2006-04

クリス・バード VS ウラディミール・クリチコ

WOWOW『エキサイトマッチ』  2006年4月24日 放送分
       クリス・バード VS ウラディミール・クリチコ                      


 コーリー・サンダースにKO負けするまでは、ウラディミール・クリチコが敗北する姿なんて想像できなかった。ジャミール・マクラインは、確か体格面ではウラディミールよりむしろ勝っていたような気がするが、それでも試合内容は一方的だった。まさに「向かうところ敵無し」の安泰王者。
 そんな彼が、自分より一回りどころか二回りぐらい小さいバードに負けるなど、全く思わなかっただろう。コーリー・サンダースにまさかのKO負けを喫するまでは。

 それが今では、クリス・バードとの対戦でも、試合開始前からハラハラドキドキさせられるようになっている。いなされ続けての自滅に等しい逆転負けという、レイモン・ブリュースター戦の悪夢の再現が頭を過ぎるのだ。ある意味、安定した長期政権を築くであろうと思われていた時期よりは、試合前の興奮度が大きい。
 もちろん、ウラディミールの敗北を期待しているわけではない。バードも好きなボクサーではあるが、やはりヒーローとしての華があるのはウラディミールだ。兄のビタリが引退した今、彼にかける期待は大きい。
 冷静に考えれば、ウラディミールに特別な不安材料はない。彼はこのところ「ダウン慣れ」してきており、コーリー・サンダース戦のときのように「ダウンしてパニックに陥る」というケースはまず考えられない。また、洗練された強打は健在で、あのタフなサミュエル・ピーターを一発でグラつかせたコンパクトな左フックは記憶に新しい。

 それでも、相手は曲者のバード。安心という心理状態からは、ほど遠いかった。
 1ラウンド目にバードがウラディミールのボディへ左ストレートを集める気配を見せると、早くも不安が頭をもたげてくる。

 だが2ラウンド、ウラディミールのノーモーションのワンツーが、バードの高いガードの合間を縫ってクリーンヒット。その後も、ウラディミールの左を五月蝿そうに払い続けるバードの顔面に、再びワンツーが入る。更に、今度はいきなりの右ストレートがノーモーションで。
 バードは、ロープ際でブレイクがあった際にリング外へ向けて言葉を吐き捨てるなど、明らかに苛ついている様子。こんなにあっさりとクリーンヒットを貰うとは思ってもいなかったのか。
 一方のウラディミールも、ラウンドが終わると溜息をつきながら思いつめたような表情でコーナーに戻っていく。

 まだ、どちらが支配しているとも言えない空気のまま、3ラウンド目を迎える。

 ウラディミールのうるさい左ジャブをかいくぐり、自分の距離を保ちたいバード。
 しかし、そうやってバードが距離を詰めてくると、ウラディミールは上から彼の後頭部を押さえ込んで引き寄せる。ウラディミールの長いリーチが、中間距離を一気に潰してクリンチに持ち込んでしまうのだ。まるで、パンチの距離を首相撲で潰す、ムエタイの選手のような戦法だ。
 バードは「反則だろ!」といった感じで、しきりにレフェリーにアピールする。確かにこれをやられては、バードは自分の距離でボクシングが出来ない。
 バードがウラディミールの距離に留まっていると、長いリーチをコンパクトに使ったノーモーションのワンツーが飛んで来る。クリンチ戦法で集中力を欠いているのか、バードは、これを捌ききれずに何発か被弾する。

 コーナーに戻っても、バードの苛立ちは収まらない。背後からセコンドに何か言われて「分かってるよ!」と声を荒げる。
 バードのディフェンスには、一つ欠点がある。パーリング・ストッピング・ブロッキングといったガードと、ヘッドスリッピング・ダッキング・スウェーといったボディワークには長けているのだが、自分の体を丸ごと安全なポジションに移動させるフットワークが乏しい。
 これは欠点ではなく、戦略と言うべきかも知れない。あえて自分の身を相手のパンチが届く危険な場所に置き続け、相手に手数を出させてスタミナを消耗させることが、バードのスタイルでもあるからだ。
 しかし、そのスタイルで相手のパンチを捌き切れず、ダメージが蓄積してきているのなら、フットワークを使ってでも避けるべきである。
 ウラディミールは、ヒット&アウェイと呼ぶには小さすぎる動きで、距離を保っている。コンパクトなパンチを出して少し前進した分、すぐに後に退がることで元の間合いを回復するのだ。
 相手が接近して来ることで相手の距離になりそうなときはクリンチで密着し、自分からパンチを当てて距離が詰まったときはバックステップで離れる。ウラディミールの距離の支配が、試合の流れを決め始めていた。

 5ラウンド40秒過ぎ、ウラディミールが放った教科書通りのワンツーがクリーンヒットして、バードがダウン。その後、ウラディミールがこの試合初めて集中打し、倒しにかかる。しかし、バードは身体を柳のようにしならせ、それを凌ぐ。フックを強振するウラディミールの拳も空を切ることが多い。
 チャンピオンは、ダウン後の約2分間を守りきることに成功した。
 そして、6ラウンドも。

 しかし、巨体を駆る挑戦者も、7ラウンドになって尚スタミナを維持していた。
 後退するチャンピオンを追い続けながら、挑戦者がコンパクトな強打を2発、3発と当て続ける。その直後、チャンピオンがこの試合2度目となるダウン。
 立ち上がり、ロープ際を歩きながら回復に努めたバードだったが、レフェリーは試合続行不可能との判断を下した。バードはその判断に不服の意を表したが、それも長くは続かない。バードはほんの数秒で、自分が王座を失ったことを受け入れたのだった。

 ウラディミール・クリチコは、チャンピオンの座に返り咲いた。
 だが、これでウラディミールが本当に復活したと言えるのだろうか。
 今回のバードとは、結果論ではあるが、相性が良かったように見えた。
 ウラディミールの真の復活は、レイモン・ブリュースターを挑戦者に迎え、これを明確に退けたときに成される。そう思えるのは、私だけではあるまい。
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『 異星(ほし)から来た桃太郎 』

『 異星(ほし)から来た桃太郎 』         

※これは、今から4年以上前の 2002/01/27(Sun) 05:16 に、某掲示板(既に存在しない)に書き込んだ、私流の桃太郎ストーリーです。元ネタに『桃太郎侍』も使っています。『響鬼』も、そうだったりして?※


 昔々の日本…のように見える、山のふもとの村。
 おじさん(中年の男性・夫)は山へ焚き木を採りに、おばさん(中年の女性・妻)は河で洗濯をしていた。
 突然、青空の彼方から真っ赤に燃え盛る火の玉が飛んで来て、おじさんのいる山の方へ落ちて行くではありませんか。それを河辺で見上げて驚き、おじさんのことを心配するおばさん。
 一方、山にいるおじさんは、火の玉が飛びながらパックリと割れて中から桃色の球体が現れ、パラシュートを開いて減速しながら河の上流に落ちていくのを目撃して目を丸くする。

 無事河に着水した桃色の球体は、どんぶらこっこと河を下っていき、河辺で洗濯をしていたおばさんのところへ流れ着く。桃色の球体は、モニター装置でおばさんを確認するすると、アンカーを出してそこに停止した。
 そこへ、慌てて山を降りて来たおじさんが到着。夫婦は警戒しつつも次第に好奇心が募り、桃色の球体を調べ始める。このとき、桃色の球体のモニター装置もまた、夫婦を調査していた。夫婦が桃色の球体の表面に触れたとき、球体から、赤ん坊を抱いた一組の若い男女の立体映像が投影され、メッセージを伝え始めた。
「どうか驚かずに、私たちの話を聴いてください。このカプセルの中には、この子が…私達の子供が入っています。悲しいことですが、この映像をあなた方が見ている頃、私達はもう生きてはいないでしょう。どうか、この子をあなた方の子供として育てて下さい」
 桃色の球体(カプセル)が割れるように開くと、その中には可愛い元気な赤ん坊が。夫婦が赤ん坊を抱き上げてカプセルの外に出すと、カプセルは自動的に閉まっていく。
「このカプセルの中には、私達の形見が収められています。この子が普通に暮らしていけるのなら、必要のないものです。でも、この子が大きくなったとき、もし必要となったのなら、あなた方の判断でそれを与えて下さい。どうか、この子をお願いします…」
 立体映像が消えた。顔を見合わせる夫婦。
「若くして死んでしもうた夫婦の幽霊が、子供のない私らに、子供を託してくれたんかのう?」
「不思議な格好をした夫婦じゃった…いや、もしかしたら天の神様かも知れん。この桃色の玉は、空から落ちて来た火の玉の中から飛び出してきたんじゃ。その中に入っておったこの子は、まさに天からの授かりもの者じゃて」

 夫婦は赤ん坊を、自分たちの子供として育てることにする。
 村人は、突然現れた赤ん坊を怪しむ。夫婦が「籠に載せられて河上から流れて来た」と説明しても納得せず、「村の外から来た余所者」、あるいは火の玉と関連付けて「不吉な赤ん坊」「祟りが有る」として排斥しようとする。しかし、夫婦は屈せず、赤ん坊と一緒に村に留まる。
 赤ん坊は桃太郎と名づけられ、夫婦の子供として、すくすくと成長する。しかし、常人にはない特殊な能力(並み外れた身体能力や、念力などの超能力)を自然に発揮してしまい、出生の件もあって村人には疎んじられ続ける。
 それでも桃太郎は夫婦の愛情により、優しく正義感のある男子として成長していった。同世代の子供の多くは桃太郎を異端視したが、ちょっとした事件がきっかけで少数の仲良しが出来た。桃太郎は、それで充分幸せだった。

 ただ、桃太郎は、ある夢を何度も繰り返し見ることに悩まされていた。
 その夢は2種類あり、一つは、自分の本当の親と思える若い男女が、恐ろしい顔・姿をした化け物とも人間ともつかぬモノに殺される場面。もう一つは、自分が星空の中を飛んで行き、青く美しい巨大な球体(地球)の中に吸い込まれていく(大気圏突入)映像。
 村人から、自分が夫婦の本当の子供でないことを聞かされていた桃太郎は、その夢のことや自分の出生について夫婦に尋ねるのだが、「お前は天から授かった、わしらの子供」としか答えてくれない。

 月日が経ち、桃太郎は青年に成長していた。
 ある日、桃太郎と夫婦は、火の玉が天空を遥か遠く(街)の方へ飛んでいくのを目撃する。
 それからしばらくすると、「街に“鬼”という化け物が出て、人をさらっている」という噂が村に伝わる。
 そして、遂に桃太郎の村にも鬼が現れ、若い娘が一人さらわれた。その娘は、桃太郎と子供の頃から仲良しで、お互いに心を寄せ合っていた、“お祐美”だった。桃太郎は、お祐美を取り戻すため、街へ行くことを決意し、夫婦にそれを伝える。
 夫婦は始めは引き止めるが、桃太郎の決意が固いことを知ると、彼を連れて「開かずの納屋」へ入る。そこは、今まで桃太郎が入ることが許されていなかった禁断の場所。彼が入っていたカプセルが、ずっとここで保管されていたのだ。
 カプセルを前にして、夫婦は桃太郎に自分たちの知る全てを話して聞かせる。そして夫婦がカプセルに触れると、再びカプセルが開き、若い男女の立体映像が投影された。それは、桃太郎の夢に登場する男女であった。
「私達の形見が必要となったのですね。出来ることなら、ずっと使わずにいて欲しかったのですが…」
 カプセルの内壁が開き、4つの腕輪が現れる。
「一つは、私達の子供が使うもの。他の三つは、助けてくれる仲間に使ってもらうものです。欲する形と力を念ずれば、それが得られます。ただし、決してむやみに使ってはなりません。この道具の力は、使い方を誤れば使う者自身をも滅し、大きな災いを招くことになるでしょう…」
 桃太郎は腕輪を装着し、「鬼と戦うための、鎧と刀が欲しい」と呟いた。すると、腕輪から光が流れ出して桃太郎の全身を包み込み、一旦、宇宙服のような装備として実体化したのち、2、3秒で武士の鎧に似た形へと変形した。
「鎧が、語りかけてくる…!」 
 桃太郎の頭部を覆った軽装の兜から、桃太郎の脳へと直接、装備の仕様が伝えられているのだ。(刀は、自由に威力を調節できるレーザーブレード、etc)
 旅支度を済ませた桃太郎は、夫婦に一時の別れを告げる。
「お母ぁ、お父ぅ、行って来ます。お祐美を取り戻して、必ず帰ってくるよ」
 全てを知ってもなお、桃太郎が自分たちのことを「お母ぁ、お父ぅ」と呼んでくれることに涙ぐむ夫婦。
 
 街へ行く道中で桃太郎は、青鬼(男性)が率いる“鼠鬼”と呼ばれる下っ端の鬼集団の襲撃を受ける。
鼠鬼は、量産型の強化服ユニットを使って人間(山賊)が変身した姿だった。
 桃太郎は、次郎と名乗る勇敢な青年の協力を得て(桃太郎は次郎に腕輪を与える)、これを撃退。山賊は、街からやってきた青鬼に雇われて鼠鬼になっていたのだと言う。
 青鬼は桃太郎に準じるレベルの強化服ユニットを装着した強敵で、今回は退却させたものの、再び戦うことになることを桃太郎に予感させた。

 腕輪を装着した次郎は、人間サイズのロボット犬のような姿(フレンダーを日本犬にしたような感じ)に変身することが出来るようになる。腕輪は単なる強化服ではなく、装着者の骨格などの生体組織を装備の仕様に合わせて調整する機能も有しているのだ。(犬状の頭部は装着者自身の頭部ではなく、頭部の延長上にある純メカニック。イメージ的にはメカゴジラの着ぐるみを着ているのと似た感じで、人面犬のイメージではない)
 ただし、地球人である次郎にとっては、強化服による変身は体力の消耗が激しく、桃太郎の強化服に装備されている“きび団子”(一口サイズの強化食)を必要とするのだった。

 街の入り口で、桃太郎たちは、赤鬼(女性)が率いる“猫鬼”の襲撃を受ける。
 猫鬼は、さらわれた街の女性が赤鬼に操られて変身させられた姿であった。そのことを知ってしまったこともあって、応戦に苦慮する桃太郎たち。
 しかし、知略に長けた佐助と名乗る青年の協力を得て(桃太郎は佐助に腕輪を与える)、赤鬼を撤退させることに成功、猫鬼にさせられていた女性たちを解放する。
 腕輪を装着した佐助は、人間サイズのロボット猿のような姿(メカニコング風ではなく、日本猿的なプロポーション)に変身することが出来るようになる。
 また、解放された女性のうち、猫鬼になっていたときリーダー格だった女性も、桃太郎の仲間に加わる。彼女は“お奈津”。妹が“鬼が島”に囚われているので、助け出したいのだという。
 桃太郎は、お奈津に腕輪を与える。腕輪を装着したお奈津は、人間サイズのロボット雉のような姿(形は雌だが、配色は雄のように派手)に変身することが出来るようになる。

 お奈津(かつて鬼が島に囚われていた)の案内で、桃太郎一行は鬼が島に進入する。
 鬼が島では、二人の本物の鬼(青鬼、赤鬼)が、さらってきた街の人々を奴隷として使い、地下資源を採掘していた。
 桃太郎一行は囚われている街の人々を解放する手筈を整え、青鬼、赤鬼を“鬼城”へと追い詰める。しかし、鬼城の中には、もう一人の本物の鬼・黒鬼がいた。
「お、お前は…俺の本当のお母ぁとお父ぅを殺した鬼!」
 黒鬼は、桃太郎が悪夢の中で見た鬼だった。
「なるほど…お前は、あのときカプセルで脱出した子供か。生きていたとはな」
「おのれ、お母ぁとお父ぅの仇!」
 怒りと憎しみに身を任せ、黒鬼に斬りかかる桃太郎。しかし、黒鬼は強い。そして戦っているうちに、桃太郎の鎧が変形し、黒鬼の姿に似た形になっていく。
「これは、一体…?」
 自分の姿の変化に気付いて驚く桃太郎。
「お前の両親は、我々の仲間、鬼だったのだ。つまりお前も鬼の子、人ではない。我々と同じ鬼なのだ」
「お母とお父を殺しておいて、何を言う!」
「お前の両親は、計画を実行する直前になって裏切った。だから殺したのだ」
「嘘だ! 嘘だ!」
 黒鬼を殺せば、その言葉も打ち消せるとばかりに戦い続ける桃太郎だが、その姿は見る見るうちに黒鬼に近づいていく。
 桃太郎の脳裏には、宇宙から見た地球、鬼たちが乗っていた火の玉、納屋で見た自分の乗って来たカプセルの映像がフラッシュバックする。
(この鬼たちは、あの火の玉に乗ってやって来た。俺も、火の玉に乗ってやって来た。確かに俺は、人ではない…)
「そうだ、そのまま鬼になれ。鬼に戻れ。お前は鬼の子だ。子供の頃から鬼だったのだ」
 鬼と化しつつある強化服に取り込まれ、意識が混乱してくる桃太郎。子供の頃、村人の前で超能力を使ってしまい、化け物を見るような眼で見られたり、石をぶつけられた記憶が幾つも蘇る。
「憎い…殺す…」
 ついに、桃太郎の兜から角が生え始めたその時! 若い娘の叫びが響いた。
「桃太郎ぉー! 鬼にならないで!」
 お祐美だ。お奈津が、お祐美を連れてきてくれたのだ。
(憎い…誰を憎むんだ? 殺す…誰を殺すんだ? 俺は、なぜここにいるんだ? お母ぁとお父ぅの仇を取るためか? 違う…大切な人を取り戻すためだ!)
「お祐美ぃー!」
 桃太郎は大きく後方へ飛んで宙返り、黒鬼との間合いを開ける。着地した桃太郎は、元の武士風の姿に戻っていた。
「鬼から生まれた桃太郎!」
 刀を構え、見栄を切って見せる桃太郎。
「お奈津、お祐美や他の人達の脱出の準備を頼む。次郎、佐助、俺と一緒に戦ってくれるか?!」
「おう!」 「もちろん!」

