2005-11

『響鬼』は何故“マッタリした『牙狼』”になれなかったのか?

書く気のあるうちに『響鬼』を総括する 【その2】

『響鬼』は何故“マッタリした『牙狼』”になれなかったのか?

 商業的に失敗作であったならば、『響鬼』は2クールで番組打ち切りにするべきだった。TV番組も商品である以上、市場から評価されないのなら、途中退場もやむを得ない。
 実際には、『響鬼』は全50話程度が予定通り放映されるようだ。
 30話以降の『響鬼』が大方の視聴者に受け入れられたかどうかは、視聴率の推移を見れば分かる。30話以降、『響鬼』の視聴率はむしろ上がっているようだ。私も、29話までも30話以降も、総合的には同じくらい楽しんでいるクチだ。番組側は、賭けに勝ったのである。しかしその賭けは、負ける危険性も大いに孕んでいた。
 30話以降の『響鬼』が迷走し、視聴率がガタ落ちとなる危険性もあったのだ。『ネクサス』のように番組を打ち切り、次回作にバトンタッチすることが、リスクを最小限に抑えるベストな選択であったと今でも思う。

 30~38話(特に30~35話)までの『響鬼』のスタッフは、それこそ鬼のように頑張ったのではないかと思う。撮影期間を圧縮し、予算を切り詰め、何とか放映スケジュールに間に合わせているような印象が、画面の端々から感じられた。
 でももし、取替えのきかないスタッフが、過労で倒れていたら?
 もし、スケジュールの圧迫によって撮影の安全チェックに抜けが出て、大きな事故が起きていたら?
 スタッフも、『響鬼』という番組も、視聴者も、皆悲しみに包まれていたことだろう。
 ヒーロー番組は、視聴者に夢を提供するものである。突貫工事でトンネルを掘るような危険を冒してまで作って欲しくはない。もちろん、アクションあり、火薬ありのヒーロー番組製作には危険は付き物だ。しかし、どこかで一線を引かなければならない。
 30話以降の『響鬼』がその一線を越えていたのかどうかは分からない。今後、『響鬼』が悪しき前例とならないことを祈るばかりだ。

 さて、『響鬼』は子供向け番組であったが、大人の視点で見ても楽しめた。私にとっては、鬼と敵の戦いが、「狩り」または「漁」のフォーマットを持っていた点が面白かった。DAは猟犬で、鬼はハンター。「たちばな」の面々は、ハンターと猟犬の世話をする家族のようなものだ。魔化魍という獲物を狩ることで繋がりあっている彼らには、古き良き「村社会」の感覚も存在した。
 「魔化魍を退治する際のシーケンス」は、原則として

 童子達による人的被害発生。
 猛士の情報網がそのことを捉え、分析担当が魔化魍の種類を推定。
 魔化魍の種類、現場位置、鬼の勤務シフトを照らし合わせ、担当する鬼をおやっさんが決定。
 鬼特有の決め仕草を決めて鬼出動。切火で送り出される。
 鬼が現場に到着、DAを放って魔化魍を捜索。その間はベースキャンプで待機。
 DAが魔化魍を発見、帰還。
 鬼がその情報を取り出し、魔化魍のいる現場へ向かう。
 (これらの間、鬼と本部は要所で連絡を取り合う)

という一連の手順を踏んで描かれていた。一部が省略されることも多かったが、「行間を読む」といった感じで補完できる雰囲気は有していた。

 『響鬼』の面白さは、魔化魍との戦いという「結果」よりも、魔化魍を発見するまでの「過程」にあったと思っている。ヒーロードラマとしての『響鬼』の魅力は、この「魔化魍発見までの過程」の描写に拠るところが大きい。
 『謎の円盤UFO』というイギリスのSFドラマもそうだった。シャドーの警戒網がUFOをキャッチし、インターセプターやスカイ1が発進して、UFOと遭敵するまでの「過程」が見せ場だった。そこには、組織と個人が一体となって流れるように動くシーケンスの美学があった。UFOと戦闘機の戦闘シーンは、過程の最後を締めくくる打ち上げ花火のようなものだ。

 ヒビキと明日夢の師弟関係その他の人間ドラマに、注目すべき点は確かにあった。しかし、明日夢の日常を中心としたマッタリした展開は退屈で、ヒーロードラマとしては面白くなかった。「高校生日記」なら、他所でやってくれよという感じである。
 「魔化魍を退治する際のシーケンス」自体は、それなりにテンポが良く、この部分がマッタリしていたとは思わない。あれが2回に1回は「収穫なし」で終わっていたなら、マッタリした展開といわれても仕方がないが、実際にはそんなことはなかった。

 私は総体としての『響鬼』に関しては、 『響鬼』は失敗作である(駄作ではない) に書いた通り、失敗作だと断定している。
 『仮面ライダー響鬼』は「完全新生」という謳い文句とセットで語られることも多いが、言葉通りに受け止めるのなら、それは矛盾したコンセプトである。シリーズものを「完全新生」するということは、別の作品にするということであり、全く別物となった作品に、シリーズの最新作を名乗る資格などない。『響鬼』が本当に「完全新生」を目指したものであるならば、「仮面ライダー」シリーズではない、全く別の新作品として世に問うべきであった。
 また、作品が「完全新生」を謳っていながら、作品を商業的に支えるバックボーンであるメインスポンサーや主力商品の展開、および番組の放送時間枠は、従来と何ら変わらない旧態依然としたものであった。これも、大いに矛盾していた。
 大人をコアターゲットにしたドラマを作るのなら、子供向け玩具を主力商品にするなど、愚の骨頂である。
 大人をコアターゲットにした番組を、戦隊ものとセットにして『スーパーヒーロータイム』と称される枠で流すなど、場違いも甚だしい。

 TVの仮面ライダーは、子供のものである。私は子供の頃、TVで仮面ライダーを観て楽しんだ。今の子供にも、TVで仮面ライダーを観て楽しんで欲しい。身近で毎週観ることの出来る、TVの仮面ライダーは、子供のことを最優先して作られるべきだと思う。
 毎年、大勢の3~4歳児が特撮ファンになる一方で、それと同じくらいの数の6~8歳の児童が特撮を卒業していく。しかし、彼らのうちほんのごく一部が、大人になったある日、再び特撮に戻ってくる。また、そうでない大人も、自分の子供が特撮番組を観るようになると、一緒に観るようになるし、玩具も買い与えるようになる。
 このサイクルで、特撮ファンは今まで世代を繋いできたのだ。

 私も昭和ライダーシリーズと昭和ゴジラシリーズの終焉によって自然に特撮を卒業し、一生懸命集めたカードの類もどこかへ消えてしまった。その後、偶然『ギャバン』と遭遇してから再び特撮番組をチラチラ観るようになったが、これは子供の頃に特撮を観ていたからこそである。現在の子供向け番組としての『仮面ライダー』を否定することは、過去の自分を否定することであり、結局は現在の自分を否定することである。そんなことは出来ないし、やりたいとも思わない。

 もちろん、大人をコアターゲットにした仮面ライダー作品があっても良いと思う。
 それこそ、月9でも火9でも水9でも良いから、やって欲しい。スカパーやWOWOWなどの有料放送でも良い。Vシネマでも映画でも良い。もちろん、『牙狼』のような深夜番組枠でも良い。
 『響鬼』は、何故『牙狼』のような番組スタイルを選ばなかったのか?
 確かに予算的には規模が小さくなるかも知れない。それでも、「ヒビキと明日夢の物語」は貫けるだろう。
 本当にやりたいことがあるならば、それに相応しい場所でやるべきだ。
 そういう意味でも、『響鬼』は失敗作だった。
 二度と、こんな失敗が繰り返されませんように…
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『仮面ライダー響鬼』は失敗作である(駄作ではない)

書く気のあるうちに『響鬼』を総括する 【その1】

 『仮面ライダー響鬼』は失敗作である(駄作ではない)

 『響鬼』は、普通の失敗作である。
 1号からV3のライダーブームをリアルタイムで経験し、『ガンダム(1作目)』をリアルタイムで観た世代として、書き記しておきたい。『響鬼』は、「ムーブメント」とか「エポックメイキング」という言葉とは無縁の、ごく普通の失敗作に過ぎない。
 言うなれば、『響鬼』は「失敗した『平成版の仮面ライダーアマゾン』」なのだ。
(『仮面ライダーアマゾン』自体が成功作なのかどうかは微妙な感じがするが、ここでは触れない。『響鬼』と『アマゾン』の共通点に関しては こちら

 チーフプロデューサーが番組途中で更迭されたのは異例なことかも知れないが、それは失敗作を語る上での単なるオマケだ。『響鬼』は人気が低くて玩具の売れ行きも悪かったから、途中でテコ入れが入って路線変更が試みられた。そう考えれば、異例でも何でもない。人気が低迷している番組が、放送途中で路線を変更して人気上昇を図ったり、場合によっては番組終了時期が早まったりする(打ち切りになる)のは、むしろ自然な成り行きである。

 では、「テコ入れ原因を作った29話までの『響鬼』」の犯した失敗とは、何だったのか?
 29話までの『響鬼』の視聴率は、前作『剣』より少し低いものの、極端に悪かったわけではなかったようだ。にもかかわらず、主力玩具の売り上げが問題視されるほど悪かったとすると、『響鬼』の失敗=商品展開の失敗だったとも映る。
 ただし、『響鬼』の商業的失敗の原因を解明する! でも触れたように、商業的失敗は必ずしも作品的失敗と無関係ではない。『響鬼』の場合、むしろ切り離せない関係にある。ここでは、その辺りを中心に考察してみる。

『響鬼』の作品的失敗その1 … ライダーと敵との「攻防」が不足

 そもそも、『仮面ライダー』と『ウルトラマン』は、どの点において差別化がなされているのか?
 『仮面ライダー』の特徴は、ライダーも敵も「異形ではあるが人である」こと。これが、『ウルトラマン』や『ゴジラ』などのいわゆる怪獣モノとは決定的に異なる点である。『ウルトラマン』や『ゴジラ』の魅力が「人ではない者同士の闘い」を売りにしていることの真逆に、『仮面ライダー』の魅力があると私は思っている。
 「異形ではあるが人である」者同士の闘いには、攻防のバリエーションを多く持たせることが出来る。異形であるとはいえ、基本的には人と人である。素手での攻防、一方のみが武器を使った攻防、双方が武器を使った攻防。
 素手の攻防でも、パンチ、キック、投げ、ジャンプといった選択肢を双方が自由に組み合わせられるという選択肢の豊かさがある。

 これに対し、『響鬼』はではどうだったか。
 「鬼と巨大な魔化魍のバトル」は、言葉を変えれば「ライダーと怪獣のバトル」である。
 ライダーは実写で、怪獣はCG。ちょっと考えただけでも問題山積みである。
 で、出来上がったものは、大きな蜘蛛に跨ってドンドコやって「害獣駆除」一丁あがり!みたいなバトルである。そこには、攻防といったものがほとんど存在しない。
 何しろ、鬼と魔化魍のサイズが違いすぎる。人対人なら、パンチ一つとってもストレートだったりアッパーだったり、顔面を狙ったりボディを狙ったりとバリエーションが出せるが、巨大な魔化魍にはそんな当たり前のことすら出来ない。デカイ蟹が大きなハサミを振り回したら、鬼の全身を殴って吹き飛ばすことになるだけである。
 だからと言って、巨大な魔化魍がライダーとチマチマと細かい攻防をしたところで、かえって不自然となる。例えばデカイ蜘蛛に高い知能があったとしても、糸を出して絡め取ってから仕留めるのが最も効果的な攻撃ではないか。その糸を使った攻め方に高い作戦性を持たせるという描き方も考えられるが、そんなきめ細かいことをやるのだったら、そもそも蜘蛛が巨大である必要性はない。

