットが入手できず、初めて行ったコンサートは『Hello! Project 2005 夏の歌謡ショー』だった。

 そんな“遅れて来た参加者”である私。今回のメロンのコンサートは、私にとって初めての“単独”コンサートとなった。
 私が過去に参加したコンサートは、全て複数のグループまたはソロが集まった混合編成(コンサートではないが、『飯田圭織 クリスマス ディナーショー』でもナッチがゲスト参加していた)。それが今回はゲストすらいない、メロン果汁100%のコンサート。
 この“メロン単独”ということが、今回最も印象的だった。何しろ、会場にはメロンのファンしかいないのである。
 会場全員がメロン目当て。満場一致でメロン推し。
 サイリウムも99.9%はメロン色一色。こんな光景は初めて見た。
 統一された純粋な空間における純粋なコンサートというの雰囲気が、かつてない高濃度の充実感をもたらしてくれた。
 ちなみに、メロン色ではないペンライト(サイリウム)を振っている人もごく少数いたが、あの空間においては不純物以外の何物でもない。絶対に止めるべきだ。メロン一色の中で違う色を持っていれば目立つとでも思っているのかもしれないが、客観的に見たらメロン色の空間に点在する“汚れ”・“汚点”でしかない。あれは本当に消えて欲しかった。

                     最後から2番目の震電

 メロンの中でも、村っちイチ推しである私は、双眼鏡で彼女の姿を追っていることが多かった。何故なら今回の席も、2階席の最後から2番目の席。双眼鏡を使わなきゃ、ステージにいるのが良く似た別人であっても見分けられませんって。
 前回までは「ぴあ」、今回は「イープラス」の先行予約でチケットを購入したのだが、かおりんのクリスマスディナーショー以外は全てハズレと言っても良い席ばかり。さすがの私も、不本意ながらファンクラブへの加入を決意した。一度でいいから、“1階席のコンサート”を体験したいのだ(代々木はフロアではない方が良席である確率が高そうだが)。
 私のクジ運の悪さは昨日今日に始まったことではないので、ファンクラブでもハズレを引くことは多々あるとは思うが、それでも現状よりはマシだろう。何しろ、1年以内の間に2階最尾席を2回、2階最尾席の1つだけ前の席を2回引き当てているのだ。
もう、すぐ背後に壁がある席はイヤだよ~。例え2階席でも良いから、前の方の席が欲しい。

                       村っちがイイ!

 そんなわけで、「これは踊っておこう」と思える曲以外は、バードウォッチングならぬ村っちウォッチングをしていた。
 それはそれなりに満足が得られた。今回、村っちは良かったのだ! 何と言っても、髪が黒っぽかったのが大きい。日本女性の茶髪(金髪)は嫌いなので、村っちも黒くしてくれないかなぁとずっと思っていたので嬉しかった。村っちは知的な美しさもあるので、絶対に黒髪の方が似合うと思う。
 そして今回の村っちはメガネ無し。(会場限定発売と、まるでインディーズ扱いの最新CDのジャケ写では、メガネ着用)
 時東ぁみとメガネキャラが被っていることに拠るものなのか、蒸し暑くてメガネがずれるのを嫌ったのか、それとも単に忘れてきたのかは不明(トークでも一切語られなかった)。
 私は別にメガネ好きではないし、素顔?の村っちが見られたのでむしろ嬉しかった。村っちがメガネ美人であることは否定しないが、やはり普段は素顔の方が良い。村っちのメガネは、コントなどに限定したアイテムとして使用する方が適切だと思う。

                 衣装さんもイイ仕事してます

 また、今回のコンサートは、前回観た『ハロ☆プロ パーティ~!2006 ~後藤真希 キャプテン公演~』に続き、衣装のクオリティが高かった。
 村っちがソロのとき、久し振り?にメルヒェン担当復活を思わせるような衣装で登場したのは、ちょっとビックリ。いや~、とても25才とは思えないほどの可愛らしさ。村っちはきっと、ああいうメルヒェンな可愛らしさをずっと残したまま歳を取っていくんだろうな。内面から滲み出る可愛らしさというのは、お婆ちゃんになっても存在し続けるから。
 4人が、衣装を「別々のカラーで統一」して登場したのは素晴らしかった。デザイン単体で観ても良かったし、舞台上に現れるタイミングとしてもバッチリだった。