 桃太郎・犬(次郎)・猿(佐助)と、黒鬼・青鬼・赤鬼の、三対三の最終バトルが始まった。その間に、お奈津、お祐美が囚われている人を解放し、鬼が島脱出の準備を進める。
 桃太郎は、戦いの中で鬼が鬼城からエネルギーを得ていることを見抜き、鬼城が墜落した宇宙船をカモフラージュしたものであることに気付く。桃太郎は村を出る前、カプセルから宇宙船についての知識やデータを得ていたのだ。
 これを逆に利用する機転が功を奏し、桃太郎チームは鬼チームに勝利。しかし、桃太郎は鬼たちの強化服ユニットを完全に破壊したものの、鬼を殺そうとはしない。それどころか、鬼城=墜落した宇宙船を爆発させる準備を手早く済ませると、傷ついた鬼たちに肩を貸して一緒に城から脱出する。
「なぜ助ける? 俺はお前の両親をこの手で殺したんだぞ」
「お前が死んでも、お母とお父は生き返らない…」

 鬼城=墜落した宇宙船が爆発したのを見届けると、桃太郎は鬼たちに言った。
「これでお前たちは、鬼としての力の大部分を失った。残っている超能力を使って、これからも鬼として生きるのか、それとも人として生きるのか、それは自分で選べ」
「バカなヤツだ。我々とお前、そしてあの宇宙船の力を合わせれば、この世界をたやすく支配できたものを」
「言ったはずだ… 俺は、鬼から生まれた桃太郎」

 桃太郎一行は、囚われていた人達と一緒に船で鬼が島を後にする。船には、囚われていた人達が島から採掘した貴金属類が積みこまれている。それをチョイト失敬しようとする佐助を、お奈津がピシャリと一撃。
「ちょっとぐらい、いいじゃねぇかよう」
「ダメに決まってるじゃないの! この金はね、この人(囚われていた人)たちが鬼にこき使われて、汗水流して掘り出したもんなんだよ。あんたも街に戻ったら、少しはマジメに働きな」
 一件落着の雰囲気の中、桃太郎は一人、疎外感を感じていた。そんな桃太郎に、お祐美は優しく寄り添うのだった…。

                   《 終 》

『 ゴ ジ ラ 地 獄 』

             『 ゴ ジ ラ 地 獄 』

                (1999年12月28日頃に書いたもの)

 一応、『ゴジラ対ヘドラ』のオマージュとして発想したものが核となったオリジナル版ゴジラ映画です。
 タイトルは、最近観た『地獄』からイタダキました。『ゴジラ対ヘドラ』以上に、既成概念から外れたゴジラ映画のつもりです。なお、『地獄』同様、R15であり、映画館に足を運ぶ観客としての子供存在は無視しています。

 それでは、あらすじを説明します。椎名林檎さんのCD『本能』をお持ちの方は、エンドレスモードで聴きながらお読み下さい。ちょっとエグイけど、我慢して最後まで読んで頂けたら、感動?されること請け合いです。
 なお、主人公のキャスティングは、椎名林檎さん・菅野美穂さん・吉野公佳さん・小沢真珠さん・葉月里緒菜さんの中からお好きな女優さんを選んでイメージして下さい。


 夜の工場地帯。鉄製の階段に、退廃的な雰囲気の女性が腰掛けている。彼女の足元には、男性の肉体がが横たわっている。男は、自分の手首を中心にして出来た血だまりに、顔を突っ伏して死んでいる。
 女性は、靴のヒールで男性の死体を意味もなく突つきながら、自分の手首から流れ続ける血を、つまらなそうに見つめている。
「サクラ、サクラ、私はサクラ。私はサクラ、散無(ちれない)サクラ…」
 そのとき突然、、夜の工場地帯を、青白い炎の、信じられないくらい太い束が横切っていく。ワンテンポ遅れて、青白く太い炎が舐めた後の工場地帯に、爆発が走っていく。
 そして今度は炎がやって来た方向とは反対側から、赤い稲妻のような光が工場地帯を横切っていく。半テンポ遅れて、爆発がその後を追いかけていく。
 退廃的な女性、散無サクラは階段を駆け昇り、燃え上がる工場地帯の上を行き交う青白い炎の束と赤い稲妻を見つめる。そして、その炎の中に、浮かび上がる巨大な二つの影を見いだす。
 (私の待ち望んでいたものが来た)燃え上がる工場地帯を映す彼女の瞳は、恍惚とした喜びに潤んでいた。

 タイトルが被さる――    『  ゴ  ジ  ラ  地  獄  』

 画面変わって、ニュース番組の画像。
「昨日深夜、工場地帯に、怪獣ゴジラと、怪獣ジゴクが出現しました。当番組では今後、この怪獣の動きを生中継にてずっと追い続けて参ります。チャンネルは、そのまま」

 場面変わって、日の出、朝焼けに染まり始めた街。
 こんな時間から満員の、パチンコ店内。どの台も、かかりそうでかからない。散無サクラも、けだるそうに台に向かっている。やはり、かかりそうでかからない。
 朝焼けを背に、ゴジラが、その反対方向からジゴクがやって来る。朝焼けの街を破壊しながら、ゴジラとジゴクはパチンコ店でぶつかるコースを直進し続ける。
 怪獣が近付くにつれ、振動がパチンコ店内を揺らし、足音がどんどん大きくなって伝わってくる。それでも客は振動を、足音を、外の様子を気にしながらも、必死にパチンコ台にすがりつき、離れようとしない。ゴジラとジゴクはどんどん近付いてくる。
 店内が大地震のように揺れ始め、建物が大きく軋みだしたとき、パチンコ台が一斉にかかり出す。客達は振動で座っていることすら出来ない状態であるにもかかわらず、恐怖と歓喜の入り交じった表情で、銀玉を吐き出すパチンコ台にしがみついている。ただ一人、散無サクラの台だけが、まだかからないまま。
 ついにパチンコ店は崩壊を始め、天井が裂けて銀玉が滝のように流れ落ち、客は崩れ落ちる壁や台の下敷きになって死んでいく。
 パチンコ店をあっけなく押し潰すゴジラとジゴク、今度はもみ合うようにして別の方向へと向かって行く。
 パチンコ店の残骸の中から、散無サクラが姿を現す。全身埃まみれ、銀玉まみれだが、いたって元気そう。
「ちょっと待ちなさいよ~、あたしも押し潰してよ~」
離れていく怪獣達に呼びかける散無サクラ。怪獣達には、届くはずもない。

 画面変わって、ニュース番組の画像。
「今朝早く、街に怪獣ゴジラと怪獣ジゴクが出現し、パチンコ店その他が完全に崩壊するという被害が出ました。当番組では、今後もこの怪獣の動きを生中継にてずっと追い続けて参ります。チャンネルは、そのまま」

 場面変わって、ドーム型球場。中では、野球の試合が行われている。チケットを持っていないため球場に入れて貰えず、周りをウロウロしている散無サクラ。そうしているうちに、ドーム型球場を挟むようにして、ゴジラとジゴクが近付いてきていることに気付く。
「ねぇねぇ、ゴジラとジゴクがこっちへ向かってくるよ」
球場へ続く通路に立つ警備員に、散無サクラが話しかける。警備員は彼女に促されてそれを確認する。
「ああ、ああ、本当だ。それじゃ、アナタも中に入りなさい」
「うん、そうさせてもらうわ…」近付いてくるゴジラとジゴクを交互に見ながら、のんびりと球場へと続く通路を歩いていく散無サクラ。
 散無サクラが球場に入った頃には、もう怪獣の接近による振動がドームの中に伝わってきている。それでも今や試合は0対0のまま9回の裏を迎えており、観客も選手も、盛り上がりは最高潮に達しようとしている。
 先頭打者が倒れ、1アウトとなったところで、ドームの天井が1/3崩れて落下、その下にいる観客と選手の一部が潰されて死亡。それでも興奮は収まらず、選手を交代させて試合は続行。ドームの天井にポッカリと空いた穴から、ゴジラやジゴクの姿が見え隠れする。ゴジラとジゴクは、ドームのすぐ横で闘っているのだ。散無サクラは、何故か攻撃しているチームのベンチに入っており、ちゃんとユニフォームも着ている。
 次の打者が倒れ、2アウトとなったところで、ドームの天井が更に1/3崩れて落下、その下にいる観客と攻撃しているチームのベンチが潰され、選手が全員死亡。それでもベンチから瀕死の状態の監督が這い出してきて審判に何かを伝え、すぐにアナウンスが行われる。
「代打、散無サクラ。代打、散無サクラ…」
興奮の坩堝となる球場内。いたって元気な散無サクラがノロノロとバッターボックスに向かう間にも、ゴジラとジゴクは球場にその巨体をぶつけながら闘い続け、球場はどんどん壊されていく。
 バッターボックスに立った散無サクラは、初球をフルスウィングし、打球はぐんぐん伸びて場外へと飛んでいく。劇的なサヨナラホームランに、生き残っている観客は総立ちで大歓声。散無サクラの打った場外ホームランの打球は、ダイレクトでゴジラの目元を直撃する。
 ゴジラはゆっくりと振り返ると、球場内を狙って放射火炎を一閃。球場内はワンテンポ遅れて炎に包まれる。燃え盛る球場内、たいまつのように燃える人間。散無サクラは、炎に包まれたダイヤモンドを、ゴジラに羨望の眼差しを向けながら駆けていく。しかし、ゴジラは球場に背を向ける。散無サクラは、ホームベースの上で、途方に暮れて立ちつくす。
「ちょっと待ちなさいよ~、あたしも焼き尽くしてよ~」

 画面変わって、ニュース番組の画像。
「今日昼前、街に怪獣ゴジラと怪獣ジゴクが出現し、試合中だったドーム球場が焼き尽くされるという被害が出ました。当番組では、今後もこの怪獣の動きを生中継にてずっと追い続けて参ります。チャンネルは、そのまま」

 教会のような建物の前を、ウロウロしている散無サクラ。よじ登って、窓から中の様子を見ると、ミサのような厳かな集会が催されている。建物に忍び込む散無サクラ。
 いつの間にか散無サクラは集会に混じっていおり、服装も他の参加者と同じものを来ている。
 賛美歌のような歌が響き、祈りの儀式が行われる教会のような建物の中に、怪獣の鳴き声と足音の響きが伝わってくる。鳴き声と響きはどんどん大きくなり、響きというより地震と雷が同時に起こっているようになる。集っている人たちは外の様子を気にしているが、誰一人として逃げ出さない。
 ガラスが割れ、立っているのも困難になり、四つん這いになる人も出始めたとき、突然、天井をぶち抜いてゴジラの足が建物の中の人々を踏みつぶす。その一踏みから外れて生き残った人々が一呼吸したとき、もう片方のゴジラの足が踏み降ろされ、その人達を踏みつぶす。
 足音が遠のいた後、床に開いた穴から、散無サクラが姿を現す。泥まみれだが、いたって元気。
「ちょっと待ちなさいよ~、あたしも踏みつぶしてよ~」

 画面変わって、ニュース番組の画像。
「今日昼頃、街外れにに怪獣ゴジラと怪獣ジゴクが出現し、集会が催されていた講堂が潰されるという被害が出ました。当番組では、今後もこの怪獣の動きを生中継にてずっと追い続けて参ります。チャンネルは、そのまま」

 日も傾きかけた頃、ぶらぶらと、歩行者天国のストリートを歩いている散無サクラ。もの凄い人だかりに足止めをされる。ストリートの中心のビルの屋上でロックバンドのコンサートが行われており、周囲のビルの屋上や、その周りの道路に観客が押し寄せているのだ。
 ステージは既に熱狂している。群衆もハイになり、皆、狂ったように踊っている。そんな中、一人だけつまらなさそうな散無サクラ。踊り狂う群衆にモミクチャにされながら、何かを探して視線を高く泳がせる。
 ビルの陰から、ゴジラが突然、ヌッと顔を出す。見上げる散無サクラの表情が、パッと明るくなる。
 ゴジラはビルの影から姿を現しつつ、その巨体をくねらせながら、青白い炎の束を吐き出す。
 ゴジラの吐いた炎の束は、飲食店街を直撃し、ワンテンポ遅れて大爆発が起こる。爆発により、周囲にいた人たちが吹き飛ばされる。
 ゴジラが現れたのとは反対方向のビルの陰からジゴクが現れ、ジゴクが吐いた赤い稲妻のような光が、ストリートをなぞるように奔っていく。半テンポ遅れてストリートが地下から爆発し、周囲の人々がマンホールの蓋や配管、めくれ上がったアスファルトとともに吹き飛んでいく。
 歩行者天国のストリートを破壊し人々を吹き飛ばしながら、ゴジラとジゴクは、屋上でロックバンドのコンサートが行われているビルで衝突するコースを直進し続ける。
 群衆は、吹き飛ばされてその数を減らしながらも、屋上でロックバンドのコンサートが行われているビル目指して走り続ける。その後ろから、彼らを追いかけるかのようにゴジラ、ジゴクが迫ってくる。
 ついに、屋上でロックバンドのコンサートが行われているビルを挟んで対峙するゴジラとジゴク。ほぼ同時に互いに飛び道具を放つ。青白い炎の束と、赤い稲妻のような光が、ビルをはさんで交錯し、ビルとその周囲はいくつもの爆発に包まれる。
 爆発が止み、炎と煙が消えたとき、ゴジラとジゴクの姿も消えていた。
 ビルの瓦礫の中に出来た死体の山の中から、死体をかき分けて、もぞもぞと散無サクラが姿を現す。衣服はボロボロだが、いたって元気そう。
「ちょっと待ちなさいよ~、あたしも吹き飛ばしてよ~」

 画面変わって、ニュース番組の画像。
「今日昼過ぎ、歩行者天国のストリート街に怪獣ゴジラと怪獣ジゴクが出現し、ストリートコンサートに詰めかけていた群衆が吹き飛ばされるという被害が出ました。当番組では、今後もこの怪獣の動きを生中継にてずっと追い続けて参ります。チャンネルは、そのまま」

 日も傾きかけた頃。山の入り口の丘の上、川沿いに立てられた、豪華な造りの別荘。
 その別荘の入り口に、多種多様な老若男女が列をなして並んでいる。一人ずつ、招待券を守衛に確認してもらい、中へ入っていく。丘の下から、散無サクラがフラフラしながらも懸命に登ってくる。招待客の列も終わりに近付いた頃、散無サクラは別荘の入り口に辿り着くが、招待券を持っていないので、門前払いとなり、扉は閉ざされる。
 散無サクラは、扉を蹴飛ばしたり、鍵穴にヘアピンを差し込んだりして、なんとか中に入ろうとする。
 別荘の中では、多種多様な老若男女が主催者の乾杯を合図に、それぞれ自分のパートナーを探し始める。気に入った相手が見つかり、カップルとなると、その男女はその場で人目をはばからず、服を脱ぐのもそこそこに、チークダンスを踊るようにして男女の絡み合いを始める。
 夕焼けを浴びながら扉の前でアレコレ頑張っていた散無サクラが、ついに鍵を開けるのに成功する。彼女が疲れ切った表情で扉を開けて中へ入っていったとき、別荘の先の山の陰から、ゴジラとジゴクが姿を現す。もちろん、散無サクラはそれには気付かない。
 散無サクラが別荘の中に入ると、そこは既に多種多様な老若男女によるチークダンススタイルのSEXパーティと化していた。どこかにまだ余っている人はないか、絡み合う男女の群をかき分けるようにして別荘の中を探し回る散無サクラ。しかし、一心不乱に絡み合うカップルばかりで、誰も散無サクラのことなど気にもとめない。そのとき、開いたままのドアから出ていく人影が。散無サクラは、慌ててその人影を追う。
 ゴジラとジゴクもまた、絡み合うような格闘戦を繰り広げながら、別荘へと近付いていく。
 ゴジラとジゴクの咆吼と格闘による振動が別荘内にも伝わり、それがどんどん大きくなっていく。別荘の中のカップル達は、揺れが激しくなってきたためチークダンス状態ではいられなくなり、次々と床に倒れ込んでしまうが、それでもそのまま絡み合いを続ける。
 別荘から駆け出した人影は、川の中へと入っていく。川の深さは浅く、ちょうど踝ほど。散無サクラも、後を追って川の中へ入っていく。
 ゴジラとジゴクは絡み合うように格闘しながら、別荘を踏みつぶさんばかりまで接近している。
 ジゴクの長くて鋭い爪が、ゴジラの右胸を深々と突き刺した! その爪が引き抜かれると、傷口から滝のような血が流れ落ちる。
 滝のように流れ落ちるゴジラの血が、別荘を直撃し、屋根をぶち抜いて中へと流れ込む。奔流となったゴジラの血潮は、床で絡み合っている多数の男女を一気に飲み込み、壁をぶち抜いて別荘の外へと流れ出す。
 ゴジラの血の奔流とそれに飲み込まれた多数の男女は、そのまま川へと押し流される。
 それに気付かないまま、川を駆け下りる人物を追いかける散無サクラ、ついに人影に追いつき、その人物に後ろから抱きつく。しかし、次の瞬間、その人物は十字架のようなオブジェに変わっていた。
 散無サクラは、川の中央で、夕焼けに染まりながら、十字架のようなオブジェに自分から抱きつくような格好で張り付けにされている。
 そこへ、ゴジラの血の奔流とそれに飲み込まれた多数の男女が続々と流れてくる。ゴジラの血により、川の嵩は一気に腰の高さにまで達する。血の川の中を流れていく男女の死体、その中で張り付けになっている散無サクラ。辺り一面は、血のような夕焼けに染まっている。あるいは、本当にゴジラの血に染まっているのか。
 ゴジラとジゴクは、血塗れで絡み合ったまま、山の方へと戻っていく。
「ちょっと待ちなさいよ~、あたしも溺れさせてよ~」
 張り付けのまま、首を振って怪獣達に呼びかける散無サクラだが、その声は怪獣達には届かない。