 人間と巨大な怪物の間で、攻防と呼べる駆け引きが展開された作品もある。例えば、『ジョーズ』や『トレマーズ』がそれだ。
 端的に言って、『ジョーズ』における「攻防」は、鮫が水面下で活動する生物だから成り立っている(『トレマーズ』も基本的には同じ)。ちなみに『ジョーズ』のパターンはイッタンモメン、『トレマーズ』のパターンはオオナマズのときに使われた。両者とも、巨大魔化魍が相手のバトルでは珍しく「攻防」が描かれていたが、イッタンモメンの場合はいたってシンプルな内容であった。オオナマズの場合は、等身大(胃袋)のバトルが絡められていたから攻防になったと言える。
 そもそも、『ジョーズ』のパターンを、そう何度も使い回すわけにはいかない。結果的に、巨大な魔化魍と鬼の戦闘シーンは、全体的には非常に単調なものとなった。
 また、TV特撮ゆえ、予算も時間も限られている。出来上がった作品を見ると、CGの魔化魍は単体でも実写の鬼との合成でも、画像的なクオリティを保つのが難しそうだった。

 本来の仮面ライダーにおけるバトルとは、どういうものなのか。
 合体魔化魍の回を思い出してもらいたい。轟鬼と姫との攻防は素晴らしかった。
 「相手がこう攻めてきたら、自分はこう切り返す」、「相手にこう切り返されたら、自分はこう受ける」といった、攻防・攻守がキチンと描かれており、その節目節目で「決めポーズ」と呼べるほどカッコ良く身構えた姿が映し出されていた。
 あれと同じことが、シリーズ1作目である『仮面ライダー』でも行なわれていた。だから、子供に人気が出たのである。仮面ライダーが戦うシーンは、テンポ良く、流れがあり、バリエーションがあり、敵味方の間で同一条件下の攻防が成り立っているからこそ、アクションとしてカッコ良く映るのだ。

 『響鬼』開始から数話は、童子&姫を相手にした等身大バトルでは力の差が有り過ぎて一方的な展開になっていた。そして、巨大な魔化魍を相手にしたバトルは「障害物を排除→音撃」といった、戦いというよりは「一連の作業」のようなパターンで描かれていた。
 要するに、『響鬼』が面白いのは「戦いが始まるまで」で、いざ戦いが始まると面白くなくなるのだ。これでは、「戦いが始まってから」使われるアイテムを玩具化しても、売れ行きが悪いのは当然である。主に「戦いが始まるまで」に使われるDAの玩具が売れたのも、道理である。(玩具に関する問題点に関しては、 『響鬼』の商業的失敗の原因を解明する! でも書いているので、ここでは繰り返さない)
 主力玩具は、初動勝負の性格の強い商品であると思われる。『響鬼』開始から数話が犯した失敗は致命的であり、この時点で『響鬼』の初代プロデューサーの命運は尽きていたのではないか。

 夏の魔化魍が等身大であるとか、太鼓でしか倒せないという設定は、玩具の太鼓の売れ行き不振を受けた、事実上のテコ入れ・路線変更だったと思われる。
 太鼓の使い手である響鬼が剣を使うようになったと思いきや、その剣が商品化されなかった(後の装甲声刃に繋げる目論見があったのかもしれないが、コンセプトがかなり異なっている)ことからも、作品の迷走・破綻の一端が感じられる。
 「ライダーと敵との攻防が不足」という欠点は、強化された童子や等身大魔化魍の登場によって改善されていくのだが、巨大な魔化魍が登場する際には必ず露呈してしまう構造的問題であることに変わりはない。これは本当に大きな失敗であった。

『響鬼』の作品的失敗その2 … 主役キャラクターが「分裂」してしまっている

 ザンキの人気が高く、鬼を引退した後もけっこう出番があったのは、ある意味『響鬼』の失敗を象徴している。明日夢が普通にヒビキに弟子入りしていれば、ザンキ&トドロキの師弟エピソードも含め、ザンキがここまで描写されることはなかった筈である。

 「あきらを別の所に預ける」というエピソードも、本来の預け先は、ヒビキ&明日夢の師弟コンビでなければならなかったのだ。ヒビキと明日夢が明確な師弟関係を築いていないから、物語のメインとなる(鬼の核心に関わる)エピソードが二人の主人公から逸れ、脇へ脇へと流れて行ってしまう。
 物語に本来存在するはずの、イベントを半ば自然に(必然的に)引き寄せる力場、流れ、渦の中心といったものが『響鬼』にはない。作品全体としては芯が弱い(作品に求心力が働いていない)のだ。『響鬼』を定点的に見ると、「弱い芯(主役)を、補強材(サブキャラ)で支えている」という状況が多いのは、このことの裏返しである。

 『響鬼』のドラマ的な失敗は、「本来2人であったはずの主役キャラが4人に分裂してしまっている」という点に集約されると思う。
 「現在のヒビキとザンキが一緒になったキャラ」が、主役であるべきだったのだ。
 「現在の明日夢とトドロキが一緒になったキャラ」が、主人公であるべきだったのだ。

 ヒビキの「師匠キャラ」がしっかりしたものであれば、ザンキの「師匠」ドラマは割愛できる。
 明日夢の「弟子キャラ」がしっかりしたものであれば、トドロキの「弟子」ドラマは割愛できる。桐矢に至っては、存在自体が不要となる。

 トドロキが設定年齢よりも遥かに子供っぽい思考・感情・行動をとるのは、明日夢にそうした部分が欠けているからである。『響鬼』の主たる視聴者は子供であるので、彼らと同じ視点、同じ気持ちで動くキャラが必要なのだ。
 『響鬼』の登場人物は、基本的には全員「極端な特徴をもつキャラ」で、子供にも分かりやすくはなっている。その中でも、子供が特に感情移入できる「子供代表」的なキャラクターが最低一人は必要なのだが、その役割をトドロキが担わされている。戦いの場に出て来られない明日夢は、主人公であるにもかかわらず、実質的な出番はトドロキよりも少ない。そうなると、その代わりにトドロキが子供のように振舞うしかないのである。
 「近寄りがたいくらいのカッコ良さ」を有するキャラではなく、子供からも「それじゃダメだよ」と言える程度の隙があり、なおかつ決めるときはカッコ良く決めるキャラ。親近感と憧れの両方を抱ける存在として、トドロキのポジションこそ、主人公を務めるに相応しい。
 明日夢には、親近感は感じても、憧れは抱きにくい。仮面ライダーたちと直に会うことが出来るという明日夢の「立場」や、仮面ライダーたちに可愛がってもらえるという「境遇」には憧れるが、明日夢自身には憧れを感じる要素が少ない。このアンバランス故に、京介の「君みたいな奴がヒビキさんと親しいなんて…」にすら頷いてしまう部分がある。桐矢に対するヒビキの台詞に
「そんなんで務まるのか、鬼が」というものがあったが、29話までの明日夢に関しては
「そんなんで務まるのか、子供番組の主人公が」と感じることが多かった。

 『響鬼』というドラマは、どこで「ボタンの掛け違え」を犯してしまったのだろうか?
 明日夢が盲腸で入院したエピソードが、ほとんど意義のないものに終わってしまったところからだと私は思う。あそこから、『響鬼』のドラマは失敗の方向へと大きく踏み外していったのだ。

 私は、14話を見た段階で、明日夢はヒビキではなくザンキの弟子になるのでは?と思った。ヒビキ役の細川さんのスケジュールが厳しいことから、明日夢にウェートを乗せた物語にせざるを得ないように思えたのだ。
 明日夢はドジで弱っちいキャラではあるものの、高校合格の報告をするためにコンパス片手に山に踏み込むなど、後先を考えない決断と行動力を発揮するキャラでもあった。そんな明日夢が、入院中にお見舞いに来た(ヒビキの手紙を預かってきたとかで)ザンキ&トドロキから、表向きはオリエンテーリングのNPOである猛士に関する説明を受けたり、魔化魍の被害者(同じ病院に入院中)と話をすることで、猛士のメンバーになる決意をしたとしても不自然ではない。警察官であったトドロキが鬼になることを決意した経緯を、明日夢が聞くというエピソードでも良い。

 このように、猛士が表向きはオリエンテーリングのNPOであるという設定も絡めて、15話で明日夢が「今はまだ鬼になる覚悟がないから、まずは猛士に入り、ヒビキさんたちの手伝いをしながら自分を鍛える」という選択をしていたら、どうだろう。『響鬼』というドラマに、やたら子供っぽいトドロキや、明日夢の当て馬のような桐矢というキャラは登場しないで済んだのではないだろうか。
 2クール目を使って、猛士の活動を通して少しずつ鍛えられていくに明日夢の姿を描き、タイトルは『響鬼』だが、実態は「明日夢を中心にした鬼たちの物語(ヒビキはその鬼の一人で、明日夢の目標)」という形を取る。明日夢がヒビキに弟子入りする日が、着々と近づいている…そうしたドラマが展開されていれば、番組途中でプロデューサーが更迭されることもなかったかもしれない。

 明日夢がお年寄りの手を握って励ますのも、確かに素晴らしいことだ。しかし、それをメインにすることは、『響鬼』を支えているチビッコ視聴者が求めていることとは、明らかにズレている。
 子供が見たいのは、「普通の高校生」の小さな親切ではなく、ヒーローを目指して成長していく「少年戦士」のカッコ良さなのだ。「お年寄りの手を握って励ます」という行為が、ヒビキに弟子入りするために鍛えている過程で自然に出来たこととして描かれていれば、明日夢も「小さなヒーロー」として子供達に認知されていたのではないか。繰り返すが、この時間帯にTVの前にいる子供たちが観たいのは、「普通の高校生の、普通の日常」ではないのだ。

 思えば私も、明日夢が音角をいじったときには何らかのイベントが起こって欲しかったし、明日夢が入院したときには彼の身体に「普通ではない何か」が起こっていて欲しかった。「仮面ライダーと友達になった少年」あるいは「仮面ライダーの仲間になった少年」には、特別な何かがあって欲しかったのだ。特別なことをやって欲しかったし、出来ないまでも、挑んで欲しかった。
 「チビッコの期待することをやる」、これがヒーロー番組に登場するキャラの存在意義である。音角で変身しようとして失敗→気絶するなど、本来ドジな明日夢にうってつけのエピソードではないか。何故、あの時点でやらなかったのだろうか。
 または、魔化魍は普通の人には見えないのに明日夢には見えるとか、音角の音は普通の人には聞こえないのに明日夢には聞こえるとか、そういう「受動的な特別さ」でも良い。TVを観ている子供には、当然劇中の魔化魍が見えたり音角の音が聞こえたりするわけだが、このこと自体が「普通の人には出来ない特別なこと」であるという演出をすれば、ドラマの中の「特別な少年」である明日夢に自分を重ねることが出来たと思う。共感や感情移入というのは、何かを共有するところから始まるのだ。