 そして、ラスト近くでは、衣装の一部を取り払って高露出バージョンへとモードチェンジ。「キャストオフ」、「チェンジ・セクシー」である。
 すると村っちは、何と“裸にエプロン”を思わせる衣装になっているではないか! 露出そのものは決して大きくは無いが、デザイン的に凄くエロい! これは、衣装さんに座布団3枚進呈ものである! 村っち以外の3人も「チェンジ・セクシー」していたのだが、私はもう村っちに視線が釘付け状態だったため、4人の衣装の露出バージョンの違い(差別化・個性化)を確認することが出来なかった。DVDか写真集で確認したいところだ。

                     2階席と1階席の間で

 コンサート自体は大満足のうちに終了した。
 そして、ちょっとした嬉しいオマケが付いてきた。
 コンサート終了のアナウンスの中、帰り支度をしていると、1階席の客達が、2階席の方を向いて「メロン最高!」コール&手拍子を始めたのだ。すると、2階席の客も、それに応えて「メロン最高!」&手拍子を始めた。最初は一部の知り合い同士・仲間内の挨拶かと思ったが、それにしては数が多い。ちょっと迷ったが、私もこの「メロン最高!」&手拍子に加わった。
 言ってしまえば宴会の終わりにやる「○本締め」のようなものだが、1階席の客達が、2階席の方を向いてくれていることが嬉しかった。まるでエールの交換をしているような感じがしたのだ。もちろん、メロン以外のコンサートではこんなことはなく、初めての経験である。
 単独コンサートは良いものだなぁ、と改めて思った。
 そして、自身初めての単独コンサートに、イチ押しのメロン記念日を選んで良かったなぁと、しみじみ感じた。
 今度メロンの単独コンサートに行くときは、1階席にいる自分が2階席の方を向いて「メロン最高!」コール&手拍子をするという体験をしたいものである。

体重62kg台での足踏みが続く…

体重62kg台での足踏みが続く…

 筋力トレーニングのメニューを【暖期メニュー】に切り替えて、2ヶ月が経過した。しかし、未だに体重は62kg台前半で推移している。たまに61.9kgになったりするのでヒヤヒヤものである。
 今年の私のゴールデンウィーク休暇は、4月28日(金)から5月7日(日)だった。この10連休の間、トレーニングを丸々サボってしまったのがマズかった。帰省中に体調を崩してしまったこともあるが、それを含め全てにおいて自己管理がなってなかった。
 10日間サボると、元に戻すのに30日間を要する(怠け癖の矯正も含む)。41歳になった私の、悲しい現実である。
 それでも先日、トレーニングに使用する荷重の自己記録を更新した。

 ベンチプレス関しては、 2.5kg上乗せして
  22.5kg(シャフト除く)×8を1セット
  27.5kg(シャフト除く)×6を1セット
  32.5kg(シャフト除く)×3を1セット
  40.0kg(シャフト除く)×6を2セット
  32.5kg(シャフト除く)×7を1セット
と、漸く40kg台に突入した。
 シャフトを含めると多分47.5kgといったところだろうが、それでも自分の体重には全然届かない。しかし、現状ではこれが目一杯。今から1ヵ月後に2.5kg上乗せするのは、正直難しい感じだ。
 一方、スクワットに関しては、現時点ではベンチプレスと同じ構成でやっているが、40kg(シャフト除く)を8レップスこなしている。こちらは今月中にも2.5kg上乗せする予定。

 アーノルドプレス関しても、先週から 1.25kg上乗せして、
  片手2.5kg(シャフト除く)×10を1セット
  片手3.75kg(シャフト除く)×6を1セット 
  片手6.25kg(シャフト除く)×3を1セット 
  片手7.5kg(シャフト除く)×7を2セット
となった。
 シャフトを含めると、片手(片方の肩)で10kg。既に7レップスをクリアしているので、今月中に1.25kg上乗せできると思う。ただし、去年の11月には、この種目(厳密にはミリタリープレス)で僧帽筋を痛めているので、慎重に取り組まなければならない。