 画面変わって、ニュース番組の画像。
「今日の夕方、山のふもとに怪獣ゴジラと怪獣ジゴクが出現し、川沿いの別荘がゴジラの血で押し流されるという被害が出ました。当番組では、今後もこの怪獣の動きを生中継にてずっと追い続けて参ります。チャンネルは、そのまま」
 そのまま、ニュース番組のスタジオ内部の風景。
「さて、今から時間の許す限り、ゴジラに関して各界の著名人によるディスカッションを行っていただこうと思います。テーマはもちろん、ゴジラとジゴク、です」
司会者の後方に、『死ぬまで生テレビ』というタイトルパネルと、視聴率を現す大きなディジタル表示器が設置されている。
 司会者の言う「各界の著名人」が、『朝まで生テレビ』よろしく、ゴジラとジゴクに関して口角泡飛ばして激論を始める。
 そのうちに、スタジオが揺れ出す。揺れが酷くなり、机の上のコップが倒れたかと思うと天井から照明が落ちてきて、「各界の著名人」のうち一人が下敷きになって死亡。その瞬間、視聴率を現す大きなディジタル表示器の数字がパッと上昇する。司会者はチラッと振り返ってそれを確認し、議論を煽る。
 揺れはますます激しくなり、照明や天井が崩れ落ち、「各界の著名人」が一人また一人と潰され、その度に視聴率を現す大きなディジタル表示器の数字がパッと上昇する。それでも激論は続き、司会者の煽りもヒートアップしていく。しかし、ゴジラとジゴクの叫び声が大きくなり、彼らの絶叫もかき消されがちになる。
 そして遂に、ゴジラの雄叫びとともにゴジラの尻尾が上から降ってきて、最後まで生き残っていた司会者ごと、スタジオをペシャンコに押し潰す。その直後、画面は一面ノイズになるが、それもすぐに切り替わってテロップの画面になる。
「しばらくお待ち下さい…チャンネルはそのまま」

 殺風景な部屋で、小さめのTVを覗き込むように見ている散無サクラ、憮然とした表情。
「もう待ってられない~、あたしの方から行ってやる~」

 夜。軍の志願兵受付所。散無サクラはユラユラしながらも列に並び、書類を受け取って記入し、正式に入隊を認められ、装備一式を受け取る。どうでも良さそうながらも、ちょっと嬉しそうな散無サクラ。
 戦闘服に着替え、装備一式を身に付けて兵士となった散無サクラは、早速戦車部隊に配属され、戦車に乗り込む(外見は実在の戦車だが、中身は一人乗りになっている)と、即、命令を受けて出撃する。
 夜の駅前のビル街で闘っているゴジラとジゴクを、戦車大隊が包囲していく。散無サクラの乗る戦車は、一台だけ遅れてやって来て、怪獣達から一番遠い所で一旦停車。ゴジラに近寄りたい散無サクラは、少しでも前に出ようとウロウロと移動を続ける。
 攻撃命令が下り、散無サクラを含む戦車大隊は一斉に砲撃を開始。
 いずこからか、ヘリコプターや戦闘機部隊も加わり、夜のビル街で、空と地上から怪獣二頭に対する波状攻撃が行われる。
 しかし、ゴジラとジゴクには砲撃もミサイルも効果が無く、戦車部隊や航空部隊は次々と怪獣によって破壊されていく。
 そしてゴジラの足元に散無サクラの乗る戦車が近付いていき、今まさに、一歩踏み出したゴジラの足の下に入って踏みつぶされようとした、そのとき!
 天から一発の核ミサイルが真っ逆様に降ってきて、ゴジラとジゴクの真上の空で、爆発した。
 夜のビル街がまばゆい光に包まれ、真昼よりも激しく照らし出される。
 その直後、雷鳴のような轟きとともに衝撃波がビル街を薙ぎ倒し、巨大なキノコ雲が全てを飲み込んでいった…。

 朝。青空と朝焼けが入り混じった綺麗な空。
 一面焼け野原となり、鉄骨を剥き出しにしたビルの墓場と化した、かつてビル街だった場所。
 瓦礫の中に半ば埋もれた戦車のハッチが開き、中から散無サクラが現れる。服は焼けこげたりしてボロボロだが、いたって元気そう。しかし、周囲には何一つ動くものはない。不安そうに周囲を見回す。
 少しすると、どーん、どーんとゴジラの足音が響いてくる。散無サクラ、ホッとした表情になり、満面に笑みを浮かべる。ふと気付くと、捻れてオブジェのようになった背の高い鉄塔が近くに立っている。
 鉄塔の下までいくと、ゴジラが真っ直ぐこっちに向かって歩いているのが見えた。
 散無サクラは、鉄塔をよじ登り始める。
 鉄塔の頂上に立つ散無サクラ。ゴジラがそこまで近付いてきている。散無サクラは鉄塔の頂上に立ったまま歌を歌い、ゴジラの手が届く距離まで近付くのを待つ。
 ゴジラはその手を伸ばせば散無サクラに届く位置まで来ると、そこで止まった。散無サクラも、歌を歌うのを止める。
「ねぇ~、早く握り潰して~、その大きな両手で~」
 ゴジラは散無サクラを凝視し、合掌するような格好で散無サクラを両手の間に挟んで押し潰していく。
 散無サクラの立つ鉄塔の鉄骨に、鮮血が伝って流れ落ちていく。
 朝焼けを背景に、オブジェのようにねじ曲がった鉄塔に向かって合掌しているようなゴジラの姿。
 ゴジラの押し合わされた手のひらの間から、朝陽よりも柔らかい光が滲み始める。
 ゴジラがゆっくりと両手を広げると、柔らかい光に包まれた、全裸の散無サクラの姿がそこにあった。
 背中には先端部が3つに別れた天使のような翼があり、その足は宙に浮いている。
 ゴジラに微笑みかける散無サクラ。ゴジラの瞳に映る、天使のような散無サクラ。
 ゴジラの背鰭に変化が生じる。
一つ一つの背鰭がどんどん長く伸び、それがやがて一つに重なり合い、大きな一対の天使の羽根のようになった。先端部は、散無サクラと同じように3つに別れている。
 散無サクラは羽根を羽ばたかせ、ゴジラの顔のすぐ横にその裸身を浮かべる。
 ゴジラが散無サクラを一瞥すると、散無サクラは、ちょっと淋しそうに頷いた。
 ゴジラと散無サクラは、ゆっくりと天へと昇っていく。
 一面焼け野原となり、瓦礫と骸骨のような鉄骨が晒された墓場のような大地を下にして、ゴジラと散無サクラは、ゆっくりと天へと昇っていく。
 大地に動くものはない。空にも動くものはない。ただ、ゴジラと散無サクラだけが、ゆっくりと天へと昇っていく…。
 ゴジラと散無サクラの姿がどんどん小さくなり、遂に天へ溶け込んで見えなくなった。
 すると、骸骨のような鉄骨に肉が盛りつけられるようにしてビルが蘇り、瓦礫が水銀のように溶けて再び新しいビルとなり、ねじ曲がった鉄塔は元通りの姿を取り戻した。道が出来、駅が出来、鉄道が出来て電車が走り始める。電車からはサラリーマンや学生が吐き出され、駅の売店にはいつものように朝刊が並んでいる。
 信号機に明かりがともり、道にも車が走り始める。
 いつもの風景。いつもの街。いつもの人々、いつもの生活…

 タイトルが被さる――    『  ゴ  ジ  ラ  地  獄  』

スタッフロールロールが下からせり上がってくる。
どーん、どーんというゴジラの足音が響き始め、、ほんの少しずつ大きくなる。どーん、どーん、
 どーん、どーん…
 

 というわけで、今までにないゴジラ映画で、映像的にはそれなりに“怪獣映画”している『ゴジラ地獄』。
プロモーションビデオに限りなく近いシュールな映画ではあっても、リアリティは平成ガメラ3レベル。デートムービーというわけには行かないとは思いますが、どーですか、お客さぁん…。

特撮の未来に関して【現実編】

特撮の未来に関して【現実編】

                特撮(トクサツ)の人気

 いつだったか、「『響鬼』は子供にも大人にも人気がある番組」という表現を目にして、情けない気分になった。本当に「子供にも大人にも人気がある番組」が、視聴率8%前後で推移するわけがないではないか。
響鬼視聴率推移

視聴率8%前後では、その週のドラマ番組部門のトップ20にも入らないだろう。
 仮に視聴率8%前後の番組を「人気番組」と呼ぶとしたら、
 視聴率12%前後の番組は「超人気番組」、
 視聴率16%前後の番組は「ウルトラ超人気番組」、
 視聴率20%前後の番組は「スーパーウルトラ超人気番組」、
と呼ばなければならなくなってしまう。世間一般では、そういう呼び方はしない。
 TV番組ではないが、「子供にも大人にも人気がある」と言えば、『もののけ姫』以降のスタジオジブリ映画のような作品のことを指すのではないだろうか。

 それ以外にも、稀に
「ビデオやHDRに録画し、後で視聴している人も多いので、実際の視聴率はもっと高い」
といった意見を目にするが、そんなことは特撮番組に限った話ではないではないか。
 録画再生視聴を視聴率に反映させたら、もしかしたら『響鬼』の視聴率は少しは上乗せされていたかも知れない。しかし、他のドラマだって(例え朝早い放送でなくても)録画再生視聴している人はいるのである。録画再生視聴を視聴率に反映させても、番組全体の視聴率が底上げされるだけで、上位のランキングに大きな変動はないだろう。(深夜特撮にしても同じ。深夜番組全体の視聴率が底上げされるだけ。上げ幅は日中の番組より高いだろうが、そうなったところで深夜特撮がドラマ部門のトップ20に食い込んでくるとは到底思えない)
 ただ、さすがに
「平成仮面ライダーシリーズは日曜の朝早い時間帯にやっているので、視聴率が低くなっている。もっと良い時間帯に放映すれば視聴率は伸びる」
という意見は見た記憶がない。世間一般でいうところの人気番組と平成仮面ライダーシリーズが同じ時間帯に放送された場合、平成仮面ライダーシリーズの視聴率がどうなるのか、想像するのはちょっと辛いものがあるということだろう。

                特撮(トクサツ)とは

 前置きが長くなってしまったが、そんな特撮の未来について、ちょっと現実的に考えてみようと思う。(現実を無視した【野望編】は後日アップする予定)
 ここで言う特撮とは、TV放送される特撮番組(いわゆるTV特撮)を主とした、一つのジャンルのことを指す。TV特撮では、戦隊シリーズ、仮面ライダーシリーズ、ウルトラマンシリーズなどがその代表例だ。映画の場合はTV特撮の劇場版や、ゴジラやガメラといった怪獣映画が代表例となる。
 “特撮”という言葉はルーズな言葉なので本当は使いたくないのだが、「変身ヒーローもの(『アクマイザー3』のような、“変身はしないが、元から人間ではないヒーロー”も含む)」と言うとゴジラやガメラが抜けてしまうし、「怪獣もの」と言うと仮面ライダーが抜けてしまう。そのため、「変身ヒーローもの」と「怪獣もの」、それに最近は創られなくなったが『マイティジャック』や『マッハバロン』のような「巨大スーパーメカ主役もの」を含めて、ここでは特撮と呼ぶことにする。(狭義の特撮という意味でトクサツとカタカナで表記しようかとも思ったが、何か感じ悪いので止めた)
 よって、この場合の特撮には、戦争ものやパニックものやSFといった、確立されたジャンルの作品は含まれない。『日本沈没』は災害映画、『ローレライ』は戦争映画の一種であり、ここでいう特撮には含まれないというわけだ。

              特撮は9才以上には人気がない

 未来を語る前に、現実を語る必要がある。
 一般的に言って、特撮は大人には人気がない。
 もっと具体的に言うと、9才以上は特撮を見なくなる。
 更に本質を言えば、9才以上は特撮を自主的に見続けなくなる。
「子供に付き合って仮面ライダーを見ていたら、私もハマッてしまいました」
という話は散見するが、そういう人が、
「子供はもう仮面ライダーを見なくなりましたが、私は一人で見続けています」
となる確率は非常に低い。

 それは、平成ライダーの視聴率を見れば分かる。
 もしも、「子供と一緒に見るようになって…」というきっかけで特撮ファン(もっと限定して、平成ライダーファンでも良い)となる大人が、総体として無視できない程存在いるとしたら、どうなるか?        
 『クウガ』以降、「子供が3才以上になって仮面ライダーを見始める」という世帯は毎年新たに出てくるわけだから、大人(親)の特撮ファンも新たに毎年生まれ、累積されて増え続けることになる。
 それならば、平成ライダーの視聴率は年々右肩上がりに上がっていく筈である。
 しかし、実際には『アギト』で一旦上がった後は下がっており、平均約8%で底をついた格好になっている。
 つまり、特撮ファンは、『クウガ』以降6年経っても増えていない。
 子供と一緒になって仮面ライダーに「ハマッていた」親は、子供が成長して仮面ライダーを見なくなると、自分も仮面ライダーを見なくなるのだ。子供が仮面ライダーから卒業すると同時に、親もまた仮面ライダーから卒業するのである。(バンダイの子供アンケートの結果から、大半の子供は9才までには戦隊やヒーローを卒業していると推察できる)

「子供に付き合って仮面ライダーを見ていたら、私もハマッてしまいました」
という人のほとんどは、『クウガ』なら『クウガ』という作品自体にハマッた「『クウガ』のファン」であり、平成の仮面ライダーというシリーズにハマッたわけではない。ましてや、特撮というジャンル自体を好む特撮ファンになったわけではないのだ。
 実際には、作品自体にハマッたというよりも、オダギリジョーなどのいわゆる“若手イケメン俳優”にハマッたというケースが大半だろう。もちろん、これは女性視聴者の場合だ。
 男性の場合だと、俳優にハマッたというより、「子供の頃に見ていた仮面ライダーの懐かしさから…」というケースの方が多いと思う。「懐かしさ」とは、要するに「過去との共通点の確認」である。『アギト』が平成ライダーの人気のピークであったのは、『アギト』に昭和ライダーのオマージュの色合いが濃く、『龍騎』以降のライダーは昭和ライダーとの共通性が希薄になっていったことが関係しているのかも知れない。
 いずれにせよ、母親も父親も「平成ライダーという、現時点での変身ヒーロー作品そのものが好き」というわけではない。だから、子供がライダーを見なくなると、自分も自然に見なくなってしまう。

 TV特撮の平成ライダーシリーズから導かれる結論は、映画特撮の平成ゴジラシリーズから導かれる結論とも良く一致する。
 私は平成ゴジラシリーズを全て劇場で鑑賞した(しかも1作につき、間隔を空けて2回以上)。そこで見た限り、シリーズが続いている間、子供の観客の年齢層は全くといって良いほど変化しなかった。シリーズは1989年(1作目の『vsビオランテ』)から始まり、1995年(6作目の『vsデストロイア』)まで続いたのだが、中学生や高校生の観客はほとんど増えていなかったと断言できる。(“子供連れでない大人の観客”に関しても同様)
 平成ゴジラシリーズのプロデューサーは
「ゴジラ映画の対象年齢は3歳から10歳。今の子供は10歳くらいで怪獣映画を卒業するし、その時期に洋画を見るようになるから」
と専門誌上で明言していたが(口頭で聞いたこともある)、実際にその通りだった。

 TV特撮の平成ライダーシリーズも、映画特撮の平成ゴジラシリーズも、固定ファン(即ち特撮ファン)はごく少数しか存在しないのだ。
 平成ライダーシリーズは、人間ドラマに関しては平成ゴジラシリーズよりも遥かに緻密に創られており、いわゆる大人の鑑賞に堪える部分が多い。だが、「新規の固定ファン獲得」という成果に関しては、両者ともに「ほぼゼロ」で、差は出ていないのである。
 もっとも、平成ゴジラシリーズはもとより、平成ライダーシリーズの造り込みも、戦隊シリーズ等との差別化を図ったらこうなったという単なる“結果”であって、作品が「新規の固定ファン獲得」を“目的”にしていないことは明らかなのだが。

 蛇足ながら、前作の仮面ライダー『響鬼』の視聴率の件についても触れておこう。
 『響鬼』は30話において製作体制変更による作風の変化があり、ブログを書いている大人のファンの一部から反発の声が上がった。
 反発の声を上げた大人のファンの中に、視聴率の測定対象世帯になっていた者がいとしたら、彼は製作側に抗議の意思を示すことが出来た。意図的に『響鬼』の視聴率を下げるという抗議である。視聴そのものを完全に止めても良いが、そこまでしなくても、視聴率を下げることは可能なのだ。
 31話以降、リアルタイム視聴を止め(放送中は視聴率測定機器の設置してあるTVの電源を切る)、放送より30分以上ずらして録画再生したものを視聴するようにすれば良いのである。私だったら、『響鬼』を録画中、TV側は裏番組にチャンネルを合わせておく(別に見る必要はない)というオマケ抗議もやっただろう。
 視聴率がカウントされる仕組みは、ビデオリサーチ社側から説明を受けて理解している筈だ。余程の阿呆でない限り、中学生以上だったらこの“抗議行動”を思いつくし、実行も容易だ。
 しかし、視聴率は下がるどころか、むしろ微増した。
 結果から導かれる答えは3つ。

(1)関東地区の視聴率測定対象世帯600世帯中、29話まで『響鬼』を視聴していた約8%(48世帯)のなかに、反発の声を上げた大人のファンはいなかった。
(2)いたけれども、その一方で、30話以降から『響鬼』を視聴する世帯が増加したため、相殺された。
(3)いたけれども、放送当初からリアルタイム視聴をしていなかった。(『響鬼』放送中はTVの電源を切っており、視聴率カウントに貢献していなかった)