『響鬼』の作品的失敗その3 … 物語が二つに「分裂」してしまっている

 『クライシス2050』という映画があった。駄作もここに極まれりという程の大駄作であり、ネット上の映画評でも、この映画に100点満点で10点以上を付けている人を見たことがない。29話までの『響鬼』には、この駄作映画と同じ傾向があった。
 仮面ライダーという30分枠番組で、「仮面ライダーの活動とは一線を画した立場の少年」を主人公にし、その成長を描くこうとしていたから、物語が二つに「分裂」してしまっていたのだ。

 「高校生日記」的な展開と鬼の活動をシンクロさせる手法には、一定の効果があった(ただし単なるシンクロは、しょせん映像遊びのレベル)。しかし、ナイーブな少年の高校生活と、人の命が懸かった厳しい戦場では、当然ながら全てにおいて基準となるレベルが違う。このため、高校生活と戦場を比較対象にすることには、すぐに行き詰まってしまった。
 こうなると、一つの作品の中に、基本的には全然交わらない別々の話が、同時に進行することになる。これこそ、『クライシス2050』という映画そのものである。私は『クライシス2050』を劇場で観たのだが、
「全然関係ない2つの話を同時進行させるなら、スクリーンを左右2分割して別々に流せ!」
と怒鳴りたくなった。29話までの『響鬼』にも、それに近い部分があった。前項「その2」で述べたように、主役キャラクターが「分裂」してしまっているのだから、物語も「分裂」傾向になるのは当然の成り行きではある。

 明日夢は、弟子を目指すわけでもなく、ブラバンに燃えているわけでもない。一体何を鍛えているのか分からない。明日夢自身が一貫したテーマを持っておらず、言うなれば「ガンダムに乗らないアムロ」になってしまっていた。
 「ドラえもんと余り会えないのび太」がイジメられっ子でもないとすると、毎回ドラマティックな展開に直面するというのが難しい。30話から桐矢が登場したのは、この構造的欠点を補うためでもある。身近にいる誰かが明日夢をイジらないと、ストーリーを回し辛いのだ。
 
 「高校生日記」に収まらない「悪意・暴力」をテーマにしたとき、ヒビキと明日夢が本当の師弟のように行動を共にしたとき、ドラマの完成度が高まった。このことは、『響鬼』の持つ構造的問題を如実に示している。裏を返せば、そういった場合を除くと、明日夢がいなくても『響鬼』の物語は普通に成立してしまう。設定はそのままで、モッチーと明日夢の登場頻度が入れ替われば、主人公はモッチーのように見えるだろう。立場的には脇役である明日夢を、主人公のように描くという方式自体に、そもそも無理があったのだ(子供向けヒーロー番組としては。ヒーローが付属品的に登場する「高校生日記」なら、話は別)。

 29話までの『響鬼』が「マッタリしていた」と良い意味で書かれているのを目にすることがあるが、私はそうは思わない。
 「マッタリしていた」などというのは、「ハラハラ、ドキドキ、ワクワクがなかった」ということに他ならず、ヒーロードラマとして失敗している証拠である。『スーパーヒーロータイムの仮面ライダー』は、ひなびた年寄り向けの番組ではないのだ。
 明日夢がいなくても『響鬼』の物語が普通に成立してしまうということは、明日夢は無駄ということである。『クライシス2050』でもそうだったが、無駄なシーンがダラダラ続けば、観ている方は大人の場合はイライラしてくるし、子供の場合は集中力がなくなってくるのが普通だ。『響鬼』の人気低迷を考察する からも、コアターゲット層が「マッタリした日常を描いたドラマ」を歓迎していなかったことは明らかである。
 ヒーロードラマを求めている層に、単なる「高校生日記」と化した『仮面ライダー』が不人気となるのは、当然なのだ。

 私にとって、29話までの『響鬼』で面白いと思える部分は、「ヒビキと明日夢の物語」とは別のところにある。ザンキとトドロキの師弟エピソードや、イブキと香須実のエピソードが面白いのだ。『響鬼』がオムニバス作品として「分裂」した状態で楽しんでいるのであり、連続した物語として楽しんでいるわけではない。
 あるいは『響鬼』が「ヒビキと明日夢の物語」というのは建前で、実は最初から「主人公は傍観者」・「主役は時々いなくなる」という前提で、オムニバス作品となるよう計画的にデザインされた企画だったのだろうか? そんな風にも思えてしまう。
 過去の平成ライダーとは異なり、ドラマの初期に「物語の明確なゴール」を提示(暗示含む)しておかなかったということも、物語の「分裂感」を強めている要因の一つだ。結果的に「オムニバス形式」を円滑にしているとも言えるのだが、これは、偶然なのか、必然なのか…。
 いずれにせよ、主役キャラクターの「分裂」によって物語も「分裂」傾向になっていたことは事実。1年を通じて放映される作品であることを考えれば、これも大きな失敗点であった。
 また、魔化魍を巨大にしたことで、市街地をバトルフィールドにすることが困難となった。これによって、鬼の活動と明日夢の日常(視聴者の日常でもある)が隔てられ、物語の「分裂」に拍車をかけていた。まさに失敗の相乗効果である。

『響鬼』の作品的失敗その4 … 猛士という組織を生かせていない

 『響鬼』に登場する猛士や鬼の設定には、中途半端なリアリティしか感じられない。劇中に登場する「たちばな」という店自体にはリアリティがあるが、それが猛士という全国組織の一部であるというリアリティがないのだ。このことは、『クウガ』を引き合いに出すと分りやすい。『クウガ』には「ポレポレ」という店が登場しているが、『響鬼』の「たちばな」のリアリティは、それと基本的には同質・同程度なのである。

 クウガの乗る特殊なバイクが、「ポレポレ」の背後に存在する大きな組織から提供されたものであったら、視聴者の目にはどう映っただろうか。「ポレポレ」とバイクを結び付けるものを最初から描き込んでいない限り、リアリティを感じないだろう。実際の劇中では、クウガの乗る特殊なバイクは警察から提供されている。だからデザインはともかく、その存在や提供の経緯には説得力があった。
 バイクだけではない。『クウガ』というヒーロードラマのリアリティは、警察という実在する全国組織を背後に持ってきたことで成立している。「ポレポレ」という店の描写は、「ヒーローの生活感」という部分のリアリティを分担しているに過ぎない。ヒーローをバックアップする組織として警察を登場させ、それ自体を舞台として描き込むことで、「ヒーローの存在感」というより重要な部分のリアリティを生み出していたのだ。

 『響鬼』では、鬼のシフト表が出てきたので「これはリアルだ」と思ったら、主人公のヒビキは特別遊撃班となってシフトとは無関係になってしまった。これでは、彼が「組織」の一員であるというリアリティを感じられない。主人公が組織から浮いてしまえば、彼の振る舞いを通して組織のリアリティを垣間見るというシーンもなくなってしまう。
 組織を背後にしたヒーローであるにもかかわらず、いつまでたってもキャラクターという「点」しか描かれず、「点」同士を結ぶ「線(または面)」といった組織の存在感が見えてこなかったのは残念であった。

 表向きはオリエンテーリングのNPOであるという猛士の設定も、全くと言ってよいほど生かされていなかった。本来この設定は、猛士という組織が明日夢という主人公の受け皿として機能するために活用されるべきだった。
 主人公が「子供の世界=学校」という日常から「大人の世界=猛士」へ踏み込むことで、年齢こそ違えど、同じく「幼稚園または小学校」という「子供の世界」にいるチビッコの視聴者を、「大人の世界=猛士」へと誘うことができた筈なのだ。
 謎の組織・猛士。その一員になった明日夢が、その謎の組織に足を踏み入れ、少しずつ秘密を明らかにしていくというノリである。子供という者は、「秘密基地」が大好きなのだ。私が子供の頃は、その辺から廃材やらダンボールを集めて、山の中(と言うより宅地付近の雑木林の中)に自分達だけの「秘密基地」を作り、そこへ『テレビマガジン』等の子供雑誌を密かに持ち込んで、ちょっとした非日常気分に浸っていた。これは基本的には全国共通の現象であり、今の子供達にもそうした欲求はあると思う。

 「謎の組織に潜入!」というノリは、大人向けの番組でも見られる。子供も大人も楽しめるシチュエーションだ。近所のコンビニの店長が実は猛士の一員で…とか、オリエンテーリングに参加した先の施設が実は猛士の…とか、描き方はいろいろあるだろう。
 「たちばな」以外の場所で猛士の会合が行なわれ、そこに少年としては唯一人明日夢が参加し、ダンキや他の鬼に出会うというシーンも面白い。子供が「大人の会合」に特別に出席を許されるというのは、子供にとっては怖いような、それでも行ってみたいような、ドキドキワクワクのイベント感覚があると思う。
 最終的には、猛士が警察やマスコミとも裏で深く関わっているというところまで描写すれば、ヒーロードラマのリアリティとしては合格だろう。

『響鬼』の作品的失敗と今後

 このように、『響鬼』は作品的に幾つもの失敗を重ねている。しかし、それらは裏に成功の可能性を秘めた失敗だった。『響鬼』は単なる駄作ではないのだ。これまでの項で既に結論は出ているが、『響鬼』の成功作としての姿は、以下のようになる。

その1…魔化魍を最初から等身大に限定して、鬼との攻防を充分に描く。
その2…15話で明日夢が猛士入りし、28話あたりでヒビキの弟子になる。
その3…明日夢の日常よりも、明日夢の猛士としての活動を重点的に描く。
その4…明日夢の活動を通して、「謎の組織としての猛士」の秘密が徐々に明らかになっていく。

 このような『響鬼』であったなら、少なくとも作品的には成功し、『剣』と同程度の人気は維持できたと思う。(主力商品の太鼓が売れたかどうかは、また別の話。買った私の印象では、余りにも「なりきり度」が低くてどうにもならないような気もする)

 「ジュヴナイルとしての仮面ライダー」というコンセプト自体は、決して悪くない。是非このコンセプトに再挑戦し、そのときには成功させて欲しいものである。

『仮面ライダー響鬼』 四十一之巻

『仮面ライダー響鬼』 四十一之巻

【 観る前に思ったこと 】

 着替えの準備をしないで変身してしまったあきら。変身解除後は、イブキのシャツを借りるしかない? 男性のシャツ(一回り大きいサイズ)を着た美少女の姿を、日曜の朝から拝むことが出来るのか?!