 その僧帽筋、先週久し振りに高荷重を扱った。と言っても、シュラッグで片腕22.5kg(シャフト除く)である。シャフト込みで左右合わせても50kgだから、これも体重よりも10kg以上軽い。
 それでも、ウォーミングアップ+3セットやったら、パンプアップはイイ感じだった。腰に不安があるので、この種目は3セット目で10レップスを収縮しきれるようになったら、2.5kg増やすという方式でやろうと思う。自分は撫で肩であるせいか、僧帽筋は比較的軽めの低い負荷でも大きくなる(小さな変化が大きく見える)ような感覚がある。

 去年の9月に『季刊 ハードゲイナー通信』の第1号を出してから、まだ一度も自分の身体を撮影していない。11月に故障してしまい、ゴールデンウィークに怠けてしまい、去年の9月時よりも体重が増えたことがないからである。進歩していない自分の身体を撮る気にならないのだ。
 9ヶ月間、進歩ナシか…(正確に言えば、一度後退した後、戻した)
 強いて言えば、上腕(主に三頭筋)は少しだけ太くなったような気もするけど、体重と体脂肪率は変わっていない。理屈からいけば、仮に上腕が太くなっているとしたら、その分どこか他の部位が細くなっていることになる。ぜ、全然喜べない。
 『季刊 ハードゲイナー通信』第2号は、尻、腿、カーフ中心でお茶を濁すか?
 気持ち的にはほとんど逃げの状態ではあるが、6月25日の日曜日は、9ヶ月ぶりに自分の身体を撮影してみようと思う。

 数値的には停滞しているが、新しい発見はあった。
 三頭筋を鍛えるために脇を閉めたディップスを3セットやった後に、ふと「そう言えば、“胸に効かせるディップス”というのも本に載っていたっけ」と思い立ち、脇を大きく開いてディップスをやってみた。すると、確かに大胸筋の下部に効いている感覚が得られた。
 この時は脇を開けた以外は【三頭筋ディップス】と同じ姿勢でやったのだが、前傾姿勢で行なえば、更に大胸筋下部に効くらしい。大胸筋の仕上げの種目として、メニューに加えるつもりだ。名付けて、【下乳ディップス】!

『ジャケット』

『ジャケット』
  2006年の映画館で観た映画:14本目
  映画を観た日:2006年5月27日(土)


 この映画を選んだ理由は、第1に、キーラ・ナイトリィ目当て。第2に、「SF映画のようだ」から。
 キーラ・ナイトリィの出番もSF映画としての要素も、期待していたほど多くはなかった。それでも、観終った後は、不思議にまとまった一作だったと思えた。SFではなく、一種の御伽噺というか、不思議話である。
 子供の頃、NHKで放送された『タイムトラベラー』を観たことがあるせいか、こういう“緩いタイムトラベルもの”は嫌いではない。学生時代、自分で「電車の中で居眠りしているだけで未来や過去へ行ってしまう」という小説を書こうとしたことがあるくらいだ。

 主役はキーラ・ナイトリィではなく、エイドリアン・ブロディ。『戦場のピアニスト』と『キング・ゴング』によって、私にとっては「名前は覚えていないけど顔は覚えている俳優」の代表格である(今回で、名前を覚えられると良いのだが)。不安定なキャラクターを演じさせると天下一品、裏を返せばそれ以外のキャラクターを演じられるのかという印象だ。もっとも、ジョニー・デップも最初はそんなイメージだったから、エイドリアン・ブロディも本当は万能型なのかも知れない。

 本作では準主役というよりヒロインといった感じのキーラ・ナイトリィ。このところ、『ドミノ』と『プライドと偏見』で両極端なキャラクターを演じていたので、今回はいたって平凡な芝居に見えてしまう。もちろん、相変わらず美人で可愛らしいのだが、「この作品で助演女優賞とかは絶対無理だな~」とか「DVDを買うほどではないかな~」と思えたことも事実。

 印象的だったのは、キーラ・ナイトリィ(ジャッキー)の子供時代を演じている女の子が、本当に子供時代のキーラみたいだったこと(と言っても、キーラ本人の子供時代の映像を見たことはないのだが)。あのまま成長して、キーラ・ナイトリィ2世みたいになっておくれ!