 いずれにせよ、この件は『響鬼』における大人のファンの動向など視聴率に現れない誤差範囲程度のものでしかないことが明確に示された事例と言える。

 平成ゴジラシリーズのプロデューサーは専門誌上で
「平成の仮面ライダーを見ると、子供では理解できないようなストーリーやドラマを盛り込んでいるが、いかがなものか」
といった趣旨にとれることも語っていた。それを読んだ当時、私は
「子供はライダーと怪人さえ出ていれば喜ぶ。一緒に見ている親向けのサービスとして、大人の鑑賞に堪えるようにストーリーやドラマを造り込むことは大いに意義があるのではないか」
と思い、憤慨した。
 しかし、2000年の『クウガ』から6年が経過した今、平成ライダーシリーズの作り方に、本当に意義があったのかどうか、疑問を感じる部分が多くなってきた。
「大人向けのサービスをしたところで、しょせん大人の固定ファンが付くわけではない。しかも、大人にしか理解できない部分が確実に増える。それならば、100%子供が理解できるような造りにして、子供向けのサービスに徹するべきではないのか」
 私は最近、そう思うことが多くなってきている。

 おそらく、9才以上の日本人の99.7%(この数字は、統計でいうところの3σである)以上は、特撮ファンではない。
 特撮ファンは、99.7%の子供と、0.3%の大人から成っている。そう言っても過言ではないと思う。

          日本には、「大人向け特撮」のニーズがない

 私も一時期、ゴジラ映画の人気向上について考えたことがある。
 その当時、ゴジラ映画は子供に大人気だったので、この場合の人気向上というのは、大人に対するものである。しかし、そんなことをいくら考えたって、前提としてニーズが存在していなければ何の意味もない。
 「予算をかければ、クオリティの高いゴジラの映像を造り出すことが出来る」
…かも知れないが、日本の映画ファンの中で、「クオリティの高いゴジラの映像」を見たがっている人間が果たしてどれ位いるだろうか? 日本版とは全く異なるゴジラが登場するハリウッド版『GODZILLA』は確かにヒットしたが、それは「ゴジラ映画」としての人気ではなく、単に「ハリウッド映画」としての人気ではなかったのか?
 「人気俳優を出演させれば、大人の観客動員数が増加する」
…かも知れないが、大人の観客は「人気俳優」を求めているのであって、「人気俳優がゴジラ映画に出演すること」を求めているわけではない。人気俳優が出演していれば客が入るのであれば、映画会社としては製作費のかさむゴジラ映画よりも、普通の映画を造った方が儲けが多くなる。

 これはそのまま、今日の特撮にも当てはまる。
 平成ライダーを見ている大人の視聴者の圧倒的多数にも、当てはまる。
 大人達は、仮面ライダーという「変身ヒーロー」を求めて、『アギト』や『響鬼』を見ていたわけではない。『アギト』や『響鬼』で見たようなドラマが、ごく普通の刑事ドラマか何かで見られるのなら、それでも全く構わないのだ。
 大人達は、『アギト』や『響鬼』という「変身ヒーロー番組」を欲していたわけではない。賀集利樹や松田賢二といったお目当ての俳優が出演する番組を欲していただけなのだ。
 もちろん、例外は存在する。しかし前述したように、その数は視聴率となって顕れないほど少ない。

 一般論として、「ヒーロー」のニーズはあっても、「変身ヒーロー」のニーズは存在しないのだ。
 『スパイダーマン』や『バットマン』といった映画化のヒーローは、日本式の「変身ヒーロー」ではない。彼らは単に「正体を隠しているヒーロー」なのだ。『X-MEN』や『ファンタスティック・フォー』におけるヒーローは、覆面や仮面すら着けていない。
 私がゴジラ映画の人気向上について考えて辿り着いた結果は、以下の通り。

(1)日本には、「大人向けゴジラ映画」のニーズがない。
(2)子供向けの娯楽が多様化し、子供の嗜好が分散し、ゴジラ映画の人気が相対的に下がるのは必然である。
(3)ゴジラ映画は、製作面において、他の実写映画よりもコストの面において不利である。
(4)よって今後、ゴジラ映画という商品は淘汰されていく方向に進む。ただし、コストの問題が解決されれば、他の子供向け映像商品と同様の価値を持ち得る。

 基本的には、今日の特撮にも通じると思う。
 TV特撮は現在のところ、子供向け番組として、TVアニメと競争しつつも存続している。日本には、「大人向け特撮」のニーズはないが、「子供向け特撮」のニーズは昔から連綿と存在し続けているのだ。

                特撮は5パターンしかない

 さて、本題に入ろう。特撮は、将来どうなっていくのだろうか?
 日本の特撮は、現状で収斂が既に終了している。あらゆるパターンが試された結果、生き残ったものだけが続いているのが今日の状態なのだ。即ち、

(1)「等身大変身ヒーロー」である戦隊もの
(2)戦隊もの以外の等身大変身ヒーロー(平成以降の仮面ライダーシリーズはここに含まれる)
(3)「巨大変身ヒーロー」であるウルトラマンシリーズ
(4)「怪獣もの」である、ゴジラとガメラ
(5)大人向けの変身ヒーローや怪獣もの(いわゆる深夜特撮)

の5パターンである。
 平成に入ってから、仮面ライダーはブランド名こそ保持しているが、それを以外に関してはメタルヒーローとの差がなくなっており、独自のヒーローパターンを持っているとは言い難い。『ガイファード』などの単発ヒーローものと合わせて、「戦隊以外のヒーロー」として一括して扱うべきである。
 超星神シリーズは、基本的には「戦隊」のフォーマットを踏襲しており、これは別の局が独自のブランドで製作した戦隊ものと見なすべきだ。
 (1)から(4)までは子供を対象にした作品であり、(5)のみが大人を対象としている。(5)は既に終了した『牙狼』を含めてごく少数であり、将来的に大きく発展する見込みは今のところない。既に述べたように、日本には「大人向け特撮」のニーズがないからだ。
 つまり、特撮の将来とは、(1)から(4)までの子供を対象にした作品の将来のことに他ならない。

 東映の戦隊シリーズは、日本の特撮を代表する存在である。アニメと比べると人気は低いものの、毎年共通したパターンで長期に渡って番組が造り続けられている。ある意味、長寿番組と言えるだろう。
 何しろ、日本人の40才ぐらいから下の世代は、程度の差こそあれ戦隊シリーズとの接点を持っているのだ。この世代が、「○○戦隊」とか「○○レンジャー」というTV番組(変身ヒーロー)の存在を知らないということは、まず有り得ない。CMにそのパロディがたびたび登場することもからも、その認知率の高さが窺える。
 強みは、表面的な認知率だけにとどまらない。仮面ライダー、ウルトラマン、ゴジラには、どれもシリーズが休止していた期間があるため、「子供の頃に接する機会がなかった」という「空白世代」が存在する。戦隊シリーズには、これがない。この点が戦隊シリーズ特有の強みである。
 親は、自分が子供の頃に見たものなら、自分の子供にも見ることを許可する傾向がある。場合によっては、子供と一緒になって見る。「空白世代」の存在しない戦隊シリーズは、この「親が見ていたものを、子供が見るようになる」という世代サイクルを、止めることなくずっと回し続けているのだ。
 視聴者は3年か4年で完全に入れ替わってしまうため(戦隊は、3才で見始めて6才には卒業するパターンが多いようだ)、3つか4つのパターンを繰り返していればマンネリには映らないというのも強みだ。(「自動車(特殊車両)」・「飛行機」・「ヘリコプター」・「機関車」などの乗り物、「恐竜」・「昆虫」・「動物(ライオン、ゴリラなどの動物園で見られるもの)」などの生物、「警察」、「忍者」、「家族」、「学校」、「会社」などの組織、といった構成要素を組み合わせてパターンを作り出す)

 製作者側にモチベーションその他の問題が発生しない限り、「戦隊もの」は現状の延長系でずっと続いていくと思う。
 ただし、東映の「本家・戦隊」と、東宝版戦隊ものである『超星神』シリーズの力関係がどうなっていくかどうかは未知数である。また、何からの理由でそれ以外の第三勢力による「新しい戦隊もの」が、既存の戦隊ものに取って代わる可能性も、ゼロとは言えない。

 では次に、「戦隊シリーズ以外の等身大ヒーロー」の将来を考えてみよう。
 平成ライダーシリーズは、現在の方針のまま造り続けても人気が上向く可能性は低い。何故なら、子供の頃「ライダー空白期間」を経験した世代が、現在親になっているからである。
 『ストロンガー』が1975年12月に終了して『スカイライダー』が1979年10月に開始されるまでの約4年間と、『スーパー1』が1981年10月に終了して『BLACK』が1987年10月に開始されるまでの約6年間は、「ライダー空白期間」である。
 1975年に3才だった世代は、『ストロンガー』の記憶が薄いうえ、『スカイライダー』が始まったときには特撮そのものを卒業している可能性が高い。彼らは、現在34才。
 1981年に3才だった世代は、『スーパー1』の記憶が薄いうえ、『BLACK』が始まったときには特撮そのものを卒業している可能性が高い。彼らは、現在28才。
 また、『スカイライダー』も『スーパー1』も放送当時に人気が高かったとは言えない。
 現在28才から34才の世代は、仮面ライダーというブランドに対して、関心が薄い世代と言えるだろう。これは現在放送中の仮面ライダーにとって、非常に悪い条件だと言わざるを得ない。

 『BLACK』と『BLACK RX』の直撃を受けた世代は、現在まだ22~24才である。彼らが3才の子供を持ちようになるには、あと10年ほど待たなければならない。そしてその後は、12年にも及ぶ長期の空白期間が続く。
 2000年から続く連続放送期間をどこまで伸ばすことが出来るのか、あるいは、そのつもりがあるのかは知らない。おそらく、玩具の売り上げが一定以上確保できている間は仮面ライダーのブランドを使い続けるのだろうが、その期間はそれ程長くは続かないように思える。
 戦隊シリーズとの差別化という課題もあるため、選択肢が制限されてくるのも平成ライダーの弱みとなっている。例えば、戦隊シリーズが去年今年と連続して携帯電話を変身アイテムに採用した(携帯電話は「子供が欲しがるもの」のナンバーワンである)ことから、仮面ライダーは2年連続で携帯電話を変身アイテムにすることが出来ずにいる。
 『龍騎』では、「ベルトにアイテムを装着することで変身する」という変身ベルトの革命が行なわれた。これは、初代ライダーから連綿と続いてきた「光る・回る」変身ベルトに匹敵する、エポックメイキングなアイディアである。これをどう発展させていくことができるかが、あるいは3番目のエポックメイキングを作り出すことができるかが、平成ライダーシリーズ存続の鍵になるだろう。

 『超星神シリーズ』は、前述したように「戦隊もの」の一つだが、宇宙刑事シリーズの要素も取り入れているところが面白い。東映が平成ライダーシリーズを終わらせて平成宇宙刑事シリーズを開始させたいと考えているとしたら、目障りな存在であるに違いない。
 『リュウケンドー』は、「戦隊以外のヒーロー」の一つであるが、仮面ライダーの亜流と言うよりも、ヒーローとサポートメカの組み合わせから『ザボーガー』に近い印象を受ける。出来れば収斂後の特撮のパターンには収まらない、「変身しないヒーローもの」というバリエーションを担って欲しかったところだ。

    特撮番組は、「対戦ゲーム番組」か「学習番組」になる?

 TV特撮存続の最大の力となるのは、番組関連商品(主に子供向けの玩具)の売れ行きである(『ガイファード』のような例外もあるが)。ここが、普通のドラマと大きく異なる点だ。番組の存続を左右する要因に、「玩具の売れ行き」という、視聴率以外のパラメータが存在するのである。
 私の世代だと、『ガンダム』は視聴率が低迷して玩具も売れなかったので番組打ち切り、『ダグラム』は視聴率が低迷していたにもかかわらず玩具が売れていたので放送延長となった…というのが定説だ。
 少子化が今後どういった形になっていくのかは分からない(人間も生物である以上、子供を産まないか、3人以上生むかの二極化が進むような気がする)のだが、一人っ子が増えるとしたら、TV特撮の未来はそれ程暗くはないと言えるだろう。
 何故なら、親はその一人の子供にお金を注ぎ込むであろうからだ。TV特撮の玩具は、比較的高価である。しかも新しい玩具が、番組の進行と共に次々と発売されていく。それを一人っ子に次々と買い与えてもらえれば、TV特撮は安泰なのだ。

 しかし、番組関連商品を売り出しているのは、特撮だけではない。アニメも当然ながら番組関連商品を売り出している(と言うよりも、最近のアニメは玩具を番組化しているような気がする)。また、ややジャンルは異なるが、ゲーム機・ゲームソフトも特撮玩具の競合相手である(これも、アニメ化されているものがある)。
 単なる視聴率争いだけではなく、こういった競合相手と玩具販売争いを行なわなければならないのは、先に挙げた長所の裏返しとなる構造的弱点でもある。

 更に、現在の特撮玩具には、特有の欠点がある。
 “なりきりグッズ”という言葉が示すように、変身玩具はヒーロー番組があって初めて成り立つ玩具である。武器系の玩具も、その傾向が強い。ヒーローが使う武器は、剣や銃を模した玩具であっても、単独では一見して剣や銃に見えないものが少なくない。剣や銃の玩具を本物そっくりにしようとすると、PL法の側面から制約が出てくることもあるが、それ以上に毎年デザインを大きく変えることが困難になるという理由が大きい。
 一見して武器に見えないものがちゃんと武器に見えるのは、番組中でそれが武器として使われているおかげである。つまり特撮玩具は、その商品価値が番組に強く依存しているのだ。
 これに対して、ゲーム機・ゲームソフトは、そもそも単独で売られているものである。アニメの玩具も対戦して遊ぶものや通信機能を有するものが多い。番組を観ていれば遊ぶ楽しさが増すだろうが、番組を観ていなくても充分に遊べる。商品価値の、番組に対する依存度は弱い。
 特撮もアニメも見ていない第三者層に向けて販売するとき、どちらが売れるかは言うまでもないだろう。

 もちろん、特撮も玩具に対戦や通信といった性格を持たせるようになって来てはいる。今後は、これが更に推し進められるだろう。
しかし一方でこれは、玩具のコストを押し上げることにもなる。また、なりきりグッズにゲーム機能を加えた結果、なりきりグッズ本来の魅力が低下してしまうようでは本末転倒である。
 コストと機能のバランスに加え、なりきりグッズとゲーム機能のバランスまで実現することが、かなり困難であろうことは素人でも想像がつく。

 だから私は、「単独でも遊べる玩具」が最初にあって、それを作品化したようなTV特撮が登場することを期待している。アニメに見られる手法を、特撮でも採用するのだ。
 例えば、玩具のロボットを対戦させるゲームがあるとする。玩具のロボットは当然小さいが、特撮番組の中では巨大ロボットとして描くというわけだ。この場合、ロボットのコントローラを所持していること自体が、“なりきる”ことになる。つまり、玩具としてのコントローラには、なりきりグッズとしての機能を別途造り込む必要はない。
 劇中でパワーアップアイテムが登場すると、玩具でもそれが新商品として販売される。ただの玩具ではなく、対戦ゲームの新アイテムだ。これで自分のロボットをカスタマイズして、対戦ゲームをより楽しんでもらおうという寸法である。

 特撮の将来として、もう一つ期待しているのは、TV特撮の“学習番組”化だ。“教育番組”ではなく“学習番組”、あるいは“教材番組”。
 親は、単なる玩具よりも、「遊びながら学べる教材」により多くの出費を許す傾向がある。この性質を利用し、特撮番組に登場する合体ロボットなどに、「遊びながら学べる教材」としての機能を持たせるのだ。例えば、ロボットの頭を触ると「head」、手を触ると「hand」と音声や文字が出力されるという具合だ。
 番組自体も、毎回2つの単語(apple とorange とか)をキーワードにして話を作り、「1年間で100語を覚える」といった構成にする。出撃の際には「Open the door」と発声することで秘密の扉を開くとか、お決まりの文も幾つか用意する。
 同様の方法で、1年間で全国の都道府県および県庁所在地を全て覚えられるとか、百人一首を全部覚えられるといった番組にするのも良い。その上で、ヒーロー番組が本来持っている正義感とか勇気とか仲間の大切さを学べるような造りになっていれば、子供番組として最高なのではないか。

                   双方向化が開く道

 地上波のディジタル化に伴い、TV番組には双方向性という性質が加わっていくだろう。
 前述した“学習番組”あるいは“教材番組”としての特撮には、クイズ番組としての要素を取り入れ易い。ヒーローが番組中に出したクイズ(もちろん教材的価値のあるもの)に対しコントローラを使って返答し、その正誤の結果がリアルタイムで各世帯に配信されるようになれば、視聴率の向上が期待できる。リアルタイム視聴していれば、クイズに正解するとヒーローがTVで褒めてくれるのだ。これはチビッコには嬉しいイベントだろう。もちろん録画視聴の場合は、こうした双方向イベントが発生しない。(技術的にはディジタルデータを録画していれば録画再生時にも可能だろうが、あえてそうしない)

 また、玩具と組み合わせた双方向性イベントの実現の可能性もある。
例えば、『龍騎2』ではファイナルベントが3種類あるとする。視聴者は、召還機の玩具を、あらかじめ番組側のオンラインと繋いでおく。TVのライダーが召還機にファイナルベントのカードをセットする直前のタイミングで視聴者が玩具の召還機に「A」のファイナルベントカードをセットすると、そのTVにはライダーが「A」のファイナルベントカードをセットした映像が配信されるというわけだ。
 このイベントも、当然ながらリアルタイム視聴していなければ機能しない。