【四十一之巻の感想 】

 修行半ばで変身したあきらは、完全な変身は出来なかった模様。上半身のアーマーが無いようだ。師匠を間一髪で救ったものの、魔化魍から一撃を喰らって全身変身解除。
 あきら変身体の顔だけ変身解除は、絵的に問題があると思っていたので、この流れは良かったと思う。あきら変身体の顔とかがちゃんと映らなかったのは少し残念だが、ベルトのDAは変身前と同じ分量あるように見えた。今回であきらが弟子を辞めるという経緯もあり、あきら変身体の映像を上手く処理したな、という印象を受けた。

 香須実とデートしている際、イブキが烈風を携帯していないのは不自然。オオナマズの件があったのだから、あれ以来はオフのときでも持ち歩いていないとおかしい。「あきらの最後のサポート」は、威吹鬼が交戦中に烈風を弾き飛ばされてしまうことで描ける。

 コダマの森とオロチとの間の因果関係は、単なる前兆ということで処理されてしまったようだ。ツタに蛇のイメージがあったので、何か一ひねりあるかと思っていた。肩透かしを食らった感じだが、次回からの仕切り直しに期待したい。

 弟子を取るか取らないかでヒビキがこだわっていたのは、鬼の本分が「人助け」であることを本当に解っているのかということだった。これは、朱鬼のエピソードから繋がっていることであり、整合性が取れていた。
 ヒビキが明日夢と京介に、自分の決め仕草をやらせるシーンは面白かった。特に意味が無いといえばそうなのだが、子供が真似したくなる描写というのは絶対に必要である。HDRで見直したとき、私も思わず真似してしまった。京介が「にょっ」と言ってしまい、ヒビキがムキになってダメ出しするところも可笑しい。

 前回に引き続き、ツタの動きがチャチではないことには感心する。『ゴジラvsビオランテ』のときは、いかにも「吊ってます」というのが見え見え(操演丸出し)で不自然だったが、コダマの森では、それがない。まぁ、操演ではないから吊っているように見えないだけかも知れないが、結果として出来た絵がより自然なものになっていればそれで良い。

 あきらの問題も一件落着。もう少し葛藤するあきらの内面をダイレクトに描いて欲しかった。結局、悩んでいるあきらは、ずーっと黙っていただけ。明日夢と京介に、自分がイブキに弟子入りした経緯を話すとか、朱鬼のことを思い出すシーンがあっても良かったのではないか。
 ただし、その分、あきらが鬼になる道を諦めるという結果に驚かされたことも確か。入れ替わりにヒビキへと弟子入りする明日夢と京介のめでたい空気に水を差すことも無く、明るい雰囲気で終わったことは、あきらというキャラクターにとって救いだったような気もする。

【小学一年生の心で学び直したこと】

 横断歩道を渡るときは気をつけよう。私の住んでいる町では、横断歩道の信号が青になっていても、それを無視して突っ込んでくる車は決して珍しくない。
 桐矢が子供を助けるシーンで「有り得ない」と思った人がいるかも知れないが、ああいう運転をするドライバーは実在する。こっちは青信号の横断歩道を渡っているのに、本当に全く減速しないで突っ込んで来るんだもんな。真昼間に、見通しのいい交差点で。死ぬかと思ったわ。

【 次回予告を観て思ったこと 】

 頑丈なことでは定評のあるトドロキが大怪我? 人柱ならぬ鬼柱にされたのか?
 うさぎ跳びは、膝に悪いからやってはいけません!

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 『響鬼』に関して以下の記事を書きましたので、こちらも読んでいただけたら幸いです。

11/18 up 『アマゾン』と『響鬼』
10/30 up 鬼の顔だけ変身解除リアル版 その2
10/30 up あきらも明日夢も京介も変身だぁ!
10/25 up あきらが鬼に変身する過程の想像図
10/23 up 朱鬼の「女の鬼」としてのデザインに不満あり!
10/19 up 最終回までに桐矢京介にやって欲しい10のこと
10/11 up 空想検討「『響鬼』の理想の最終章をファンドで映画化しよう!」
10/4 up 『響鬼』の製作体制変更に関してのまとめ
9/27 up 桐矢京介のモデルはブロガー(アンチ新体制派)だ!
9/17 up もしも『響鬼』が有料番組になったら、金を払ってでも見るか?
9/11 up こんな『響鬼』だったら玩具が売れた!??
9/8 up 『響鬼』の人気低迷を考察する
9/9 up 『響鬼』の商業的失敗の原因を解明する!
9/9 up 『響鬼』の製作体制変更に関する疑問
9/3 up 『仮面ライダー響鬼と七人の戦鬼』
8/20 up ザンキ・スペシャル “元”鬼の裏技「隠し鬼爪」
8/15 up 鬼の「顔だけ変身解除」リアル版
7/26 up ザンキさんレギュラー化計画
7/25 up 『ああザンキさん』
7/22 up 変身裸族
7/9 up 我が家のキアカシシ
7/5 up ディスクアニマルの使われ方について考える
6/19 up “鬼”ごっこ(『仮面ライダー響鬼』ごっこ)で遊ぼう!
6/12 up 『仮面ライダー響鬼』キャラクターお気に入りベスト3
6/4 up 劇場版『仮面ライダー響鬼』を、ネタばれ無しで考える
5/23 up 我が家のルリオオカミ
5/22 up 『響鬼』パロディ企画 筒の使い手“仮面ライダー奏鬼”を独占スクープ!
5/15 up 『仮面ライダー響鬼』その他ライダーの変身ポーズを裸で比較検証する
5/2 up 安達明日夢(ア・ア)は鬼になる!
4/18 up 『仮面ライダー響鬼』3人目の鬼を、ネタばれ無しで考える その2
4/13 up 新しいディスクアニマルを、ネタばれ無しで考える
4/10 up 『仮面ライダー響鬼』3人目の鬼を、ネタばれ無しで考える
4/3 up 『仮面ライダー響鬼』ハリウッド映画化計画! を考える

『ドミノ』

『ドミノ』
  2005年の映画館で観た映画:29本目
  映画を観た日:2005年11月6日(日)

 キーラ・ナイトリィである。
 100%彼女目当てで観たと言っても過言ではない。
 映画自体は、ハイテンポで錯綜した感じで、それなりにバイオレンスな内容(R-15)。目まぐるしいジェットコースタームービーとはまた違う、スタイリッシュで一寸ハードな作品である。特にキーラ・ナイトリィのファンでない人も、普通に楽しめると思う。

 キーラ・ナイトリィは美人ではあるが、近寄りがたいほどの絶対的な美人ではない。鼻筋は通っているが、彫りは深くない。頬骨も低い感じだ。外人(西洋人)にしては、いわゆる醤油顔である。私は香椎由宇も美人だと認識しているが、ナイトリィよりも香椎の方が余程バタ臭いというか、濃い顔だと思う。
 背もそれ程高くなさそうに見えるし、手脚が特別長いという感じもしない(パッと見て、スラリとしたプロポーションという印象は受けない)。ついでに言ってしまうと胸も大きくない。それなのに、何故かキーラ・ナイトリィに惹かれてしまう。映画雑誌の人気投票を見ると、大体5位以内に入っているようだ(1位なったりもしている)。日本の一般的な映画ファンの間でも、人気が高いのである。

 キュートな美人。綺麗と可愛らしさの両方を兼ね備えているところが、キーラ・ナイトリィの魅力なのかな、と思う。この映画でも、強面の表情でヌンチャクを振り回したりしているのだが、どこか可愛らしいのである。もちろんカッコイイし怖くて危ない雰囲気も出ているのだが、何かカワイイのだ。
 反面、銃を撃つシーンなどは実に様になっており、説得力のある演技になっていた。撮影当初、怖がって泣いてしまったとはとても思えない。ナチュラルな演技力がある女優なのだろう。

 この映画の前に撮影が終わっていた『プライドと偏見』が、日本では来年1月に公開される。ドミノ・ハーヴェイとは180度違う役柄のようだ。こちらも楽しみである。

ハリウッド版『仮面ライダー』を考える その2

ハリウッド版『仮面ライダー』を考える その2

 ハリウッド版『仮面ライダー』を考える という記事のコメント欄に、きんさんから興味深い考察を書き込んで頂いた。ハリウッドのヒーロー映画の法則に関する、的を射た考察である。先ずはそれを読んで頂きたい。

 きんさんの提案するハリウッド版『快傑ズバット』は、確かに私も観てみたい。『快傑ズバット』にはハリウッドのヒーロー映画の条件が揃っており、万人向けの娯楽映画としての体裁が備わっているという指摘は正しいと思う。
 しかし、それ故、『快傑ズバット』はハリウッドでは映画化されにくいと私は考える。
 アメコミを映画化している米映画会社コミック・ブック・ムービーズ(CBM)は、既に『快傑ズバット』のような「典型的なコンテンツ」は入手済みであるように思えるのだ。CBMがわざわざ石ノ森章太郎作品に手を伸ばしてきた理由は、ハリウッドのヒーロー映画のパターンにはないものを求めているからなのではないだろうか。

 ハリウッドに進出した「ジャパニーズ・ホラー」と呼ばれる日本原作のホラー映画は、どんな作品であったのか。ここ暫くハリウッドで作られていたホラー映画の条件に適合していた作品だったのだろうか。そうではないだろう。最近のハリウッド製ホラー映画に欠けているものがあったからこそ、「ジャパニーズ・ホラー」が受け入れられたのである。
 確かにハリウッドのヒーロー映画には共通項があるが、それは「映画が受け入れられる法則(制約)」ではなく、「受け入れられている映画のパターン」と見るべきだと私は考えたい。これは飽くまでも、私の願望込みの捉え方である。

 仮面の考察 に書いたように、日本の変身ヒーローは、フルフェイスの仮面で顔または頭部全体を覆い隠しているケースが多い。きんさんも指摘されているように、ハリウッド映画のヒーローとは逆である。メジャー級の例外は、『スパイダーマン』くらいのものだろう。
 しかし、アメリカでは1993年に『マイティ・モーフィン・パワーレンジャー』の放映が始まっている。現在2005年は『パワーレンジャー・S.P.D.』が放映中らしい。一体どれ位の人気があるのかは分からないが、12年も続いているのは大したものである。
 言うまでもないが、『パワーレンジャー』シリーズは日本の戦隊シリーズのアメリカ版。私も映画版のDVDを買って観たのだが、基本的には日本の戦隊シリーズと同じである。フルフェイスの仮面で顔・頭部全体を覆い隠している、日本スタイルのヒーローなのだ。
 「日本スタイルのヒーロー」と聞いて、思い浮かぶ「アンチ・ヒーロー」が一人いる。
 ダース・ベイダーである。
 侍の兜にインスパイヤされたと思われるフルフェイスのヘルメットで素顔を完全に覆い隠したダース・ベイダーは、まさに「日本スタイルのアンチヒーロー」と言える。
 
 仮面のヒーロー・パワーレンジャーと、仮面のアンチヒーロー・ダースベイダー。
 5歳のときに『マイティ・モーフィン・パワーレンジャー』を観ていた子供も、2008年には20歳となる。
 石ノ森章太郎作品がハリウッドで映画化される際、どの年齢層を狙った作品になるのかは分からない。予算が50億~70億円という話から想像すると、ヒーロー映画の場合、ビッグネームは出演しない中規模の作品というところか。『ターミネーター』の1作目のように、予算の不足を創意工夫でカバーする作品になってくれればいいのだが。
 「変身」に関しては、『パワーレンジャー』シリーズにおける「一瞬で戦闘強化服を装着する」というコンセプトが通用する可能性がある。これを本格的に金をかけて描写した場合、一体どんな映像になるのか、観てみたい。

 「石ノ森章太郎作品が、ハリウッドで映画化」という一文を目にしたとき、最初にパッと浮かんだのは『龍騎』のハリウッド版リメイクである。マーチャンダイジングを絡めると、それがベストだとずっと思っていたからだ。
 次の機会にでも、このことを少し詳しく書いてみたい。

『ステルス』

『ステルス』
  2005年の映画館で観た映画:27本目
  映画を観た日:2005年10月8日(土)

 久々に観た、戦闘機アクション映画。いつの間にか、目標の年間24本をクリアしてしまい、今年27本目の映画である。

 主人公たちが乗る有人のステルス戦闘機“タロン”、もう一人の主役である無人ステルス戦闘機“エディ”、両方ともデザイン・映像クオリティ・動きの三拍子が揃ったナイスなメカニック・キャラクターだ。特にタロンの方は、現実の世界におけるF-15の後継機争いでラプターに負けてしまったYF-23を連想させるシルエットに、サンダーバード1号のような可変翼のギミックが合わさっており、メカ好きにはもう、たまらない。
 劇場で購入したパンフレットには、戦闘機の3面図どころか解説図も載っておらず、大いに不満である。この映画の主役は、人間ではなく2種類の戦闘機でしょ! プンプン!!
 余談だが、後にラプターとなったYF-22は(F-4ファントムほどではないかも知れないが)不細工であり、YF-23の方が遥かに美しいという見方が、航空ファンの間では多数派だと思うがどうだろうか?