『V フォー・ヴェンデッタ』

『V フォー・ヴェンデッタ』
  2006年の映画館で観た映画:13本目
  映画を観た日:2006年5月27日(土)


 丸の内TOEI(2)での上映が終わりそうだったので、慌てて観に行った。有楽町に映画を観に行くようになって5年が経過しているのに、丸の内TOEI(2)は今回が初めて。 TOEI(1)は何度か入っているのだが。

 「SF映画のようだ」・「ナタリー・ポートマンが準主役のようだ」という2つの理由から、この映画を観ることにした。しかし、SF映画という点に関しては、完全に外れ。舞台を未来に置き、架空の歴史を設定しているだけで、SFとしての方法論が何もない。舞台を未来にしたのも、架空の歴史を設定したのも、ドラマを造る上での単なる方便に過ぎないのだ。
 この映画は、未来のイギリスが舞台になっているが、現代の架空の国を舞台にしても、全く同じ内容のストーリーを成立させることが可能である。
 全てが現代に置換可能な未来。いや、現代どころか過去に置換することも可能な未来世界。実際、この映画は未来ではなく過去を描いた作品なのだと感じる部分が多かった。

 Vの行動は、仮面を被っていること以外、全く目新しいものがない。そのため鑑賞中は退屈な感じがしたが、映画を観終ってしまうと、Vを主人公としたこと自体が目新しいことだと気付いた。
 Vは、独裁政権を倒すためとはいえ、爆弾テロを行なっているのだ。パンフレットでナタリー・ポートマンが語っているように、ハリウッドのメジャークラスの映画で、こういう内容を実現することは珍しいだろう。

 反政府勢力が、政府の重要な建物を爆弾で破壊する。これに無条件に「爆弾テロ」というレッテルを貼って「悪」だと決め付けるのは間違いだ。それを、この映画はサラリと言ってのけている。
 確かに、この映画の政府のような政治体制が構築されてしまった場合、Vが行なったような「象徴的な破壊活動」なくしては市民は動かないと思う。圧政による情報管制下では、誰もが存在を視認できるモノを派手に破壊しない限り、反政府活動が行なわれていることを証明することすら不可能だろう。そして、既存体制である政府はそれを「爆弾テロ」と呼ぶのだ。

 舞台がヨーロッパなので、鑑賞中はナチス打倒の映画にしか見えずに退屈したのだが、もしこの映画の舞台が日本だったら、かなり感情移入できたに違いない。例えば、太平洋戦争に突入しようとする日本政府を「爆弾テロ・グループ」が倒すという映画だったら、日本人にとっては相当面白くなる筈だ。
 私は、イスラム圏への空爆も、9.11のテロも、基本的には全く同じ「暴力」だと考える。アメリカは、「殴ったら殴り返された」だけであり、被害者でも何でもない(ビンラディンに関して言えば、「飼犬に手を咬まれた」)。
 もしもアメリカが世界を支配する悪の帝国だったとしたら、テロ以外に、アメリカを倒す方法はあるのだろうか? そんな映画も観てみたいが、それはちょっと無理だろうな。

悩む…

悩む…

 今年の戦隊&ライダーの劇場版、どうしようかなぁ。

 昨年は、正直言って作品に対する期待感は、ほとんどなかった。観に行かないとトラックバック先でネタばれ記事を目にしてしまうという危惧と、『響鬼』は子供の人気がイマイチだからその分を大人のファンが補填しなければ…という義務感から観に行った。

 今年は、そのどちらも無い。
 『カブト』も『ボウケン』も記事を書いてないのでトラックバックを受けないし、『カブト』は子供に人気がありそうだから大人の応援は要らないだろう。
 そしてマズイことに、私は今年の戦隊&ライダーの劇場版に対しては、その内容に期待を抱いてしまっている。
 クロックアップのシーンをスクリーンで観たい!という気持ちはあるんだけど、自分が期待しているクオリティで実現するとは限らないし…。
 さくら姐さんの出番が多いといいなぁとか、戦隊ロボの劇場版モードがゴテゴテとカッコ悪くなりませんようにとか…。
 そういう期待を裏切られてションボリしている自分を想像すると、劇場に出向くのは止めといた方が良いような気がするのだ。

 でも観たいなぁ…劇場で「チェンジ ビートォゥ」とか…カッコイイだろうし。
 それにしても、何故ゴーゴーショベルには、肘関節に相当する可動部が存在しないんだ?! 今日、近所のデパートの玩具売り場で買ってきたんだけど、ちょびっとガックシ。何故なんだ、ゴォゥッ、ゴォオウ~~ッッ

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震電

震電

 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。

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