                    子供番組が好き

 大体以上が、特撮の未来に関して現実的に思うことである。
 私は子供番組自体が好きなので、以前は『ポンキッキ』(安室奈美恵が被り物を演じていた頃)を、最近は『おはスタ』をけっこう観ていたりする。
 現在『おはスタ』にはアニメ番組が組み込まれているが、今後は特撮にもこういうパターンが出てくるのではないだろうか。(私は子供の頃、『グリーンマン』とかいう5分間ぐらいの特撮が子供番組中にパッケージされていのを観たような記憶がある)
 『おはスタ』のような番組の中に特撮がパッケージされるのではなく、特撮自体が「毎週の作品本編」と「情報部門その他」という構成で、子供番組という大枠を構成するようになる可能性もある。現在の“スーパーヒーロータイム”の最後のおまけ映像に、その萌芽を見る今日この頃である。

2006年における映画館で映画を観る予定(前編)

2006年における映画館で映画を観る予定(前編)

 映画鑑賞に関してほとんど計画を立てずに日々過ごしていたら、『ナイト・ウォッチ』というロシアのSF映画を見逃す破目になってしまった。SFファンとして、これは情けない。ネタばれ防止のために事前情報の収集を控えていたのだが、そのために作品自体を観逃してしまうとは本末転倒だ。
 再発防止のため、最低限の事前情報収集行い、大まかな鑑賞予定を立てることにした。

※凡例 ◎…前売り券購入済!!  ○…観に行くぞ!  △…観に行くかも

4月 … 既に3作観ているので打ち止め。
    日程上、『ナイト・ウォッチ』を見逃すことになったのは痛恨。DVD化を待つ。

5月 … ○『V フォー・ヴェンデッタ』(SF系のようなので。ナタリー・ポートマン主演?も目当て)
    ◎『ガメラ』(まともな怪獣映画になっていることを期待)
    ○『トム・ヤン・クン!』(『マッハ!!!!!!!!』のトニー・ジャー再び!)
    △『サージェント・ペッパー』(犬がかわいかったら観る)

6月 … ◎『ジャケット』(キーラ・ナイトリィ目当て。ストーリーも良さそう)
    ◎『デス・ノート前編』(香椎由宇、満島ひかり目当て)
    △『ナイロビの蜂』(ストーリーが面白そう、一応候補に)
    △『ポセイドン』(映像に充分迫力あるなら観る)

7月 … ○『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』
     (キーラ・ナイトリィ目当て。前作をWOWOWで観て、そこそこ面白かったし)
    ○『日本沈没』(樋口監督作品だから観るしかない!)
    ○『狩人と犬、最後の旅』(犬の映画は外せない)

8月 … ○『ゲド戦記』(宮沢駿ではないジブリ作品も観ておこうかと)
    ○『スーパーマン・リターンズ』(メジャーなヒーロー映画は外せない)


9月 … ○『X-MEN 3』(1,2も観たし、『スーパーマン』との出来栄え比較が楽しみ)

10月 … △『デス・ノート後編』(前編が面白かったら観る)

ハロ☆プロ パーティ~!2006 ~後藤真希 キャプテン公演~

ハロ☆プロ パーティ~!2006
              ~後藤真希 キャプテン公演~

コンサートを観た日:2006年4月15日(土)


                  美しさと好みは別物だ

 40歳になってからハロプロ系(大本命は飽くまでも“かおりん”こと飯田圭織、次にメロン記念日)の公演に脚を運ぶようになって、

『Hello! Project 2005 夏の歌謡ショー』(2005.7.23)
『ハロ☆プロ パーティ~!2005 ~松浦亜弥 キャプテンNEO~』(2005.11.3)
『飯田圭織 クリスマス ディナーショー』(2005.12.23)
『Hello! Project 2006 Winter ~エルダークラブ~』(2006.1.5)

と回を重ね、先日『ハロ☆プロ パーティ~!2006 ~後藤真希 キャプテン公演~』に行って来た。
 かおりん大本命、メロン一押しの私が、そのどちらも出ていないコンサートを観に行ったことには、ちゃんと理由がある。このコンサートは、ごっちん、チャーミー、三好さんといった成人が公演メンバーの多数派となっていたからである。大人のメンバーは、オッサンが応援せねばなるまい。
 実際、この日の公演は当日券が売り出されており、満員御礼ではなかったようだ。私が2階席の1席を埋めたことには、それなりに意義があったと思う。

 もちろん、単なる義務感から会場に足を運んだわけではない。
 ごっちんもチャーミーもモー娘。の卒業生であり、娘。としての時期は全てかおりんと一緒だったという意味で、愛着がある。また、ごっちんもチャーミーも、ベストコンディションの状態においては、自分が最も好むプロポーションを有する女性なのだ。

 個人的に、最も美しいと思う女性は、かおりんである。しかし、美しいという価値観と、好みという感覚は別物だ。美しさは理性が、好みは本能が決める。
 かおりんには世界に通用する芸術品のような美しさを認めるが、個人的な好みはと言えば、ごっちんやチャーミーなのだ(飽くまでも外見の話。性格とか全部をひっくるめると、好みのうえでも、かおりんが1番)。

 私は自分自身が筋骨共に細身であるため、骨格がしっかりしていて中肉程度の人に魅力を感じる。
 パリコレのファッションモデルみたいな細身の女性には、全く魅力を感じない。
 だから、かおりんが痩せてくると、悲しくなる。
 チャーミーは、常に中肉を維持しているので、安心して見ていられる。地黒なところも好きだ(これも好みの話。美しいと考えるのは、色白のかおりん)。
 ごっちんは短期間で痩せたり戻ったりするので、当たり外れが大きい。私から見てベストシェープのときのごっちんは、まさに好みとしての理想形である。それを求めてコンサートのDVDを買ったりすると、一回り細くなっていてガッカリさせられることも…。
 先週の『ハロモニ。』で観たごっちんは、見てガッカリする程ではないにしろ痩せていた。だから、ごっちんには余り期待しないで会場に向かったのだが…。

                    クズ席ではなかった!

 市川市文化会館大ホールの2階席に着いたときには、正直言って落胆した。過去4回のハロプロ公演で入った会場の中で、最も鑑賞条件が悪く見えたからだ。2階席からステージを見れば、どうしても俯瞰する形になるのだが、その角度がキツイ。本当に上から「見下ろしている」という感じがした。
 しかし、この私の第一印象は3割ほどしか正確ではなかった。客席が雛壇になっているように、ステージもまた雛壇になっているのだ。実際にコンサートが始まって、メンバーがステージの一番高い所に立つと、私の席からはまるで真正面に立っているように感じられた。これは、かなりイイ感じだった。ステージの一番低いところにいるときはやはり見下ろす感じになるのだが、思っていたほどには観辛くなかった。
 市川市文化会館大ホールの2階席9列目の比較的中央の席は、決してクズ席ではない。もちろん、8倍以上のまともな双眼鏡(Nikonなど)を使うことは必須であるが。

                5人揃ってベストコンディション

 このメンバーでのコンサートとしては、最高のコンサートだったと思う。
 何しろ、メンバーのコンディションが良かった。
 ごっちんは、先週観た『ハロモニ。』のときよりも、一回り太くなっていた。特に太腿の太さが目を引いた。一体、先週観た『ハロモニ。』はいつ撮影されたものなのかと思ってしまった。筋肉ではなく脂肪で太くなった感じだったが、動き自体は切れがあったし、お腹の肉も特に問題ないように見えた。このコンディションをずっと維持して欲しい。

 去年の11月の越谷市民ホールでは、激痩せしたののを観てショックを受けたが、今回は無事元に戻っていたの生で観られてホッとした。今になって思えば、のんの激痩せは、あいぼんの喫煙問題が関係していたのかも知れない。とにかく、回復して良かった。回復どころか、今回はベストシェープだったと思う。

 チャーミーは、いつも通りのグッドコンディション。
 岡やんも、オーバーウェイトすることなく、いい感じだったと思う。
 特筆すべきは、三好さん。自身が持つ素質を最大限に引き出すコンディションに仕上げてきていた。具体的に言うと、かなり絞ってきていた。普通にしていても腹筋の輪郭が分かるほどだから、岡やんと一緒に出した写真集のときと比べるとまるで別人である。私の好みからするともう少し脂肪が付いていた方が良いのだが、美しさの点から言ったら今回がベストだと思う。「見違えるほど綺麗になっていた」とは、こういう変化を言うのだろう。このコンディションで、ソロ写真を出して欲しい。

 ヴィジュアル第一でハロプロの公演に足を運んでいる私にとっては、この5人のメンバーのコンディションの良さは、本当に嬉しかった。ステージの誰を見ても自分の好みのプロポーションを有する女性なのだから、もうウハウハである。実際、ステージの誰に注目するか迷うことがしばしばあった。これでクリスマスディナーショー状態での鑑賞だったら、もう鼻血ブー(死語)だろう。
 
                   完成度の高い衣装

 メンバーのコンディションの良さを引き立たせていたのが、衣装である。
 今回のコンサートは、「衣装が“6人目のメンバー”だった」と言っても過言ではない。それ程、素晴らしかった。
 ハロプロの衣装は、ダサいというのが一般認識だと思う。事実、ファンの目から見てもTVで見られる衣装に関しては、モー娘。デビュー当時から現在のモー娘。の最新の曲に至るまで、一貫してダサいと言わざるを得ない。(少数の例外を除く)
 しかし、公演の衣装は違う。少なくとも、今年始めのエルダーのコンサートと、今回のコンサートに関しては、ほとんど完璧で文句の付けようがないぐらい良い(飽くまでも舞台衣装としての話。間近で見たらどうかなのかは不問とする)。
 妙な例え方だが、ハロプロの衣装は、例え自分が女性であっても自分で着てみたいと思えるものは少なかった。しかし、この日のコンサートで披露された衣装に関しては、自分が女性であったら着てみたいと思えるものばかりだった。

 具体的にどう良いかはコンサートを見てもらうしかないのだが、総体的なポイントだけ書き記しておこう。
 まず、5人の衣装は基本的に「同じコンセプトを持った異なるデザイン」というパターンが基本だった。しかも、ごっちんの衣装が5人の衣装の中心(核)となるように設計されていた。このような集団の中に中心(核)を持たせたデザインというのは、非常に舞台栄えする。
 ちょっと話はズレるが、特撮の戦隊シリーズを大人向けに創ることがあったら、この方式を使ったほうが良いと感じた。(もし私がその映画の監督をやるとしたら、衣装はこのコンサートの衣装担当に依頼するだろう)

 次に、衣装の流れ。
 歌に流れがあるように、衣装にも流れがある。
 ステージには常に5人のメンバー全員が登場しているわけではなく、入れ替わり立ち代わりでメンバーチェンジが行われていく。その際、メンバーの衣装を代えるか代えないが一つの選択となる。その際の衣装の選択(代え時)が見事だった。
 メンバーn人が退場し、交替でm人が登場した場合でも、衣装までが全く新しくものに変わっていると、視覚的には変化した人数分よりも多くの変化が起こっていることになる。それが歌われる曲のイメージに合わせた舞台演出の一部として調和していれば、高い効果を生む。「衣装が“6人目のメンバー”だった」と書いたのは、この衣装変えのタイミングの良さを感覚的に表現したものだ。

 m人のメンバーが歌っているところに、n人のメンバーが加わる際は、必ず同じコンセプトの衣装を着て合流していた。絵的にバランスが良く、調和が保たれていただけでなく、同じコンセプトの中でのデザインのバリエーションが増えることにより、より強化されたイメージを受けた。5人が「同じコンセプトを持った異なるデザイン」を身に纏って勢揃いすることにより、そのグループ全体で“6番目”という一つの存在を形成するという視覚効果である。
 これによって、ステージが絵的に統一され、観ている方も集中力が高まった。
 『Hello! Project 2005 夏の歌謡ショー』では、舞台のメンバーが各人バラバラの衣装を着ていることによって絵的に散漫となり、集中力に欠けていたが、これとは全く逆の現象が起きていたというわけだ。

                   最高のコンサートだった!

 メンバーの最高のコンディションに、それを引き立たせる最高の衣装。これで歌が一定のレベルに達していれば、ヴィジュアル第一の私にとっては最高の舞台となる。この日のコンサートは、まさにそれだった。
 この公演のハイスパット(一番の見せ場)は、5人全員がステージに上がり、それぞれが独自のアクションを決めたシーンだろう。三好さんは、ここで3点倒立から開脚するという意外な技を見せ、驚かせてくれた。チャーミーのY字バランスから床での開脚も見事だった。
 「脱いでもスゴイんです」といったプロポーションを持つ女性が、優れたデザインの衣装をその身に纏って歌い踊れば、男が喜ばないはずがない。あの完成度なら、男だけでなく、女も惹かれること請け合いである。

 歌では、ののが歌った『ドッキドキ! LOVEメール』が印象に残った。今後、Wとしての活動がどうなるのかは分からないが、ソロでも頑張ってくれることを期待している。
 総合的には、やはり主役のごっちんが良かった。特に、モコモコした衣装を“キャスト・オフ”して“チェンジ・セクシー”したごっちんが元気よく歌う『やる気~』は最高だった。この曲は、一時期トレーニングのウォーミングアップ曲としてよく聴いていたので、感激もひとしお。
 でも、MVPを挙げるなら、素晴らしい身体に仕上げてきた三好さん。年内に22才を迎えるが、「まだまだイケます!」というところを魅せ続けて欲しい。

 途中で歌詞の朗読のコーナーを設け、クールダウンの時間を作って観客とメンバーの盛り上がりに緩急を付けた進行も良かった。
 ごっちんとチャーミーのトークにおける「そんなことよりもさァ」という“話題変更合戦”も楽しかった。
 こういうクオリティの公演なら毎月でも観たい。そう思えた、大満足のコンサートであった。

スーパー・ライト級は一体ど~なってしまうんだろうか?

スーパー・ライト級は一体ど~なってしまうんだろうか?

 このところ、レイシーがカルザゲにワンサイドで敗れたり、コットが持ち直したり、トニーとラクマンの試合がマジョリティ・ドローだったりと、WOWOWの『エキサイトマッチ』が伝える世界のボクシングは、益々目が離せなくなってきている。

 しかし私は、ボクシングにおいても「ネタばれ無しで過ごしたい(飽くまでも自分が)」ので、情報収集もままならない。実は、先月と今月、うかつに他所のブログを覗いたことにより、既に、○○や△△が××だということを知ってしまった。これで、『エキサイトマッチ』を観る楽しみが確実に何%か削られてしまった。
 ネタばれに遭遇しないように、もっと注意深く行動せねば…。
 このブログは、そういった情報制限を前提にしたものであることを、どうかご理解いただきたい。

 さて、最近の『エキサイトマッチ』を観ていると、Sライト級は一体どうなってしまうんだろうかと考えてしまう。
 メイウェザーに王座を奪われたガッティがウェルター級に転級して、ハットンがマウサに勝って王座を統一したところまでは良かった。次はメイウェザーとハットンが統一戦を行ない、その勝者がコットと“最終統一戦”を行なうのかと思いきや、メイウェザーがジュダーに勝ってウェルター級王者になってしまった。もちろん、Sライト級の王座は返上済み。
 そのメイウェザーとハットンが戦うということは、ハットンもSライト級の王座を返上してウェルター級に上がるつもりなのだろう。

 メイウェザーが、Sライト級のリミットでハットンと戦うメリットは無い。勝ってもSライト級とウェルター級の両方のベルトを保持し続けることは出来ないし、もし負けたらウェルター級のベルトは剥奪されるからだ(IBFはこの辺の管理がいい加減だから、「タイトル戦として認定していなかったから王座はそのまま」なんてこともあるかも知れないが)。
 逆にハットンはウェルター級で負けてもSライト級の王座は失わないので、メイウェザーに負けたらSライト級に戻ってくる可能性がある。でも、ハットンはメイウェザーに勝ってしまうような気がするんだよなぁ。ガッティみたいに綺麗なボクシングをやろうとしたら二の舞だけど、ハットンに限ってそれはないと思う。それどころか、バッティングでメイウェザーを流血させた上で、ガチャガチャの乱打戦に巻き込むような予感が…。マウサをKOしたパンチのような、変則的な打ち方も出来るボクサーだし。

 仮にハットンがウェルター級に上がると、Sライト級の“無敗王者”はコットだけになってしまう。何か、スーパースターの中でコットだけが置いてけぼりを食ったような格好だ(ジューやハリスには失礼な言い方ですね)。このコットも前々から減量苦が伝えられており、いつウェルター級に上がっても驚くには値しない。そうなったら、「人類最激戦区」が、一転して「人類再就職先」もとい「スーパースターに敗れたボクサーの敗者復活戦の場」ということになる。
 先月、日本Sライト級王者の木村登勇が防衛戦に勝った後、リング上で
「僕の階級の場合、世界を狙うとかは言えないので…」
と答えていたのをホールで見て、「そりゃそうだよなぁ」と思わず憐憫の情を催さずにはいられなかったのだが、こうも状況が変わってくると「もしかしたら」という気持ちも湧いてこようというもの。
 
 正直言って、木村がジューやハリスといった前同級王者はもちろん、コットに負けたデマーカス・コーリー、ケルソン・ピント、ソーサ、ヌドゥ(そういえばヌドゥに勝ったウィッターはどうなったんだろう?)といったランカーに勝つところは想像できない。でも、メイウェザー、ハットン、コットといった面々にはもっと勝てないのだから、事態は明らかに好転している。マウサが相手だったら日本人でも勝算はあるだろうし。

 メイウェザーが返上したWBC王座がどうなっているのかは知らないし(調べようとすると関係ないネタばれに遭遇する危険性があるため放置)、コットの今後の動向も分からない。できれば、コットにはSライト級の4団体王座を統一してから、ウェルターに上がって欲しいのだが。

 しかし、メイウェザーに負けて早々にウェルターに上がったガッティにしてみたら、こうも短い間にSライト級のトップ二人が移って来るとは思っていなかったのではあるまいか。メイウェザーにリベンジするチャンスが早まって喜んでいるのか、「もう二人も上がってきたのかよ!」と内心迷惑に思っているのか、“サンダー”ガッティの心境や如何に。
「メイウェザーのタイトルに挑戦してみるか?」と訊かれたガッティ、
「ガッティン(合点)だ!」と即答したとか、しなかったとか。

ボクシングの世界タイトル認定に関する憂鬱

ボクシングの世界タイトル認定に関する憂鬱


 先日行なわれたメイウェザーとの一戦で、何故ジュダーがIBFのタイトルを保持していたのかが分からない。
 ジュダーは1月に行なわれた統一タイトルマッチで敗北したのだから、全てのタイトルを失っているはずである。
 IBFがその試合をタイトルマッチと認定していなかったとしても、ウェルター級の公式戦であったという事実は揺るがない。プロボクシングの常識からして、ウェルター級の公式戦で敗北したボクサーが、同級のタイトルを保持できるわけが無い。ジュダーが負けた瞬間、IBFのウェルター級王座は勝者に渡るか、空位になるかのどちらかしかなかったはずだ。それが、何故…?