 エディは、「優等生だが生意気なガキ」という分かりやすいキャラクター。そのまま悪役がエスカレートして、エディを倒して話が終わるのかと思いきや、途中から話の展開が変わっていく。「人間の本当の敵は、やはり人間である」というオチは、定番だが私の好み。
 改心したエディは、まるで『ナイトライダー』のKITTのような可愛い気のあるキャラクターに変貌。その最期は予想通りだったが、それでもジーンと来るものがあった。

 この映画は、単なる「USA万歳映画」ではないという点も評価したい。
 最初のミッションは「アメリカは世界の警察だ!」というノリだったが、二度目のミッションでは一転、自国の利益のためには罪のない他国の人々を犠牲にすることも厭わないアメリカ(軍)のエゴが表面化する。
 カーラが北朝鮮に不時着(パラシュートで降下)した責任は、飽くまでもアメリカ側にある。この際、北朝鮮は何も悪いことはやっていない。それにも関わらず、エディで北朝鮮に乗り込んで北朝鮮兵士を殺しまくるのだから、悪いのは明らかにアメリカ側である。投降しようとしない侵入者を攻撃するのは軍として当然のことであり、北朝鮮軍に非はない。
 一般的なアメリカ人観客がこの映画を観てそう感じるかどうかは分からないが、映画を作っている側が、この部分においてアメリカ側に正義がないことを意識しているのは明らかである。

 機動性よりもステルス性を優先している機体が、真っ昼間を想定した作戦訓練を行うことを始め、突っ込みどころは多々あった。それでも、娯楽作品としては上出来だったと思う。カーラ役がジェシカ・アルバだったらDVDを買うところなんだが…などと思っている私は、メカニック・ファン失格か?

『チャーリーとチョコレート工場』

『チャーリーとチョコレート工場』
  2005年の映画館で観た映画:26本目
  映画を観た日:2005年10月8日(土)

 私は映画を選ぶときに監督を基準にすることは滅多にない。例外は、ティム・バートン監督と樋口真嗣監督だけ。この映画がティム・バートン監督作品でなかったら、観ることはなかっただろう。

 『シザー・ハンズ』を観て以来、「この役者の素顔はどんな素顔なんだろう」と思いつつ、『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観ても今ひとつ素顔のイメージが掴めなかったジョニー・デップ。この映画では基本的に素顔を晒していると思うのだが、それでもジョニー・デップには何かに化けているようなイメージが付きまとう。不思議な佇まいを纏った、映画俳優らしい俳優である。

 この映画はチョコレート工場内の色彩設定が印象的だが、私の記憶に最も強く残っているのは、そこではない。ではどの箇所かと言うと、それは映画の始めの方の、工場からトラックが出発していくシーン。雪が薄く積もった道路に、トラックのタイヤの跡が綺麗な幾何学模様を描いていくところが最も印象的だった。CGなのかも知れないが、不自然さは全く感じなかった。計算された映像芸術であり、見事だった。

 原作がイギリスの小説で、“子供が好きな本”の第3位とのこと。ファンタジーと言うにはブラック・ユーモアが効いているこの作品は、日本人の好みとはちょっと異なっているように思える。私も、話の区切りとして入るウンパ・ルンパのミュージカルには、正直どう反応して良いのか戸惑いを感じてしまった。イギリスの映画館だったら、観客が手拍子とかしちゃうんだろうか?

『仮面ライダー響鬼』 四十之巻

『仮面ライダー響鬼』 四十之巻

【 観る前に思ったこと 】

 最終話のサブタイトルは「少年よ」。最後、エンディングは復活しない(栩原さんの絵が合わないから)ものの、エンディング風の映像(カメラワーク)に「少年よ」が被さる…とかだったらイイなぁ。1話からの明日夢の映像がカットバックで入って、明日夢の1年間の成長が見て取れるような演出で。何と言っても、「少年よ」は明日夢のテーマ曲だから。

 そんなことを思うに至ったのは、ザンキのテーマ曲だと思っていたBGMが、前回ヒビキが活躍するシーンで使われていて、ありゃりゃ?と感じたからである。
 「ザンキのテーマ曲だと思っていたBGM」とは、例のアレである。朱鬼が、あきら諸共ノツゴに音撃を喰らわそうとした時、「やめろぉお!!」と叫びながらザンキが走ってきて

♪タータッターーー♪タララタタタタ♪タータッターーー♪タララララー♪

という感じで流れてきたBGMのことだ。「ザンキ見参」とでも名付けたくなるような印象だったので、39話でヒビキに使われていたことに違和感を覚えてしまった。
 トドロキのテーマ曲(と私は思っている)、

♪チャララ♪チャッチャ~♪チャララ♪ チャララ♪チャッチャ~♪チャララ♪

というBGMは、トドロキのシーン以外では使われていないのではないだろうか。
 私は音楽は苦手(でも音痴ではありません!)であり、「鬼め…」「鬼だよ」のシーンのBGMがどんなだったのかも記憶にない。そんな私が言っても説得力がないのだが、主要キャラクターにはそれぞれ独自のテーマ曲を持たせ、その曲を他のキャラには使わないようにするべきだと思う。つまり、プロレスラーの入場曲のようなイメージである。

 『アギト』では、「このBGMがかかるとアギトが強くなる(劣勢だったところから、反撃に転じる)」という法則?があった。反撃開始からフィニッシュのキックに至るまでの一連の流れが、一曲のBGMにシンクロした形で展開されるという、『コンバトラーV』の超電磁スピンを連想させるようなパターン。見慣れると、コレが結構見ていて気持ち良い。
 音と映像がシンクロすると快感・興奮・感動を生むのは、ドラマに限ったことではない。人間の本能に根ざした、原始的な快感原理なのだろう。そうは言っても、人間は「パブロフの犬」のように条件反射的に感動するわけではないので、快感を生むパターンではあっても、組み合わせや出すタイミングが大切となる。私としては、
♪タータッターーー♪タララタタタタ♪タータッターーー♪タララララー♪
は、ザンキの活躍との組み合わせに限定して欲しかった。まぁ、そういうことである。

 このところ、『マジレン』と比べて非常に貧乏臭かった『響鬼』の敵キャラが、今度はマトモな感じ。マトモーなマカモーといったところか。 劇場版オロチのCGを再利用することで、予算難を乗りきったのか? ドラマ部のクランクアップは、いつ頃かなぁ?

【四十之巻の感想 】

 「たまには学校に行きたくないときだってあるだろう」とクールに言ってのける桐矢だが、後を向くとシャツがちょびっとハミ出ているのが何だか可愛い。
 今回は、弟子(志願者含む)の若手三羽烏(死語?)が主役の話だった。モッチーが蚊帳の外なのが寂しいが、別の視点をキープしておかないと話の幅が狭くなってしまうので、これは妥当な処置。
 桐矢役の中村さんにとって、明日夢役の栩原さんとの二人きりの芝居は、演技力の差が浮き彫りになって一番苦しいところ。今回もそうなのだが、それでも最初の頃と比べるとその差は確実に縮まっている。

 森の中で人が樹に襲われるシーンは、夕暮れか夜のシーンにするべきだった。樹の幹に顔が浮かび上がって見えるという経験は、多くの人が日常の中で実際に経験していると思う。この部分がとても良い演出だっただけに、シチュエーション設定が雑だったのが惜しまれる。まぁ、あんまり怖くすると、子供がチャンネル変えちゃう(『シャリバン』で、そういうことがあった)という配慮もあるのかも知れないが。

 あきらと明日夢のツーショット。そう言えば明日夢は、あきらとイブキが(と言うよりあきら自身が)難しい状況に陥っていることを知らないわけである。学校に来ないのは、いつものことだし。ここで、明日夢があきらに「イブキに弟子入りした理由」を尋ねたりしたら面白かったのだが、それは次回以降のお楽しみか。
 
 若手三羽烏の中でも、一応主人公である明日夢の出番が一番多いのだが、今回は珍しく明日夢自身が良く動いていた。
 モッチーに言われたことがきっかけとは言え、自分から桐矢の家に足を運び、桐矢に言われたことがきっかけとは言え、自分から(多分)電話してあきらとお茶(明日夢はジュース)。更にあきらと母に言われたことがきっかけとは言え、自分からヒビキに弟子入りを志願しに走る。
 丸顔の明日夢が、まるでピンボールがビリヤードの玉のように、動いて何かにぶつかるたびにイベントを起こす様子が見ていて面白かった。香須実が登場したカットなんかは、まさに明日夢というピンボールが「たちばな」に入ったらパッと絵の板が出てきた、みたいな感じだった。

 装甲声刃の音撃を防いだ魔化魍は、傀儡師夫婦とは無関係に、自然発生した「天然もの」か? 着ぐるみの出来も良く、ツタの描写もかなり自然だった。ただし現時点では、これらと劇場版のオロチとの間に、絵的な部分で因果関係があるようには見えない。台詞による説明だけではなく、絵として繋いでいくことが出来るのか、出来ないのかといったところにも注目したい。

 イブキ・トドロキ・ヒビキの3ショットは、あきら・桐矢・明日夢の3ショットとシンクロしているイメージで、絵的にも話的にも納まりが良かった。
 イブキ・トドロキ・ヒビキは、それぞれ「弟子を取ったことで悩んでいる者」・「まだ弟子を取る段階に至っていない者」・「弟子を取るべき立場にいるにもかかわらず弟子のいない者」。
 あきら・桐矢・明日夢は、「弟子になったものの、悩んでいる者」・「弟子になる段階ではないにもかかわらず積極的に弟子になろうとする者」・「とっくに弟子になっているべきであるのに弟子になっていない者」。
 まだ子供である3人がそれぞれ足りない部分を抱えているのはもちろん、既に大人である3人の鬼たちもそれぞれが不完全であるという対比が効果的だった。
 また、イブキがヒビキを問いただす場面にはザンキがおらず、桐矢がトドロキに弟子入りを志願する場面にザンキがいたのは演出上正解。とてもバランスが良かった。

 目的を達成するためには手段を選ばない桐矢は、考え込んで動きが止まってしまった明日夢というカードの裏面。桐矢は明日夢と入れ替わる形で動き回り、最後はあきらに弟子入り志願することで、明日夢を一緒に引っ張りこむ。あきらがそれを引き受けるという展開は少々強引だが、流れとしては面白かった。

 あきらの鬼姿、スカートではなかったの良いのだが、女性にしては色が地味すぎ。バックルに音撃鳴がセットされていたのも不自然である(戸田山変身体は、ダミーがセットされていた)。

【小学一年生の心で学び直したこと】

 若いうちは、幾らでもやり直しがきく(歳を取るとそうではなくなるので、慎重に行動すべし)。

【 次回予告を観て思ったこと 】

 頑張れ、若手三羽烏(死語?)! 最終回はドリカム編成(これも死語?)でゴキゲンだぜ!(死語3連発)

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 『響鬼』に関して以下の記事を書きましたので、こちらも読んでいただけたら幸いです。

New! 11/18 up 『アマゾン』と『響鬼』
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『アマゾン』と『響鬼』

『アマゾン』と『響鬼』

 「完全新生」が何を目指していたのかは知らないが、『響鬼』が『平成版の仮面ライダーアマゾン』を意識していたことは間違いない。

 『仮面ライダー』という名を冠せられた作品の特徴として
(1)人間が変身する等身大のヒーローで、変身後も言葉を喋る。
(2)変身の際に特定のポーズをとり、「変身」と発声する。
(3)ベルトが変身を行なうための重要なアイテムである。
(4)キックが代表的な決め技である。
(5)決め技を放つ際に技名を叫ぶ(またはアナウンスが入る)。
(6)ベルトを装着し、オートバイを運転する。
(7)敵も等身大の人間に準じた存在であり、言葉を喋る。
(8)ライダーは敵と同じ属性を持っている。または、同じ属性を持つようになっていく。
(9)仮面ライダーであることのマイナス面が描かれる。
などが挙げられる。

 これに対し、番組開始当初の『アマゾン』は
(1)変身前後ともに言葉が不自由である。
(2)変身の際に「変身」と発声しない。
(3)ベルトは変身とは全く関係がない(ベルトは純然たる道具ホルダー)。
(4)一種の手刀(腕刀)が代表的な決め技である。
(5)決め技を放つ際に技名を叫ばない。
(6)オートバイに乗らない(文明機器に馴染まない)。
であった。これらは明らかに意図的な「パターン破り」であり、(2)(3)(4)は最期まで貫かれた。
 ライダーのデザインが「マダラ模様の鋭利なトカゲ男」といった斬新なものであったことも併せ、昭和シリーズの中でも『アマゾン』は異質なライダーであった。

 そして『響鬼』は
(2)変身の際に「変身」と発声しない。
(3)ベルトは変身とは全く関係ない(ベルトは純然たる道具ホルダー)。
(4)音撃が代表的な決め技である。
(5)決め技を放つ際に技名を叫ばない(アナウンスもない)。
(6)オートバイに乗らない(文明機器の扱いが苦手)。
であった。『アマゾン』と同じパターンの「パターン破り」である。最期まで貫かれそうな項目も『アマゾン』と同じく(2)(3)(4)であるのは、偶然と言うより必然だろう。
 ライダーのデザインが「鋭利な角を生やした鬼」といった斬新なものであったことも併せ、平成シリーズの中でも『響鬼』は異質なライダーとなった。

 これ以外にも、『アマゾン』と『響鬼』には、ライダーとしては異質な点が幾つか共通して存在している。
1) ライダーが変身前も後も同じ名前(本名ではなく、愛称のようなもの)で呼ばれる。
2) ベルトを日常的に装着していることが外観から判別できる。
3) 「裸」という要素がライダーに付加されている。
4) 変身した姿が筋肉系で、「爪」を武器にする。
5) 敵が派手に血飛沫を上げることがある。

 これは余談になるが、『アマゾン』は「ネット局の腸捻転解消」のあおりを受ける格好となり、24話で終了している。『響鬼』は、29話をもってチーフプロデューサーが更迭された。旧プロデューサーにとっては29話で『響鬼』が終了したことになり、こんなところでも『アマゾン』と符号しているようにも見える。

ハリウッド版『仮面ライダー』を考える

ハリウッド版『仮面ライダー』を考える

 ぼのさんのブログを訪問したら、トップが 世界進出してくれますように という記事になっていました。スクロールしてビックリ、「石ノ森章太郎作品が、ハリウッドで映画化される見通しになった」ことを伝えるニュースサイトのリンクが4プラス1コ。
 嬉しい! めでたい! 喜ばしい!
 このまま順調に事が進んで欲しいと切に願います。私は今年の4月、 『仮面ライダー響鬼』ハリウッド映画化計画!を考える という記事を書いています。
 更にそれより3年前にも、「ハリウッド版『仮面ライダー』を考える」という文章を書いています(ファイルのタイムスタンプは 2002/04/06/13:03 )。当時、某BBS(今はもう存在しない)に書き込みました(投稿日:2002/04/06(Sat) 23:20)。3年前の文章ですが、今でも思っていることなので、載せちゃいます。

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 日本でも公開される予定の『スパイダーマン』は、製作費が166億円。いかに世界規模で配給されるとはいえ、本当に採算が取れるのかという気がしないでもないが(マーチャンダイジングも含め)、何とも羨ましい限りではある。
 さて、怪獣王国であると同時にヒーロー王国でもある日本には、単体ヒーローとして『仮面ライダー』という作品が存在する。この『仮面ライダー』が、トライスター版ゴジラのようにハリウッド映画化されたら、どんな作品になるのだろうか? 以前は、自分の好みで

(1)『マトリクス』風の仮面ライダー
「仮面ライダー」というプログラムをインストールされた主人公が変身能力を得る。仮面ライダーがフォームチェンジすると、バイクも同時にフォームチェンジする。

(2)『ブレードランナー』風の仮面ライダー
人間に対して反乱を起こした人造人間の一人としての仮面ライダー。あるいは、反乱を起こした人造人間に対する対抗戦力として生み出された仮面ライダー。

を空想していた。しかし、『スパイダーマン』の166億円とまではいかなくても、『バットマン』並みの予算があれば、日本のオリジナル設定に近い『仮面ライダー』でも、世界規模で配給できるレヴェルのクオリティで創ることが出来るのではないか?
 そう思ったのは、『RIDING SPORT』というバイク雑誌を本屋で見つけ、レーシングスーツの格好良さに感激したからである。妙な表現になるが「ライダーであることを基本とする仮面ライダー」が無性に見てみたくなってしまったのだ。
 スーパーバイクを操り、単体あるいは少数で大都市を攻略することを目的として造られた超人ライダー。混雑した道路からアーケード、細い路地から地下街へ、さらにはビルの内部や壁面すら高速で移動し、神出鬼没で大都市の重要個所を同時多発的に破壊するオートバイ兵士。もし人類の敵として出現したら、現代社会にとって絶大な恐怖となる。しかし、“組織”が最高の技術を注ぎ込んで生み出した最初のオートバイ兵士は、“組織”を脱出し、その野望を打ち砕くために闘う「自由の戦士」となった…。

 仮面ライダーのデザインは、もちろん“オートバイ戦士としての超人ライダー”である。
 レーシングスーツの内側から外側へ筋肉が溢れ出して、一体化しているようなデザインが良い。あるいは、レーシングスーツを生体として再現したデザインとでも言うべきか。肩に少し角張ったパッドが入ったレーシングスーツのデザインを基本にして、逆三角形のシルエットになっているとカッコイイ。
 ベルトは、仮面ライダーBLACKのようにボディと一体化させ、(変身後は)バイクとシンクロするためのパーツとして描いたら良いと思う。

 ハリウッド映画化の際、一番問題になるのは、変身の処理であろう。普段着を着ているのに、その上にいきなり変身ベルトが現れ、光に包まれて?全身が変身するというのは、サイボーグという設定では無理がある(『マトリクス』風の仮面ライダーなら、これでもOKなのだが)。リアリティ的に許されるのは、

(1)サイボーグ体の人間が、強化スーツと強化ヘルメットを身につける。

(2)あらかじめレーシングスーツ(強化スーツ)とヘルメット(強化ヘルメット)を身につけているサイボーグの肉体がレーシングスーツ&ヘルメットと同調、両者が一体化・融合して形も変わる。

という設定だと思う。
 しかし、いずれもレーシングスーツ&ヘルメットを着る(着ている)ことが変身の条件となってしまうのが欠点となる。厚手のレーシングスーツを肌着のように常に服の下に着ているというのも無理があるし、ヘルメットの問題が残る。バットマンのように基地で着替えて出撃というのは自由度に欠けるし、アギトのG3シリーズのようにサポーターの力を借りるというのも別の意味で縛りが出来てしまう。
 変身ベルトは日常のベルトサイズで常時着用(実は肉体と繋がっている)しており、変身ベルトからナノマシンが放出されて全身を包み込み、レーシングスーツとなるというのがギリギリ許されるところか。
 ヘルメットに関しては、携帯電話のような手持ちのアイテムが大型化・変形してヘルメットになっても良いのではないか。サイボーグという設定を生かして、則頭部にスリットが開き、そこからシャッターが降りていくような感じでヘルメットが展開していくというパターンも考えられるけれども、ライダーの頭部を覆っているものは「脱げるヘルメット=外せる仮面」であって欲しいと思う。

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 予算が50億~70億円の劇場版『仮面ライダー』!
 早ければ2008年にも米国で公開されるという石ノ森作品が、『仮面ライダー』になるのかどうかは分からないが、本当に今から待ち遠しい!!

『SHINOBI』

『SHINOBI』
  2005年の映画館で観た映画:25本目
  映画を観た日:2005年10月8日(土)

 映画館で予告を見て、「邦画としては頑張っていそう」な感じがしたので、前売り券を買った。もっとも、今年観た映画のほとんどが、前売り券を買って…というパターンなのだが。
 観ようと思ったもう一つの理由は、オダギリジョーが主演しているから。『クウガ』以来となる、久振りの正統派ヒーローを演じるようだったので、興味が沸いたのだ。

 映画を観終わってパンフを開くまで、この映画が小説を原作にしていることも、既に漫画化されていることも知らなかった。何の先入観も予備知識も持たずに映画を観たので、純粋に映画として楽しめた。

                 (これ以降、ネタばれ有り)

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『ファンタスティック・フォー』

『ファンタスティック・フォー』
  2005年の映画館で観た映画:24本目
  映画を観た日:2005年9月24日(土)

 子供の頃、TVで放映されていたアニメを観た記憶がある。「ムッシュムラムラ~」「フンガー!」とか言って。
 何故か、当時はアメリカ製のアニメが多数TV放映されていたように思う。『トムとジェリー』や『チキチキマシン猛レース』、『キングコング』、あとは「マジック・ベルト」というアイテムが登場する『冒険少年シンドバット』とか、「ミスター念力」が登場する作品とか…。
 『ファンタスティック・フォー』は『宇宙忍者ゴームズ』という邦題で放映されていたそうだ。今思うと何て変テコなタイトルを付けたのだろうと思えるが、三十数年前の日本で“ファンタスティック・フォー”というタイトルを通すのは確かに無理であった。

 30年以上前にTVアニメとして紹介された作品が、豪華な実写映画となって再び日本にやって来た。ヒーロー物を好む私としては、観ておこうと映画館まで脚を運んだ。
 確かに一般向け映画としてのクオリティは有しているが、ヒーロー作品としては真面目に作りすぎているという感じがした。もっと「都合の良い話」で構わないから、娯楽作品としてハジけて欲しかった。ヒーローは、悪役がいて初めてヒーロー然と出来るのだが、その悪役がなかなか現れない。当然、なかなかヒーロー物らしい展開にならず、観ていてまどろっこしく感じた。
 今回は、「ファンタスティック・フォー誕生編」であることを考えれば仕方がないとも言えるが、もうちょっとスカッとする活躍シーンが観たかったというのが正直なところだ。