 タイトルを統一するのが偉業であるならば、それを王者が防衛するのも偉業、挑戦者が奪取するのも偉業であるはずだ。「偉大な力には、重大な責任が伴う」という『スパイダーマン』における名台詞は、全てのジャンルのヒーローに当てはまる。
 メジャー3団体のベルトを所持していたジュダーがタイトルマッチを行ないながら、認定料の不払いで2団体のベルトが移動しない(WBAはスーパー王座なので消滅、IBFは空位となる)というだけでも恥ずべき醜態だ(本来なら、戦う前にWBAとIBFの王座を返上しておくのが筋)。それなのに、空位となるはずの王座に負けたジュダーが居座っているのだから、恥の上塗りである。
 これを好意的に解釈すると、

(1)1月に行なわれたジュダーの統一タイトルマッチには何からの問題があったため、IBFはこの試合をタイトルマッチとしてだけではなく、公式戦としても認定していない。
(2)IBFは1月に行なわれたジュダーの統一タイトルマッチを公式戦としては認めているものの、ジャッジの採点に何らかの問題があったとして、ジュダーの敗北を認めていない(無判定扱い?)

などが考えられる。しかし、それよりも興行的な判断が働いたと考える方が遥かに自然だろう。
 要するに、ジュダーとメイウェザーの試合を組んでいたプロモーターのゴリ押しが通ってしまったのではないかということだ。
 興行に「ジュダーの防衛戦」、いや「メイウェザーの4階級制覇」という謳い文句を付けたいがために、世界タイトル認定ルールを捻じ曲げてしまったのではないか? もしそうだとしたら、一体何のための世界タイトル認定団体なのか、その存在意義が問われることになる。

 もちろん、これは飽くまでも私個人の推察でしかない。
 しかし、実際に3団体統一タイトルマッチが行なわれたのにWBCのタイトルしか移動せず、空位となるはずのIBFタイトルを負けたジュダーが保持し続けたという事実を目の当たりにして、私個人が世界タイトルの価値あるいは権威の失墜を感じたのは事実である。
 今回の3団体統一ウェルター級王座のお粗末な分割(WBAスーパー王座に至っては“消滅”)劇によって、主要4団体の世界タイトルであっても、所詮は興行の都合で寄せ集められたりばら撒かれたりする小道具の一つに過ぎないような印象をファンに与えたのではないだろうか。
 この世界の頂点に存在するはずの統一王座が、カネ次第でどうにでもなる胡散臭いものに成り下がってしまったら、プロボクシングのスポーツとしての崇高さを、一体どこに求めれば良いのだろう?

 かつて、畑山隆則がWBA世界Sフェザー級王座に就いていたとき、畑山が健在であるにもかかわらず、暫定王者が立てられたこともあった。
 WBCが不当に世界タイトルを剥奪したとして裁判に訴えられて敗北、一時は団体消滅の危機に陥ったことは記憶に新しい。その影響で今でも資金難が続いているためか、フライ級の正王者のポンサクレックと暫定王者のアルセの両者が、おのおの並行して防衛戦を行なうという異常な事態をWBCは認可している。
 WBOは設立直後にハーンズの5階級制覇をアシストしたり、その翌年、3団体の統一王者タイソンが絶対的な存在として君臨していたにも関わらず独自路線でヘビー級王座決定戦を行なったりしたそうだが、十数年経った今ではどうなのだろうか。

 そもそも、世界タイトル認定団体が(主要なものだけで)4つも存在しているという現状自体が、理想から外れた状況である。
 プロボクシングは、K1やPRIDEのような一企業の営業方針に基づいて開催される格闘技イベントとは一線を画した、“世界”を冠するに相応しい組織とシステムを持つ国際的格闘競技であって欲しい。
 「面白ければそれで良い」と目先の利益のみを追い求めていると、面白くなくなった途端に人々から見捨てられることになる。スター選手不在の時代を迎えても、消え去ることなく人々に支持され続けるものは、過去のスターが築き上げた歴史を正当に引き継いだものだけなのだから。

 各団体のタイトルはもちろん、統一されたタイトルの運用にも厳密な統一ルールを設け、それを遵守するべきだ。統一タイトル戦が安っぽく見えたら、各団体のタイトル戦も安っぽく見えるというデメリットを、もっと深刻に受け止めるべきなのだ。
 主要4団体が統一されるのは不可能だとしても、それくらいは出来るはずである。
 公正なルールに基づいて厳格に運営され、不正を許さず、単に大金を積めば手に入るという代物ではないからこそ、真の価値そして権威が宿る。
 ビジネスを凌駕する何かがあるから、スポーツには独自の美しさがあるのだ。
 イメージ的にも論理的にも、それは正しい。

ボクシング採点の集計方法の考察

ボクシング採点の集計方法の考察


 プロボクシングでは、各ラウンドは独立した採点の単位(ユニット)として扱われる。
 『あなたもジャッジだ』でトム・カズマレック氏はこう説明している。
「どの試合も4回戦なら4つの、6回戦なら6つの、8回戦なら8つの、10回戦なら10の、12回戦なら12の、独立した【1回戦】と考えよ」
 すなわち、
「4回戦は、独立した【1回戦】を4回行ったものと考える。12回戦は、独立した【1回戦】を12回行ったものと考える」
ということである。

 しかしこの説明は、現行の採点システムと照合すると、矛盾が隠されている。

 何故なら、各ラウンドが「独立した【1回戦】」ならば、そのラウンド毎に3人のジャッジによってその「独立した【1回戦】」の勝敗が決められるべきだからである。
 だが実際には、3人のジャッジの各ラウンドごとの採点は、個人別に単純に足し合わされ、一つの試合対して3人の集計結果が別々に出される。
「12回戦は、独立した【1回戦】を12回行ったものと考える」
と言いつつ、その12回分の【1回戦】は、他の2人のジャッジがどう勝敗をつけたかは無視され、1人ごとに単純合計されてしまうのだ。これでは結局「独立した【1回戦】」12回分のドンブリ勘定である。最終的に3人のスコアを比較するということは、ドンブリ勘定同士をを比較していることに他ならない。

 もちろん、3人のジャッジの各ラウンドの採点が全て一致していれば、各ラウンドごとに勝敗を決める方法でも、ドンブリ勘定で決める方法でも、結果的には同じことになる。しかし、現実には必ずしもそうではない。
 ここで一例として、川嶋vsナバーロの採点結果を挙げてみる。
 これを見て気付くのは、僅差で川嶋を支持した2人の採点が、個々のラウンドで見ると必ずしも一致していないということだ。
川嶋vsナバーロのスコア

 ここで、「3人のジャッジの採点によってラウンドごとの勝敗(ポイント)を決める」という「3者統合採点」の細かい説明をしておこう。
3者統合採点の考え方

 この「3者統合採点」によって、改めて採点・集計すると、こうなる。
川嶋vsナバーロのスコア

 このように、勝敗が覆ってしまうのだ。

 採点が割れるものならば、その割れたラウンドごとに、勝敗を決めるべきではないだろうか。
12回戦の採点を別々に集計して「114対114」となった結果が2人のジャッジから提出されたとしても、それはたまたまドンブリ勘定の結果、両者の数字が揃っただけで、個々のラウンドごとの採点に関しては一致していない部分が多々あるかもしれない。
「各ラウンドは、“独立した【1回戦】”と考える」
という近代ボクシングのコンセプトを、もう一度煮詰める必要があると思う。

『ゴジラになる日』

 『ゴジラになる日』

    (1999年11月18日頃に書いたもの)

 ちょっと毛色の違った(でも、ゴジラコミックとかではありがちかも? 『ウルトラマンティガ』でも似たのがあった)日本版ゴジラ映画のオリジナルアイディアを思い付いたので、書いてみます。
(※2006年4月12日記入…そう言えば、『ウルトラマンマックス』にもあったなぁ)
 一応、既成概念から外れたゴジラ映画のつもりです。とりあえず子供の観客は無視?しています。それでは、設定を交えつつ、あらすじを説明します。


 大学を卒業したものの、就職先が見つからない23歳の青年・青木はフリーターをしていた。ある日青木は、バイト先で居眠りをしてしまう。その際、青木は自分が巨大な怪獣になって、自分の卒業した大学付近を歩き、壊す気もなく壊してしまう夢を見る。(怪獣になった自分に長い尻尾があることを確認するシーンあり)
 しかし、それはただの夢ではなかった。翌日、ニュースでは自分が夢で壊した大学付近が、本当に破壊されていることが報道されていた。そして、居眠りしていたときに着ていた服のポケットからは、大学の門のレンガの破片が…。
 大学付近の破壊に関しては、目撃者によって証言がバラバラで、「光を見た」、「影を見た」、「竜巻みたいなものを見た」、そして「巨大な恐竜のような怪獣を見た」…。とりあえず、原因は謎のまま。

 バイト先の二度目の居眠りをし、夢の中で再び怪獣になった青木は、ビルのガラスに映った自分の姿を見る。直立し、長い尾と背鰭を有する恐竜のような怪獣だ(この映画の世界では、ゴジラは虚構・現実ともに存在していないので、登場人物はゴジラを知らない。ちなみにゴジラになったときの青木は、初代ゴジ風のゴジラ)。
 この瞬間、青木は目覚める。
「あ、起きたの、青木さん」 同じ部署でバイトしている現役女子大生・あゆみが声をかける。
「あっ、ゴメン、俺、居眠りしちゃった?」
「寝言まで言ってたわよ」
「えっ、何て言ってた?」 「ゴジラ、ゴジラって」
「ゴジラ? ゴジラって…何?」 「知らないわよ、そんなこと」

 バイトが終わって部屋に帰ると、案の定、ニュースではビル街が原因不明の破壊現象を起こしたことを報道していた。そして、事件を偶然録画したVTRの映像の中、ビルのガラスに一瞬映っていた怪獣の姿は、紛れもなく夢の中で見た自分の姿であった。
「やっぱり俺なのか?」 ポケットの中には、分厚い窓ガラスの破片らしきものが…。

 翌日は、居眠りすることなく無事にバイト終了。しかし、ニュースでは、またしても起こったビル街の破壊現象が報じられている。事件を録画したVTRの映像には、ハッキリと巨大な怪獣の姿が映し出されている。夢の中の自分の姿に似ているが、顔つき、背鰭の形状などが明らかに異なる(このゴジラはビオゴジ風)。直感的に、自分ではないことを確信する青木。
 そして不思議なことに、TVのキャスターには、VTRにハッキリと映っている怪獣の姿が全く見えていないらしい。
「どういうことなんだ、これは…」

 翌日、バイトの帰りにコンビニによった青木は、商品棚の向こうから、例の怪獣の、等身大サイズの尻尾がチョロチョロ見え隠れしているのに気付いてギョッとする。幻覚か? それとも? 意を決してコーナーの先へと見に行く青木。そこには、35歳くらいの、美人の水商売風の女性がいるだけだった。
 やはり幻覚だったのか? しかし、きびすを返そうとした瞬間、その女性の全身に、あの怪獣の姿がオーバーラップする。思わず声を上げる青木。怪訝な表情で青木を見る女性。しかし、その女性も、一瞬間をおいて思わず叫び声を上げるのだった。
 二人は、その足で深夜喫茶へ。女性は彩子といい、バーの雇われママとして働いているという。彩子ももまた、昨日は夢の中で怪獣になって暴れたと言う。
 満席に近い深夜喫茶の中の一席で向かい合っていても、お互いに時々チラチラと等身大の怪獣の姿がオーバーラップしてしまう二人。青木の提案で、二人は、怪獣をゴジラという符丁で呼ぶことにする。どうやら、ゴジラになった者は、ゴジラになった者が自然に分かってしまう(見えてしまう)らしい…。

 その深夜、おのおの部屋に戻る二人。その日は二人ともゴジラになった覚えはないのに、今度は郊外で謎の破壊現象が今正に起こっているという臨時ニュースが伝えている。驚く青木。同時刻、驚く彩子。
「三人目の、ゴジラ?…」
 ニュースではない、実際の現場の映像。ミレゴジ風のゴジラが暴れ、あまつさえ、逃げまどう人々を追いかけて踏みつぶしている。

 翌日、早めに仕事を切り上げた彩子は、帰りの電車の中で、偶然、小学生がゴジラであることを確認する。携帯電話で青木に連絡し、小学生には気付かれないように尾行する彩子(自分が怪獣とオーバーラップしていることを世間に知られたくないため。子供は電車の中でも何を言い出すか分からない)。
 合流した彩子と青木は、小学生を自宅と思われるマンションまで尾行し「落とし物を届けに来た」と偽って、中へ入る。
 部屋には、小学生しかいなかった。彼は小学5年生で、名前はマコト。「ゴジラ」な二人に気付くとパニックになり、部屋の中を逃げ回るが、ゴジラの夢のことを必死に説明され、同時にTVのニュースでマコトが壊した郊外の件が報じられているのを見て、納得、落ち着く。

 マコトは、有名中学進学を目指して現在塾通い中。
「ぼく、キレるタイプなんだ。普段は全然普通だと思うけど、キレると、自分でもワケわかんなくなっちゃう」
「やっぱり、受験勉強でストレスがたまるから?」
「それもあるけど…、ぼく、小さい頃から、蟻を踏みつぶして遊んだりしてたから…」

 そして翌日も別のゴジラが現れ、その翌日、今度はマコトが夜の町中で四人目の「ゴジラ」を発見する。
 四人目のゴジラは、38歳、サラリーマン、係長、妻子あり。工藤という男だった(ゴジラになったときはモスゴジ風)。

 ある日、四人のゴジラはファミレスに集まって話し合う。ゴジラによる被害が、日本を揺るがす大問題となってきたからだ。もし自分たちがゴジラであることが世間に発覚したら、法律では裁けなくても、社会的に抹殺、あるいは政府から本当に抹殺されるかも知れない。
 ストレスがゴジラになる原因だと主張する青木は、彩子や工藤に仕事を変えるよう提案する。
「あたしは今の仕事でしか食べていけないわよ。それとも、フリーターのアンタが、あたしを養ってくれるワケ?」
「私も、妻子を養っている以上、簡単に転職などできない。家のローンだってまだ…」
 そんな4人に、初老の男性が少し離れたところから声をかける。
「私は、ストレスがゴジラになる原因ではないと思う。現に青木くんには、強いストレスの兆候はないと思うが?」
 4人に緊張が走る。自分たちの秘密を知るこの男は、まさか、本当にゴジラ抹殺のために派遣された政府の人間か?
「何か勘違いをされているようだな。私は、ただ少しコントロールする術を知っているだけであって、あなた方と同様、“ゴジラ”ですよ…」
 男性の姿に、キンゴジ風の等身大ゴジラがオーバーラップする。彼は川端と名乗り、56歳で定年退職したばかりであること以外は、自分について語ろうとしない。しかし、話をしてみると医学にやたらと詳しい。

 川端の提唱する「ゴジラ理論」によると、各人のゴジラは、コントロール、封じ込め、切り離しという段階を経て消滅させることができるという。川端が、実際に4人に対しても等身大の「ゴジラ」を見えないようにするなど、ある程度コントロールに成功していることもあり、一応話に乗ってみることにする4人。しかし、青木は直感的に、あまりにも謎めいた川端に対して危険なものを感じていた…。

 そしてラストは、結局5人のゴジラは暴走してしまい、5人同時に実体化して暴れだし、それまで全く吐くことのなかった放射火炎(熱線)を一斉に吐き始め、ゴジラの周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
 同時に日本の各地で「ゴジラ」の共鳴現象が発生し、連鎖反応的に「ゴジラ」が覚醒・出現する。それはまるで、臨界を起こした核分裂反応のようでもあった。
 映像は、日本列島を捉えた衛星の映像に切り替わる。日本の各地で光が一つ、また一つと発生し、それが徐々に加速し、見る見るうちに日本列島全体が光に飲み込まれていく…。
 まるで燃え上がっているかのような日本列島の衛星映像に、エンドロールが被さっていく…。


 劇中のゴジラの映像に関しては、今までにない、「日常の中にゴジラという非日常が現れる」というシチュエーションを描けると思います。ゴジラは、人によって見えたり見えなかったりするという第三者の人の目から見た主観映像や、あくまでもゴジラは存在するという客観映像、ゴジラ本人からの主観映像を組み合わせます。個人的には、

 走行中の自動車の運転席からの映像で、ビル街のど真ん中、正面の大きな交差点をゴジラがいきなり横切っていく。
 天気がいいのに不意に日が陰ったので空を見上げると、ビルの更に上からゴジラがこちらを見おろしている。
 新幹線の前方にいきなりゴジラが出現、ゴジラの歩行による振動で新幹線は急停止、車輪から火花を上げながら制動をかけている新幹線(車内の人間の大半にはゴジラが見えていて、パニックになっている)とゴジラが何気なくすれ違う。