 インビジブル・ウーマンことスーは、非常に魅力的だった。半面、ザ・シングは着ぐるみの出来がもう一つで、特に眼の周囲の処理が甘かったと思う。
 メンバーの共通コスチュームは、意外にカッコイイ。『スパイダーマン』でもそうだが、ほとんど皺が出来ないというのがコスチュームがカッコ良く見えるポイントではないかと思う。日本の特撮ヒーローのスーツも、見習って欲しいところだ。

『シンデレラマン』

『シンデレラマン』
  2005年の映画館で観た映画:23本目
  映画を観た日:2005年9月24日(土)

 私は映画ファンであると同時に、ボクシング(とUFC)を観るためにWOWOWに加入した格闘技ファンである。であるからして、ボクシング映画を観ないわけにはいかない。ちなみに、購読しているのは『ボクシング・マガジン』の方。
 普通に良い映画だった、と思う。いわゆるアカデミー賞を取るような映画だ。
 ハリウッド映画は所詮アメリカ人のための映画なので、日本人である私にとっては「傑作」と思える作品は少ないのだが、こういう「普通に良い」と思える作品が多いことも確かである。邦画と比べると、「駄作=映画館で観るんじゃなかった」というハズレを引くことが少ない。もちろん、ハリウッド映画の中でも日本人受けするような作品が選ばれたうえで日本の映画館にかけられているのだから、ハズレは最初から振り落とされていると言える。
 それでも、金を払っている客の立場からすれば、結果が全て。邦画だって自分なりに選んで観ているのに、それでもハズレ=駄作だった場合は本当にガックリするのである。

 さて、私がボクシングを本当に観始めたと言えるのはWOWOWに加入してからであり、まだ4年くらしか経っていない。リアルタイムのボクシングをチェックするだけで手一杯であり、たまに時代を遡るとしても、ぜいぜいタイソンのDVDで観るくらいだ。この映画のような古い時代のボクシングに関しては無知に等しいし、今のところ食指も動かない。
 そんな私がこの映画を観て思ったのは、当時のLヘビー(ライト・ヘビー)とヘビー級の階級差がどうだったのか、ということ。現在のプロボクシングに詳しくない人は、Lヘビー級の一つ上がヘビー級だと思っているだろうが、実際には間にクルーザー級が挟まれている。現在、Lヘビーとヘビーの間には相当な隔たりがある。Lヘビーのチャンピオンが、いきなりヘビーの王座に挑戦するということはまず有り得ない。近年、天才と呼ばれたロイ・ジョーンズJrが、それを成し遂げことは記憶に新しい。その試合をリアルタイムで観たファンは、まさに時代の目撃者になったのだ。

 もう一点は、当時、白人のヘビー級王者の希少性はどうだったのかということ。現代ボクシングにおけるヘビー級のベルトは黒人選手が巻く確率が高く、主要4団体の王座を黒人選手が独占しても何ら不自然ではない。そにため、ヘビー級の有力な白人選手は「ホワイト・ホープ」と呼ばれて貴重視される。最近では、ジョー・メイシーがそう呼ばれていたが、確かクルーザーから上がってきたワシリー・ジロフとの試合で終盤ボコボコにされ、判定で勝ったものの、それ以後はリングから遠ざかっているようだ。
 この映画の主人公であるジム・ブラドックは、アイルランド系の移民。当時のアメリカ社会では差別される存在だったそうだが、英語圏ヨーロッパ出身となれば、現在のヒスパニック系アメリカ人よりは「ホワイト」と見なされたのではないか。ちなみに、現在主要4団体のヘビー級王者のうち、WBA王者のジョン・ルイスがヒスパニック系アメリカ人、WBC王者のビタリ・クリチコ(注1)がウクライナ人で、日本人から見ると「白人」なのだが、両者ともアメリカでは「ホワイト」のチャンプとしての人気に与かっているとは思えない。

 ボクシング映画として観ると特筆すべき点はないのだが、最初に書いたように映画としては良く出来ている。ボクシングと通して人間を、社会を、そして家族を描いた佳作である。万人に薦めたい。

※注1…WBCヘビー級正王者だったビタリ・クリチコは、暫定王者ハシム・ラクマンとの王座統一戦を目前にして膝を負傷。その負傷を理由に引退を表明した。非常に残念である。鉄拳博士、今まで素晴らしい試合をありがとう。お疲れ様でした。

『NANA』

『NANA』
  2005年の映画館で観た映画:22本目
  映画を観た日:2005年9月3日(土)

 渋谷にて、『マジレン&響鬼』の2本立てを観に行く前に観た。『マジレン&響鬼』は、館内がほどんど男性で占められていたのに対し、こちらはほとんどが女性。中島美嘉さんの男性ファンって結構いると思うのだが、当日は有楽町で舞台挨拶付きの上映があったから、そちらに集中していたのかな?

 歳の離れていない姉を持つ男性は、ごく自然に少女漫画に親しむ確率が高い。私もそうである。ただし、『NANA』の原作漫画は全く読んでいない。この映画は、中島美嘉さん目当てで観に行った。それでも、二次情報から原作がそれなりにアダルトな内容であることは知っていたので、私の直前の席に小学校高学年と思われる女の子二人組が座ったときは驚いた。
 いいのか? 小学生二人だけでこんな映画を観に来て? お父さんは許しませんよ?
 後で人から聞いた話によると、原作漫画は男性の世界における『少年ジャンプ』に相当する雑誌に掲載されているそうである。それなら小学生が読んでいても何ら驚くには値しないが、(コトが終わった段階とはいえ)ベッドシーン有り、一緒にお風呂に入っているシーンありと、お父さん世代としてはちょっと問題視したくなる内容であった。「避妊」とか「ピル」とかいう単語も出てくるし。『少年ジャンプ』には、そういう類のアレはないと思う。

 そういうPTA的な視点を抜きにすると、映画として普通に面白かった。原作を読まず、二次情報に触れているだけの私の感覚では、ナナもハチも漫画のキャラのイメージに合っていた。
 また、ナナが家に中でもファッションやメイクをバッチリ決めていたりして、絵の作りが良い意味で非常に漫画っぽかった。現実には、ロックをやっている人間でもが家の中でくつろいでいる時はダボッとしたスウェットの上下とか着ているような気がするのだが、それでは漫画的ではない。
 この映画でイメージを壊していたのは、レンの腹。私の腹と同じくらい、たるんでいた。少女漫画ファンとして、あれは認められない。
 ナナの眉は、「太い薄眉」よりも「細いハッキリした眉」の方が漫画っぽいと思ったのだが、あれがイマドキの女性の化粧というモンなんだろうか。かつて少女漫画に親しんだ男としては、中島美嘉さんには「細いハッキリした眉」のナナになって欲しかった。

『仮面ライダー響鬼』 三十九之巻

『仮面ライダー響鬼』 三十九之巻

【 観る前に思ったこと 】

 ワニワニ魔化魍(ヨブコ)を「ゴジラみたいだ」と書かれているブログを散見し、ビックリ。私はゴジラファンでもあるのだが、ワニワニ魔化魍(ヨブコ)からゴジラを連想することは全くなかった。
ゴジラファンは、ゴジラというキャラクターを認識するときは必ず「初ゴジ」とか「総進撃ゴジ」などのゴジラスーツのタイプを基準にするので、ワニワニ魔化魍(ヨブコ)を「ゴジラみたいだ」と認識することは、まず有り得ない。ワニを直接連想させるようなデザインのゴジラは、今のところ存在しないのだ。
 強いて言うならば、総攻撃ゴジ(GMKゴジ)かトラゴジに似ていると思ったゴジラファンは…いないだろうな、やっぱり。『セイザーX』のアレを見て、「ゴジラだ!(改造または型の転用)」と思ったゴジラファンは多いだろうけれど。って言うか、思わなければファンとは呼べんよ。(モー娘。全員の顔と名前が一致しないような人は、モー娘。ファンとは呼ばんでしょう。それと一緒)
 『響鬼』ともゴジラとも関係ないけど、ハロプロファンではない一般の人は松浦亜弥と藤本美貴の見分けがついていないのではないかと、ふと不安になってしまった。あ、でも「藤本美貴って誰?」という人の方が多いのかな。

 装甲声刃は、冬のボーナスからクリスマス・正月商戦に焦点を合わせて描かれているようだ。登場以来、装甲声刃の活躍がパッとしていないのは、その活躍のピークを12月に持ってきたいからだろう。クリスマスに何を買うか選ぶとしたら、やはりその直前に観たTVから受ける印象は大きい(特に『響鬼』のコアターゲットである3~8才児はその傾向が強いのではないか?)。
 冬期ボーナス・クリスマス商戦において他社商品と競合することを考えると、12月4日から18日の回で、いかに番組内で商品を盛り上げるかが勝負の分けれ目になる。そこから逆算すると、前回辺りが装甲声刃にとって「谷間」の時期であった。「盛り上げる」とは、「メリハリをつける」ことでもあるのだ。
 今回で装甲声刃の本領発揮の準備が整い、以後何回かに分けて装甲声刃のギミックをアピールして盛り上げていく。そこまでやって、もしも装甲声刃が烈斬(基本的には烈雷のリペイント)よりも売れなかったら、響鬼(ヒビキ)のヒーロー性の方に大きな問題があるということだ。

 もっとも、現時点で自分が鬼に変身可能、かつ鬼に変身する弟子を持っていることが物語として描かれているのはザンキだけである。響鬼(ヒビキ)のヒーロー性を問題視する以前に、斬鬼(ザンキ)のヒーロー性が響鬼(ヒビキ)を上回っていることの方を問題視するべきなのかも知れない。

【三十九之巻の感想 】

 前回までの問題が、かなりイイ感じで収束してきた。起承転結の承と転の中間といったところか。『響鬼』も残すところあと10話程度。今のイベントが次回で終わると同時に、終局に向けたイベントが始まるようだ。去年の『剣』のクライマックスが素晴らしかった。今年もキッチリ締めくくって欲しい。『アギト』のようなヘロヘロな終わり方にはなりませんよーに。

 コケたり隠れたり、行動パターンが似ている桐矢とあきら。「ヒビキさぁぁん!」と叫ぶ桐矢、なかなかイイじゃありませんか。中村優一さんの芝居自体は以前から悪くないと思っていたが、今回は台詞にも「浮いた(裏返った)感じ」がなくなってきて、『響鬼』というドラマの中における納まりが良くなってきた。ホント、台詞(声)って大事だなぁ。片岡礼子さんも「朱鬼」にアテた声は浮いていた。中村さんは「自分」にアテることに、漸く慣れてきたのだろうか。

 みどりを包んでいる綿を食い千切ろうと頑張る明日夢。宮崎アニメの主役キャラ(コナンとか)を連想させる。2年前に宮崎アニメが実写化されていたら、主役は栩原さんだったに違いない。

 みどりの研究室入りを果たす桐矢。手にした音角が微妙にプルプル震えていたのが自然で良い。明日夢と違って、桐矢は鬼になる気満々なのだから、そりゃ興奮してプルプルするだろう。
 私もコーフンして「いけ京介! ダメ元で変身にトライしてみろ!」と思っていたら、本当にやってくれた。イケメンだから、やっぱりカッコイイ!
 もちろん失敗に終わるのだが、音角を変身モードで起動させるというのは明日夢どころかあきらですらやったことがない快挙である。チビッコたちの桐矢に対する評価は、これでグンと高まったのではないだろうか。「チビッコの期待することをやる」、これがヒーロー番組に登場するキャラの存在意義なのだから。

 その桐矢を見習った…わけではなく、みどりの話に感化された明日夢も、響鬼の戦いを自分から能動的にサポート。こっちもイイ感じになってきた。
 この展開が、明日夢の盲腸エピソードと絡める形で14話にて行われ(ザンキや魔化魍の被害者と病院で話すことで感化される)、戸田山のソロデビューと入れ替わる形で明日夢がヒビキに弟子入りしていれば、番組途中でプロデューサーが更迭されることもなかったかもしれない。お年寄りの手を握って励ますのも確かに素晴らしいことだが、『響鬼』を支えているチビッコ視聴者が明日夢に求めていることは、そういうことではなかったと思う。

 桐矢はヒビキに正式に弟子入りを志願し、最終回までに桐矢京介にやって欲しい10のこと が、何だか当たらずしも遠からずという感じに。
 しかも、あきらは次回変身するようだ。こうなると、あきらも明日夢も京介も変身だぁ! の期待も高まるというもの。明日夢も京介も頑張れ!