 …というようなシーンが観てみたいです。シュールではあってもリアリティは平成ガメラ3レベル、ビルが壊れるときは本当に壊れるし人々も逃げまどう(だけどゴジラが見えない人には何が起こっているのか分からない、そういう人もゴジラに踏みつぶされたり吹っ飛ばされたりする)、といった感じです。

 というわけで、今までにないゴジラ映画で、映像的にはそれなりに“怪獣映画”している『ゴジラになる日』。親子連れで楽しく観るというわけには行かないとは思いますが、どーですか、お客さぁん…。

『 怪獣神話伝説 ~モンスターズ ファンタジィ~ 』

『怪獣神話伝説 ~モンスターズ ファンタジィ~』

             (1999年12月3日頃に書いたもの)

 『三大怪獣』への自分なりのオマージュが、『ゴジラ2001 大怪獣大江戸決戦』
 『ゴジ逆』への自分なりのオマージュが、『ゴジラ2002 ~対怪獣民間部隊、出動!~ 』
 ゴジラ200Xシリーズからは外れますが、この『 怪獣神話伝説 ~モンスターズ ファンタジィ~ 』は、『怪獣総進撃』への、自分なりのオマージュです。

 過去のゴジラ映画とはチョット毛色の違った、タイトル通りファンタジーかつ神話的なイメージの作品です。ただし、ファンタジーといっても「和洋折衷の、和風寄り」のファンタジーを思い描いて下さい。大まかなイメージとしては、『もののけ姫風ゴジラ』といったところでしょうか。
 それでは、説明を交えつつ、あらすじをどうぞ。

 
 いつか…  どこか…
 幾つかの島々の連なりから成る、ひとつの世界をが在った。
 それぞれの島々は、一つまたは幾つかの国として独立しており、互いに牽制しつつも交流を認め合い、全体として一つの国「ニッポン」であるという緩やかな連帯意識によって、それなりにまとまっていた。
 なぜなら、人々は先祖代々からの言い伝えや日常の生活を通して、列島が一つの生き物のように大自然のエネルギーによって繋がっていることを知っているからである。列島に住む人々は、住む地方こそ違っても、基本的には運命共同体なのだ。
 そして、それを裏付けるものが、列島の国々に一頭ずつ存在する、「主神(ぬしがみ)」と呼ばれる怪獣である。実際には「主神」が先に有り、その「主神」と通じ合う人間を中心に国が造られていったのだ。
 現在も、国々は「主神」を心の拠り所としてまとまっており、政治等の実務を担当する役人とは別格に、「主神」と通じ合うことの出来る「主神付き」が国の代表として存在している。主神付きは、単に主神と意志疎通が出来るだけではなく、常人よりも遥かに優れた身体能力や特殊能力を持つ、一種の超能力者である。列島の国々とその主神および主神付きは、以下の通り。

 北海国(北海道) … 主神はバラゴン、主神付きは30代半ばの男性。決して大柄ではないが、逞しい体格。粗野ではあるが、気は優しくて力持ちタイプ。

 東北国(東北地方)… 主神はバラン、主神付きは30代後半の男性。やせ形で背が高く、荒々しさと求道者的側面を併せ持った山伏のようなタイプ。

 関東国(関東地方)… 主神はアンギラス、主神付きは20代半ばの女性。冷静沈着な巫女あるいは知恵者タイプだが、インドア派ではなく、行動力がある。

 東海国(中部地方)… 主神はマンダ、主神付きは40代後半の男性。SWEP1のクワイ・ガンのような長老タイプ。長年の伝統で、東海国は日本のまとめ役を努めている。
            
 関西国(関西・中国地方)… 主神はチタノザウルス、主神付きは40代前半の男性。大柄・太めの体格で、陽気な商人風。

 四国(四国)… 主神はゴロザウルス、主神付きは30代半ばの小柄な女性。庶民的で暖かみがある、威勢のいい女将さんタイプ。

 九州国(九州)… 主神はラドン、主神付きは10代後半の女性。スマートな体形でアイドルタイプだが、男勝りの性格で喧嘩っ早い。

 そして、どこの国にも属さず、列島を放浪する主神と、正式な主神付きではないものの、主神付き以上の超人的な力を持つ一人の男がいる。それが、ゴジラとスサノオ。スサノオは20代後半で、長身で筋骨逞しいヒーロー体型。自由気ままな風来坊だが、内に秘めた熱血漢でもある。

 主神は、マンダを除き、体高にすると14~18m。ゴジラが一番大きい。マンダは全長60m程度。
 主神はそれぞれ特殊な能力を持っているが、飛び道具を持っているのはマンダ(赤い火炎放射。旧ガメラのような、炎そのもの)とゴジラ(総進撃ゴジラのような放射火炎=青白く燃え盛る突風状の呼気)のみ。威力は、ゴジラのほうが遥かに上。
 空を飛べるのはラドン、バラン、マンダのみ。マンダは翼はなく、飛ぶと言うより龍のように空中を泳ぐ(超能力によるもの)。バランの飛行も少し超能力が関与している。
 バラゴン、アンギラス、ゴロザウルスは地中を掘り進むことが出来る。
 主神付きは、主神と心を通わせたり、自然のエネルギーを感じ取るため、三種の神器や水晶、曲玉のようなアイテムを持っている。
 これらの主神と主神付きは、古事記あるいは日本書紀の時代を思わせる世界で、人々とともに列島各地にて暮らしている。

 そんなある日、一つの流星が東海国の山中に落下した。その正体を確認しに来た主神マンダと主神付きジュロウは、隕石からただならぬ気配を察知し、火炎でいぶり出しをかける。すると隕石の中から、体高3mほどの三首龍が現れた。この三首龍は、主神付きも神器もないのに人語にて語り出した。
 それによるとこの三首龍は、彼ら(ギドラ)一族が住む世界(ギドラ族が主神になっている世界で、主神付きなど、人間も多数いる)からやって来たギドラ族の長老であり、重要な使命を帯びてこの世界にやって来たのだという。
「我々ギドラ族の世界は、つい最近まで二つの勢力に別れて内戦状態にあったのじゃ。内戦は何とか収まったものの、その原因を作ったギドラ族の中でも特に凶悪な一派の暴走だけはとどまらず、その一部が我々の世界を飛び出してしまった。奴らは自分たちの力で、あなた方の住むこの世界を支配することを目論んでおる。
 儂よりも一歩早く、奴らは既にこの世界に来ておるはず。儂はギドラ族の長老として、奴らの暴挙を阻止するために奴らを追ってこの世界に来たのじゃ…」
 その翌日、長老ギドラの話の通り、海に潜伏していた凶悪ギドラ族の一派が列島各地に上陸、主神たちと一戦を交えることとなった。凶悪ギドラ族の一派の構成は

 金ギドラ(キングギドラタイプ、体高26m)… 凶悪ギドラ族の真のボス。主神付きは、グラマーな20代半ばの女性、キラアク(一人)。銀ギドラ以下の一派を従え、「ニッポン」の征服を狙う。

 銀ギドラ(キングギドラタイプ、体高22m)… 一見、凶悪ギドラ族のボスに見えるが実はナンバー2。主神付きは、マッチョな30代半ばの男性、ガイオウ(一人)。

 黒ギドラ(デスギドラ成体タイプ、体高15m)… 一応下っ端ではあるが、1対1ではゴジラを除く「ニッポン」の主神よりも強い。主神付きは、男性2人、女性1人の合計3人。

 青ギドラ(デスギドラ成体タイプ、体高15m)… 基本的には黒ギドラと同じ。
 赤ギドラ(デスギドラ成体タイプ、体高15m)… 基本的には黒ギドラと同じ。

 デスギドラタイプの中では、黒ギドラがリーダー格。
 なお、長老ギドラは高齢であり、主神付きは既に死亡しているが、死んだ主神付きと精神的に融合しているため、単独で人語を操ることが出来る。

 最初に列島に現れたのはデスギドラタイプのみで、バラン、マンダ、チタノザウルスと闘って圧倒しつつも、引き上げていく。
 長老ギドラから、デスギドラ達の背後にはキングギドラタイプの親玉がおり、それらは更に強力であることを聞かされたマンダとジュロウは単独でギドラ族に対抗するのは不可能と判断、列島の主神に呼びかけ、東海国に集まって「主神サミット」を開くことを提唱する。
 ことの重要性を認識した各地の主神たちは、続々と東海国に集結する。
 しかしその裏をかくように、赤ギドラが北海国に、黒ギドラが四国に、青ギドラが九州国に向かっていることが、神器によって知らされる。国に残してきた準主神付きからも緊急連絡を受けた各地の主神は、長老ギドラをスパイと決めつけ、マンダに対しても、「お主は騙されているのだ! それとも我々を裏切ったのか?」と不信感を露わにする。
 サミットは決裂し、バラゴン、ゴロザウルス、ラドンは自分の国へと急ぐ。バラン、チタノザウルス、アンギラスはマンダに対しては理解を示すが、長老ギドラを信じるには至らず、ギドラ族の襲撃に備えるため、やはり自分の国へと戻っていく。

 主神たちが去った日の夜、東海国にふらりとゴジラとスサノオがやってくる。ギドラ族の襲撃と早とちりした人々の知らせを受けて、マンダはゴジラと闘うが、その最中、ジュロウはゴジラがギドラ族ではなく、伝説の放浪の主神・ゴジラであることに気付く。二頭の闘いを止めさせたジュロウは、スサノオにギドラ族の襲来を説明して協力を要請するが、スサノオは取り合わない。スサノオは「気の向くまま」関東国へと向かう。
 ゴジラは関東国へ向かう途中で黒ギドラと遭遇、これと闘う。スサノオも黒ギドラの主神付き3人衆と闘う。ゴジラもスサノオも敵を圧倒するが、そこへ金ギドラとギラアクが出現。黒ギドラ達の加勢もあって、ゴジラは傷ついて海へ追いやられ、スサノオも負傷してしまう。
 ギラアクがスサノオを追いつめたとき、モスラ(幼虫)とともに妖術を操る女性(モスラの主神付き、ナデシコ)が現れ、スサノオを救う。
 その隙にゴジラは海へと逃れ、スサノオはナデシコに連れられて逃げおおせる。
「ふん! まあ、よいわ…次に会うときが奴らの最期だ」
ガイオウは不敵に笑うと、ギドラ共々、「目的地」へと向かう。

 ガイオウの狙う「目的地」は、列島の心臓である富士山であった。
 それに気付いた長老ギドラはマンダとアンギラスにそのことを伝え、自らもマンダとともに富士山へ向かう。真のボス、金ギドラとキラアクがその姿を現し、富士山の頂上からエネルギーを吸収して結界を張り、徐々に広げていく。
 長老ギドラ、マンダ、アンギラスがそれを止めさせようとするが、黒ギドラと銀ギドラにより打ちのめされてしまう。一時撤退を余儀なくされる長老ギドラ、マンダ、アンギラス。

 金ギドラは銀ギドラを富士山頂に呼び寄せ、これと絡み合うと更に結界を強めていく。
 同時期、列島のの北部と南部で神出鬼没していたデスギドラ二頭も、富士山に向かう。
 主神たちは列島の自然エネルギーの変調を察知し、ことの真相を知る。
「我々は、まんまと敵の罠にはまってしまった! 不覚! 一生の不覚!」
 再び、東海国に各地の主神が集結する。早く富士山を凶悪ギドラ族から取り返さなければ、列島全体が死の島になってしまう…。

 同じ頃、ナデシコの一族の里で介抱され、傷の癒えたスサノオもまた異変を察知し、独りで里を抜け出す。しかし、それを影から見つめる幾つかの目があった…。

 主神たちは一致団結して作戦を立て、富士山へ向かう。7匹の主神たちは3匹のデスギドラに対してチームプレイで挑み、闘いを優勢に進めていく。しかし、富士山頂から銀ギドラが舞い降りて闘いに加わると、形勢は逆転。主神たちは窮地に追い込められる。
 そこへ、ゴジラとスサノオが登場。
「コイツは俺がやる! おうおう、この前はよくもやってくれたなぁ! 倍にして返してやるぜぇ!」
 ゴジラは銀ギドラと、スサノオはガイオウと一騎打ちを挑む。
 主神たちは、デスギドラたちを引きつけ、ゴジラやスサノオの一騎打ちを援護。
 その結果、傷つきながらもゴジラ&スサノオは銀ギドラ&ガイオウを倒し、主神たちもデスギドラ一味を倒す。
 部下を倒され、怒り狂った金ギドラは結界を張るのを止め、富士山から吸収したエネルギーを攻撃に変えて猛攻撃を仕掛けてきた。上空からの、その圧倒的な攻撃力に翻弄される主神たち。勝ち誇ったように上空を舞う金ギドラには、ゴジラの放射火炎も通じない。金ギドラが空を飛んでいる限り、ゴジラにすら勝ち目がない。

 そこへ、モスラとともに長老ギドラが現れる。長老ギドラの超能力パワーとモスラの糸を使った自然エネルギーコントロール結界により、金ギドラの吸収したエネルギーは、富士山の火口へと戻されていく。
 パワーダウンした金ギドラは、マンダ、ラドン、バランとの空中戦により地上へと引きずり降ろされる。
 そこへゴジラが立ち向かい、他の主神の援護も受けて金ギドラを叩きのめす。

 その闘いの最中、富士山が噴火し、大地震が発生。これに乗じて金ギドラはかろうじて空へと逃げ、マンダ達の追撃も振り切って逃げおおせるかに見えたが、長老ギドラの矢のような特攻を受け、富士山頂上空で悶え苦しむ。その意志が富士山に通じたのか、富士の火口から火柱が昇り、金ギドラの体を飲み込んだ。空中、火柱の中、断末魔の悲鳴を上げて焼き尽くされる金ギドラ。
 地割れが発生して溶岩が吹き出し、大地に倒れた他のギドラたちも、その中に飲み込まれていく。
 ゴジラや主神たちは、間一髪のところで逃れ、徐々に怒りの静まりつつある富士山を振り返りつつ、それぞれの帰途へとつくのであった…。


 この映画の見所は、怪獣(主神)のサイズが小さいために、人間(主神付き)とが、同じフレームに収まるというところです。
 たとえば、
①ゴジラが登場するとき、ゴジラの肩(というか首の横)にスサノオが立っていて、そこからアニメのコナンみたいに地面に飛び降りる(着地の時は、ガイアみたいに派手に土煙が飛ぶ)。
②スサノオとガイオウが剣と剣をガシイッと打ち合わせた直後、カメラがぐーっと引いていき、彼らの背後で、ゴジラと銀ギドラががっぷり四つに組み合う。
 などです。
 ちなみに、怪獣同士が闘っている周囲では、原則として常に人間同士も闘っています。その最中に、人間が怪獣の連係プレイを繰り広げるなど、怪獣と人間が同じステージで立体的な闘いを展開するのです。たとえば、

③ラドンの主神付きの少女がラドンに飛び乗って、同じくデスギドラに飛び乗った相手と空中戦。
④バラゴンの主神付きがバラゴンの頭に飛び乗り、「行けぇ~」と叫んでデスギドラに突進。

といった具合です。
 そんなわけで、今までにない完全なファンタジーとしてのゴジラ映画で、映像的にはそれなりに“怪獣映画”している『 怪獣神話伝説 ~モンスターズ ファンタジィ~ 』。民家?の破壊シーンはあってもビルの破壊シーンはなく、派手さにはもう一つ欠けるかも知れませんが、こんなゴジラ映画もたまには良いのでは? きっと、親子連れで楽しく観ることができると思います。どーですか、お客さん!

『子ぎつねヘレン』

『子ぎつねヘレン』
  2006年の映画館で観た映画:10本目
  映画を観た日:2006年4月8日(土)


 子ぎつねが可愛い。
 しかし、子ぎつねと少年が、本当に親しくなったようには見えない。犬を子犬の時期から飼った経験がある私は、どうしても
「あ~、まだ本当に懐いてはいないな~」
という目で見てしまい、素直に感情移入することができなかった。
 懐いていないように見えた原因は二つある。
 子ぎつねは短期間で成長してしまうので、撮影には8匹の子ぎつねが使われた。これでは、俳優が一匹の子ぎつねと触れ合う時間が少なくなり、子ぎつねも人間も慣れることが難しい。まずこれが1点。(ちなみに成犬の場合は2匹か3匹で済むので、それだけ慣れ・懐きやすくなる)
 もう1つは、ヘレンの設定上の制約によるもの。実は撮影時、子ぎつねが少年役の深澤嵐くんの後ろを付いて歩くというレベルまで懐いたそうだ。しかし、ヘレンの設定上、そういう絵を作品に使うことが基本的には出来ない(想像のシーンには使えるが)。
 こういった点を考慮すると、子ぎつねと少年の交流の描写は、決して完成度が低いわけではない。私の見方が不純なだけで、実際には善戦していると言うべきだろう。

 面白かったのは、キャスティングの妙。意図的なのか偶然なのかは分からないが、「似ている/似ていない」の関係が興味深いのだ。
 少年役の深澤嵐くんが、基本犬顔であるのは、まぁ当然として。
 【母・息子】、【父・娘】という血縁関係にある俳優同士が、全然似ていない。その反面、母役の松雪泰子さんと父役の大沢たかおさんは、兄妹という設定じゃないかと思える程、顔立ちが似ている。
 娘役の小林涼子さんと母役の松雪泰子さんとは設定上血縁関係はないのだが、すらりとした体型、特に脚が長いという点でキャラクターの類似性がある。また、娘役の小林涼子さんと息子役の深澤嵐くんは設定上血縁関係はないのだが、鼻が低めという点が似ている。
 つまり、設定上血縁関係にある俳優同士は全く似ておらず、血縁関係にない俳優同士は似ている部分が多い。設定とは逆なのだが、むしろこれが効果的だったと思う。
 何故なら、この物語は【母・息子】、【父・娘】という全く別々の二つの家族が一つに融合するという側面を持っているからである。映画という限られた時間軸の中でそれを描くには、個々の家族内に共通項がなく、互いの家族間に共通項があった方がスムーズに行なえるのだ。
 言い換えると、こうなる。【母・息子】、【父・娘】の家族は、どちらも映像的には不安定である。また、一方は【女親と男子の子供】、もう一方は【男親と女子の子供】という組み合わせは、構造的にも不安定である(どちらにも欠けている部分がある)。そのため、この二つの家族が合体した方が映像的にも構造的にも安定し、見ている側にも自然に映る(二つの家族の合体という結果に納得する)というわけだ。
 これは、一種の錯覚を利用した演出のように思えた。

 さて、ヘレンと言えば、思い出すのが 東劇のクレーンゲーム である。この映画を観たのはピカデリー2、ここにもあのクレーンゲームがあったらどうしようかと思っていたのだがそれはなく、代わりにヌイグルミが普通に販売されていた。
 映画の前売券よりも値段が高かったけど、つい買ってしまった…。

 それにしても、小林涼子さんは脚が長くてスタイルが良いと再確認。
 かおりん(飯田圭織)と姉妹という設定で、女性ヒーローを演じて欲しい。仮面ライダー姉妹とか! 女ライダーのダブル変身!!

『南極物語』

『南極物語』
  2006年の映画館で観た映画:9本目
  映画を観た日:2006年4月8日(土)


 犬好きの人にはお勧めできる映画。
 そうでない人には…微妙。何しろ、実質的な主人公は犬(ハスキーとアラスカン・マラミュート)なのだから。
 犬好きの私にとっては、美形のリーダー犬・マヤの匍匐全身を観られただけでも大枚(注※ 1000円札のこと)払った価値はあった。
 人間絡みのストーリーは捻りがなくて凡庸。犬に命を助けられた博士が、南極行きの費用を捻出する経緯や心理描写は不自然。私だったら、あの博士は大の犬嫌い(子供の頃に犬に噛まれた経験があるとかのトラウマ持ち)で、犬に命を助けられたことすら屈辱と感じているといった設定にする。

 『ライオンキング』や『アトランティス』の件を見る限り、ディズニーは日本のアニメ作品に対して全く敬意を払っていない。しかし、この映画に関しては、ちゃんと日本の『南極物語』のリメイクとして製作されている。物語が終了し、スタッフロールに入る前に主要な項目がクレジットされるのだが、その中に「NANKYOKU MONOGATARI」の文字がキッチリ確認できた。
 ディズニーは「日本のアニメなんか存在自体がディズニーのパクリだ」と考えているものの、実写映画に対してはそうではないということか? それとも、パクっても裁判を起こさないと足元を見ている相手(手塚アニメ、NHK、あと宮崎アニメも?)からはパクり、パクったら裁判になって面倒なことになると考えている相手からはパクらないということか?

 そういった下世話な話はともかく、この映画における犬たちの演技は素晴らしかった。
 この犬たちで、『動物のお医者さん』の犬橇レースのエピソードを実写化して欲しいものだ。

ホルヘ・リナレス VS サオヒン・シリタイコンドー

ダイナミックグローブ第375回
 ホルヘ・リナレス VS サオヒン・シリタイコンドー

  2006年の会場で観た試合:2回目
  観戦日:2006年4月1日(土)

 3月4日に新井田の防衛戦を観戦してから約1ヶ月、今年2回目となる後楽園ホールでのボクシング観戦。来月6日に開催されるイーグルの防衛戦のチケットは既に入手済みなので、何事もなければ3ヶ月連続でボクシングを生観戦することになる。
 ボクシングのチケット(リングサイド)は比較的高価であるし、私が現在住んでいるところは交通の便の悪いという事情もあって、毎月ボクシングを観に後楽園ホールへ足を運ぶのは経済的に不可能である。しかし、後楽園ホールで世界戦が行なわれる場合や、世界戦レベルのボクサーが出場する場合は、出来るだけ観に行きたいと思っている。

 4月1日は、世界戦レベルのボクサーである、ホルヘ・リナレスの試合を観るために水道橋を渡った。ホルヘ・リナレスは、WBA世界フェザー級3位、WBC同級4位。現時点、日本のジムに所属する世界戦レベルのボクサーという条件の中では、フェザー級は最も重いクラスであり、リナレスはその階級にいる。
 そのフェザー級のリミットよりも850g重い58kg契約の体重でリングに立ったリナレスは、
「その痩身のどこから、あと850g削り落とすと言うのだ?」
と思えるような、研ぎ澄まされた身体をしていた。相当な減量苦が想像されたが、10ラウンドをフルに戦ってもスタミナ切れに陥ることはなかった。それでも、「あと850g」は気になる数字ではある。

 試合は、リナレスがサオヒンをフルラウンドに渡ってアウトボックスし、明確な判定勝を収めた。ジャッジのスコアは98-93が二人、98-96が一人(ちなみに私はあえてサオヒン寄りに採点しての98-95)。素人目には常に前に出ていたサオヒンが有利に試合を進めていたように映ったかも知れないが、ボクシングの採点基準である有効打の質×量(特に質)においては、リナレスが勝っていた。

 後楽園ホールは、「全席がリングサイド」と言っても良いほど、観戦し易い会場である。視力が1.0あれば、おそらくリングから一番遠い席からでも、リング上のボクサーの表情をどうにか読み取ることが出来るだろう。
 新井田の防衛戦のときは、明らかに様子のおかしい(私は事前に予備知識を全く仕入れていなかったので、早いラウンドで拳か肩を痛めたのかと思っていた)新井田をリング上に観ているにもかかわらず、
「前に出ろ!」 「倒しに行け!」
など、一部の“目が節穴の観客”が素人丸出しの野次を飛ばし、非常に不愉快だった。
 しかし、今回のリナレスの試合ではそういったことはなく、試合に没頭することが出来た。

 リナレスは、ハンドスピードやパンチの伸びこそ前評判ほどではなかったものの、全体的な完成度の高いボクサーだった。名実共に“戴冠を期待される、世界のトップクラス”だ。
 リナレスの上体は、いつも自然に細かく動いている。そして、その状態のまま、ジャブが出る。これにより、攻撃面においては自らが放つパンチの初期動作を隠し、防御面においては相手のパンチの的を絞らせないという効果を生む。基本的なことではあるが、この動きを特に意識することなく自然に出来ているボクサーは決して多くない。
 フットワークも速く、接近して打ち合いたいであろう相手を捌き続ける。捌きながら要所でカウンターを的確に当て、ポイントをものにする。
 その結果、ラウンドが進むにつれてサオヒンの顔には打たれた形跡がハッキリと現れていくのだが、リナレスの顔は最後まで綺麗なままだった。まさに、絵に描いたようなアウトボクシングだった。

 試合の展開が、総合格闘技をイメージさせた点も興味深かった。
 まともにボクシングをしたら勝ち目がないと思ったのか、サオヒンは頭から突っ込むようにして主に左のストレートをリナレスのボディへ伸ばす。
 リナレスからすればバレバレの攻めであり、ステップバックやサイドステップで対応できる。
 結果的にサオヒンのストレートは「打ち込む」というよりも、「何とか届かせようとしている」という感じで、とてもじゃないがリナレスのボディに大きなダメージを与えられない。
 その様子はまるで、フットワークを駆使するボクサーを、組み技系の選手がタックルで捕まえようとしているかのようだった。
 ボクシングでは、ベルトライン以下のダッキングがルールで禁止されているため、自分の腰よりも低い姿勢で突っ込んでくる相手を迎撃する技術体系が存在しない(必要がない)。
 サオヒンは、そのルールのギリギリのところを狙うかのように、低い姿勢での突進を繰り返した。リナレスはそれに付き合うことなく、ボクシングの標準的な姿勢のままフットワークで捌き続けた。それはあたかも、ボクシングルール内での異種格闘技戦の様相を呈していた…と言ったら言い過ぎだろうか。

 今回、リナレスを擁する本田会長は「リナレスの最も苦手とするタイプである、タフな相手」として、サオヒンを対戦相手に選択したそうだ。プロボクサーは勝つことが最大の使命である。苦手なタイプの相手と無理に打ち合って危険を冒す必要はない。判定勝ちでもベルトは獲れるし、守ることも出来るのだ。チャンピオンになれば、指名挑戦者でない限り、苦手なタイプの相手を避け続けることが出来るのだから、尚更である。
 リナレスの今回の戦い方は、その意味で充分に評価できる。本人の口から「もっとカウンターを入れたかった」との反省の弁が出ていることも、好感が持てる。

 私が気になったことは、第一に「思っていたよりもパンチに伸びがなかった」こと。バッティングを警戒して踏み込みを浅めにしていたのか?
 第二に、バックステップが多く、サイドへの回り込みが比較的少なかったこと。最初からもっと回り込めていれば、それだけカウンターの機会も増えていただろう。
 第三に、サオヒンのレバーを打てなかったこと。サオヒンが右のガードを固め、べルトライン(ファールカップ)も高くしていたため、レバーを打ちにくかったということは理解できる。そのれでも、チャンスが全くなかったわけではない。タフなマヨルガを打ち倒したトリニダードのように、頭部を打たれ強いボクサーに対してはボディを攻めるというパターンも、今後は披露して欲しい。
 パンチが軽そうに見えるのは、フットワークを駆使するボクサーとしては致し方のないところだろう。また今回は、相手が打たれ強かった。こういう場合は無理に倒しに行くより、上下を打ち分けるなどの工夫を重ね、結果的に相手が倒れればそれで良いと思う。

 最後に、リナレスのスリップダウンについて。
 2ラウンドのスリップダウンは、サオヒンが右足でリナレスの左足に足払を仕掛ける形で転倒させたもの。
 7ラウンドのスリップダウンは、サオヒンが自分の左膝をリナレスの左膝にぶつけることで転倒させたもの。
 両方ともサオヒンがリナレスを転倒させているのだが、リナレスの反応も悪いと思う。つまり、相手の足が来そうな所に、自分の足を残しておくべきではないということだ。
 7ラウンドのスリップダウンは、パンチが当たっていないだから、どう見てもスリップダウンである。一方、2ラウンドのスリップダウンの際は、足払を受けて倒れるリナレスの顔に(クリーンヒットではないとは言え)サオヒンのグローブが当たっている。もし敵地で戦っているときにこういうスリップダウンがあった場合、レフリーがノックダウンと判定することがないとは言い切れないように思う(もちろん、あってはならない誤審だが)。
 もしかしたら、このことが今回の試合で一番気掛かりな点だったかも知れない。

【暖期メニュー】始めました

【暖期メニュー】始めました

 食堂のメニューの話ではナイ。
 『エヴァンゲリオン』がちょっとしたブームになっていた当時、今で言う“萌え系”のイメクラの広告に、大きな文字で
 「【綾波】始めました」
と書かれていた…という記事を読んだことがあるが、そういう話でもない。
 「【冷やし中華】始めました」
という告知がラーメン屋の軒先に出されるよりも一足お先に、私は筋力トレーニングのメニューを【暖期メニュー】に切り替えたのである。
 そんなことなら最初からそう書け、と思われる方もいるかも知れないが、夏に向けて体重増加を夢見る40歳独身男性の心理は、まるで乙女のように繊細で微妙なのだ(ここで背景に、そよ風が流れるお花畑をイメージして下さい………ご協力、ありがとうございました)。何となく分かっていただけるだろうか。

 さて、【暖期メニュー】である。期間は4月から10月まで。
 【寒期メニュー】(11月から3月まで)が、3分割で「低負荷・高回数」を基本としていたのに対し、【暖期メニュー】は4分割で「高負荷・低回数」を基本とする。
 また、【寒期メニュー】では怪我防止のため広背筋をトレーニング対象から外していたが、【暖期メニュー】では広背筋も鍛える。昨日、久しぶりにベントオーバー・ローイングを行なったので、今日は背中に「鍛えました感」が有り有り。次回からは、懸垂も併せて行なう予定。

 ベンチプレスに関しては、3月半ばから先行してやり方を変えている。
  20kg(シャフト除く)×10を1セット
  25kg(シャフト除く)×6を1セット 
  30kg(シャフト除く)×3を1セット 
  37.5kg(シャフト除く)×6を2セット
  30kg(シャフト除く)×7を1セット

 4月中には、30kgのところを35kgに、37.5kgのところを40kgにすることができると思う。それ以降は、1ヶ月に2.5kgづつ増やしていきたいところなのだが…。そうすれば、9月にはシャフトを合わせると60kgを挙げることが出来るようになる。しかし、この皮算用は自分でも相当甘いと思う。まぁ、飽くまでも目標ということで。

 ちなみに、現時点ではスクワットもベンチプレスと全く同じメニュー(セットも負荷も回数も)で行なっている。こっちの方は、「9月にはシャフトを合わせて60kg」を真剣に目指したい。
 レッグカールの方は、筋肉のバランスを取るといった気持ちで、まぁ程々に。

 腕は約2年間スーパーセット(二頭筋と三頭筋)を行なってきたが、結局二頭筋は全くと言ってよいほど大きくならなかった。よって今回の【暖期メニュー】ではスーパーセットを廃止し、会社の昼休みは二頭筋のみを鍛え、三頭筋は帰宅してから鍛えることにした。
 本日行なったダンベルカールのMAXは片方10kg(シャフト除く)×5。ハンマーカールはMAX片方7.5kg(シャフト除く)×5。もし6レップス確実に出来るようになったら負荷を1.25kg増やすというように、徹底した「低負荷・高回数」を試してみるつもり。

 アパートで、私の部屋の隣に住んでおられる一家の親父殿は、多分50代後半だと思われるのだが、筋肉質のイイ身体をされている。夏場になると、タンクトップ姿の親父殿と廊下ですれ違うこともあり、その姿がまたカッコイイのだ。
 50代後半に負けるな、40代前半(の私)!
 歳は40でも心は乙女!
 怪我だけはしないよう十分に注意して、【暖期メニュー】に取り組んでいきたい。

『サウンド・オブ・サンダー』

『サウンド・オブ・サンダー』
  2006年の映画館で観た映画:8本目
  映画を観た日:2006年4月1日(土)


 ブラッドベリの小説が原作とあらば、SFファンとして、劇場に足を運ばないわけにはいくまいて。そういった義理人情あるいはノルマ感覚で観た「外せない」映画だったのだが、作品の出来自体は「外れ」だった。
 とりあえず、現時点でのワースト1に挙げておこう。

 とにかく、映像のクオリティが低い。映画が始まって間もなく登場した恐竜のCGを観て、早々にガッカリさせられた。今どきの映画で、あんなゴムみたいな質感の恐竜はダメだろう(もっとも、あれと同じ映像が邦画に出てきたら「けっこう頑張っているな」という評価に変わってしまうのだが)。
 街の道路を走る車両のCGもクオリティが低く、一昔前のレベルだ。実写の人物のすぐ横を走っているシーンでは、もう合成丸出し。パッと見で「不自然」どころか「見苦しい」。
 何らかの演出意図があってCGのクオリティを低く押さえていたとは思えなかった。百歩譲って何らかの演出意図があったとしても、それは明らかに失敗している。

 原作になっているブラッドベリの短編は、いわゆるオチの付いたアイディアストーリーである。こういう短編小説を長編映画化する場合は、当然ながら原作に存在する部分を膨らませたり、原作には存在しないものを新たに付け足したりするわけだが、重要なのはそれをどういったコンセプトの元で行うかということだ。
 この映画の場合は、モンスター映画の部分を膨らませ、パニック映画の部分を追加しているのだが、どちらも「絵」を中心とした、いわゆる視覚効果映画としての作りになっている。一応、「歴史の変化は段階的に発生する」という映画オリジナルのイベントも展開されるのだが、内容は大雑把でありがちなものなのだ。それならば、「絵」の部分を強いインパクトと高いクオリティで描かなければならないのだが、それが出来ていない。
 恐竜や車のCGの出来が悪いことは既に述べた。それ以外の部分も、派手さがなく、インパクトに欠ける物のオンパレードである。都市部で樹木が異常に成長するというイベントがあるが、絵的に何の個性もない。40年前の日本の特撮TV『ウルトラQ』の「マンモスフラワー」の回を見習えと言いたい。
 ちなみに、この映画で唯一良く出来ていると思える部分は、「未来に変化を与えないように恐竜狩りのやり方を工夫している」点であるが、それは原作のアイディアをほぼ踏襲したものに過ぎない。

 ディックの短編小説を原作にした映画『トータル・リコール』(1990年製作)は、“超B級映画”路線で作られていた。“ウルトラチープ”と評された、ケレン味たっぷり(予算もたっぷり)に造り込まれた作品からは、個性的かつ独特の空気を感じることが出来た。「ありがちなようで、実は映画では観たことがない」映像が炸裂していたのだ。それも、ハッキリ言ってどうでもいいようなシチュエーションで。この映画は、良い意味でのバカ映画である。これより8年前に製作されたディック原作の映画『ブレードランナー』(1982年製作)の真逆を行くような出来栄えは、むしろ清々しいほどであった。
 これに対し、『サウンド・オブ・サンダー』では、どこかで見たことのある映像がどこかで見たことのあるタイミングで流れるだけ。そこには、驚きがない。全てが想定内なのだ。この手の映画をそれなりに観ている者としては、「せめて、もう一捻りしてくれよ」とぼやくことしきりである。

 例え同程度に陳腐であっても、 『イーオン・フラックス』 のように、古典的SF映画といった希少な趣向の作品なら、それなりに満足度も高くなる。
 この『サウンド・オブ・サンダー』も、今日ありふれた「モンスターを中心とした視覚効果」を売りにするのではなくて、歴史が変化してしまうことを緻密に描いたり、その原因を突き止める謎解きを中心にした論理展開を売りにするSF映画にするべきだったと思う。
 極端な話、「北京で蝶が羽ばたいたら、何故ニューヨークで嵐が起こったのか」を具体的に描くような展開だったら、どうだろう。容易には先を読めず、それなりに楽しめたのではないか。

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震電

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。