 裁鬼が対ヨブコ戦で使っていたのは玩具の烈雷のようだったが、これはアイディアとしては良いと思う。太鼓は小型化されてバックルに収まっているのだから、ギターが小型化されていても整合性はある。烈雷も、最初はバチのようなサイズ、即ち販売されている玩具の実寸で鬼の後帯に装着されているという設定でも良かったと思う。

 イブ鬼のダメージ表現といった細かいところにも手が回り始め、少しは撮影スケジュールも落ち着いてきたのかと思える。
 イブ鬼の、自分の弱さを認めた上での筋の通った話し方もカッコ良かったし、トドロ鬼の「俺、負けたけど負けてないッス」という負け惜しみ丸出しのハチャメチャな強がりも、別の意味でカッコ良かった。
 あそこで、トドロ鬼だけでも探索のためにDAを放って「鬼の仕事をやり続けている」ところを見せてくれたら更にカッコ良かったのだが、DAをステルスモードで描く予算と時間がなかったということか。

 響鬼が装甲化する際に集まってくるDAは、普段から(場合によってはステルス化して)響鬼の周辺で待機していると考えられる。外飼いの猫と言うか、半野生化しているわけだ(エネルギーが残り少なくなると、最寄りの猛士の家か設備に寄って充電している)。そうした描写も、あると面白いのだが。
 私も、窓際で「餌おくれ~」と鳴いているアカネタカを充電してやりたい。

【小学一年生の心で学び直したこと】

 カッコ良さにも、いろいろある。勇気にも、いろいろある。

【 次回予告を観て思ったこと 】

 このところ、『マジレン』と比べて非常に貧乏臭かった『響鬼』の敵キャラが、今度はマトモな感じ。マトモーなマカモーといったところか。予算難は乗りきったのか?

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 『響鬼』に関して以下の記事を書きましたので、こちらも読んでいただけたら幸いです。

10/30 up 鬼の顔だけ変身解除リアル版 その2
10/30 up あきらも明日夢も京介も変身だぁ!
10/25 up あきらが鬼に変身する過程の想像図
10/23 up 朱鬼の「女の鬼」としてのデザインに不満あり!
10/19 up 最終回までに桐矢京介にやって欲しい10のこと
10/11 up 空想検討「『響鬼』の理想の最終章をファンドで映画化しよう!」
10/4 up 『響鬼』の製作体制変更に関してのまとめ
9/27 up 桐矢京介のモデルはブロガー(アンチ新体制派)だ!
9/17 up もしも『響鬼』が有料番組になったら、金を払ってでも見るか?
9/11 up こんな『響鬼』だったら玩具が売れた!??
9/8 up 『響鬼』の人気低迷を考察する
9/9 up 『響鬼』の商業的失敗の原因を解明する!
9/9 up 『響鬼』の製作体制変更に関する疑問
9/3 up 『仮面ライダー響鬼と七人の戦鬼』
8/20 up ザンキ・スペシャル “元”鬼の裏技「隠し鬼爪」
8/15 up 鬼の「顔だけ変身解除」リアル版
7/26 up ザンキさんレギュラー化計画
7/25 up 『ああザンキさん』
7/22 up 変身裸族
7/9 up 我が家のキアカシシ
7/5 up ディスクアニマルの使われ方について考える
6/19 up “鬼”ごっこ(『仮面ライダー響鬼』ごっこ)で遊ぼう!
6/12 up 『仮面ライダー響鬼』キャラクターお気に入りベスト3
6/4 up 劇場版『仮面ライダー響鬼』を、ネタばれ無しで考える
5/23 up 我が家のルリオオカミ
5/22 up 『響鬼』パロディ企画 筒の使い手“仮面ライダー奏鬼”を独占スクープ!
5/15 up 『仮面ライダー響鬼』その他ライダーの変身ポーズを裸で比較検証する
5/2 up 安達明日夢(ア・ア)は鬼になる!
4/18 up 『仮面ライダー響鬼』3人目の鬼を、ネタばれ無しで考える その2
4/13 up 新しいディスクアニマルを、ネタばれ無しで考える
4/10 up 『仮面ライダー響鬼』3人目の鬼を、ネタばれ無しで考える
4/3 up 『仮面ライダー響鬼』ハリウッド映画化計画! を考える

『仮面ライダー THE FIRST』

『仮面ライダー THE FIRST』
  2005年の映画館で観た映画:28本目
  映画を観た日:2005年11月6日(日)

 予想していた通り、仮面ライダーの映画としては、もう全然ダメだった。
 『仮面ライダー THE FIRST』は、余程の理由がない限り、わざわざ映画館で観るような作品ではない。はっきり言って駄作である。
 もっとも、今回は『妖怪大戦争』の時とは違って最初から全然期待していなかったので、腹も立たない。映画『仮面ライダー THE FIRST』に関して に書いたように、「この程度ならVシネマでやりゃあいいのに」と思いつつも、黄川田さんがライダーを演じるならと思って劇場まで足を運んだのだ。そうしたら、内容は本当にVシネマだった。予算もVシネマ級なのではないだろうか。
 この映画は、劇場版『響鬼』(『マジレン』との2本立て)と比較すると、上映される映画館が極端に少なく、渋谷TOEIでも平日はレイトショーのみだったりするのだが、それで大正解だ。Vシネマレベルの作品を、昼間から劇場でやっていたら駄目である。

                  (これ以降、ネタばれ有り)

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『ブロブ 宇宙からの不明物体』

『ブロブ 宇宙からの不明物体』
  2005年(4月17日~)のWOWOWで観た映画:9本目
  映画を観た日:2005年11月5日(土)


 アメリカのお家芸(マイナー版)とも言える、アメーバ・モンスターもの。
 1988年の作品なので特撮はそれなりだが、同時期の日本の怪獣映画『ゴジラvsビオランテ』よりはクオリティが高い。多分、製作費も高いのだろう。
 所詮アメーバ・モンスターものだが、その正体には一捻り加えられている。伏線も機能しており、そこそこの娯楽作に仕上がっている。B級映画は、これで良いと思う。
 アメーバ・モンスターの攻略法も、伝統に則ったお約束通り?のもの。
 CG無しの特撮に、独特の味わいがあるこの映画。今この類の映画が創られるとしたら、CGをバリバリに使ったものになること間違いなしである。おそらく、この作品は「旧タイプの特撮で描かれた最後のアメーバ・モンスター映画」と言えるだろう。

『トレマーズ4』

『トレマーズ4』
  2005年(4月17日~)のWOWOWで観た映画:8本目
  映画を観た日:2005年11月5日(土)


 これもWOWOWの7月18日放送の録画分。
 1作目は日本の怪獣ファンの間でも評価が高い『トレマーズ』の4作目にして、おそらく最終作。そして、最も低予算作。
 低予算であり、苦肉の策でもあるのだろうが、『トレマーズ0(ゼロ)』とでも言うべき内容にしたのは正解だったと思う。シリーズのファンに対するオマケのような作品にも見えるが、初めて『トレマーズ』を観た人でも楽しめるようになっているのは、さすが。
 ストーリーも「コイツがここで死ぬのか?!」という意外性があり、それなりに面白かった。
 『トレマーズ』のファンなら、まぁ観て損はないだろう。

『BUGS(バグズ・パニック)』

『BUGS(バグズ・パニック)』
  2005年(4月17日~)のWOWOWで観た映画:7本目
  映画を観た日:2005年11月5日(土)


 WOWOWの7月18日放送の録画分。HDRは、容量が大きいからつい溜めたままになってしまう。
 『ガメラ2』のレギオン郡隊が地下鉄を襲う場面を元ネタにして、それで映画1本に仕立てたような作品。もっとも、そのレギオン郡隊の場面が『エイリアン2』のエイリアンの群れが装甲車を襲う場面を元ネタにしていると言われたらそれまでなのだが。ボスキャラが『ゴジラ×メガギラス』のメガギラスみたいなのは、むしろ必然か。
 2003年製作と言うこともあるが、プロップもCGも『ガメラ』や『ゴジラ』よりもクオリティが高い。限られた予算の中で一定以上のクオリティを確保する、あるいはクオリティを確保できるラインから物語の規模を逆算するという手法の成果だろう。
 所詮低予算のクリーチャー作品だが、アメリカの映像製作の底辺の確かさを見た気がする。

こんなヒーロー番組が観たい!

こんなヒーロー番組が観たい!

サラリーマンのお父さんが変身して透明になって街の中で戦う!

 柔道の金メダリスト(五輪)・世界選手権優勝者には、サラリーマンが結構いる。
 彼らは、普段は普通に背広を着て、一般人に紛れて通勤しているのだろうか?
 路上の戦いを考えたら、格闘技の中では柔道が最も実戦的である。相手の服を掴み、背中ではなく頭から固い路上に投げ落とせば、その瞬間に勝負は決まる。柔道の殺傷能力は、畳の試合場やリングという特殊な舞台ではなく、路上という日常空間において発揮されるのだ。
 そんな「素手で人を殺せる」能力において「世界一」である男が、毎朝何食わぬ顔で背広に身を包み、一般人の群れに混ざって会社へと出勤する。
 考えてみれば、凄いことだ。
 ヒーローに変身できる男が、毎朝電車で通勤しているのと同じくらい、凄いことだと私には思える。
 そして、そんなヒーロー番組を観てみたい、と思う。

 ヒーローに変身する男が、普段は背広を着て一般人に混じって通勤する。
 普通のビル街にある、とある警備会社のビルへと入る。ビルの中の様子は、一見普通の会社と変わらない。しかし、男が幾つかのチェックポイントを経由して幾つ目かの扉を開くと、突然「地球防衛軍本部」みたいな非日常空間が登場する。
 『謎の円盤UFO』を、純日本風にしたようなイメージである。
 その非日常空間を、背広姿のまま横切って行き、更衣室に入る。そこで背広から「地球防衛軍隊員」みたいなコスチュームに着替える。この辺りは、『バットマン』の感覚か。何食わぬ顔でサラリーマンという「日常」を脱ぎ捨て、「ヒーローの前段階」へと着替えるわけだ。

 もちろん、世間一般には、彼が変身ヒーローであることは秘密である。彼には家族がいるが、彼の親や子供にも彼がヒーローであることは明かされていない。知っているのは妻だけだ。
「パパは、実はヒーローなんだよ! でもママ以外には秘密にしておかなければいけないんだ!」
というジレンマを抱えるというパターン。
 もちろん、番組の視聴者である子供から見たら、「(この)お父さんはヒーロー」であることは明白。もちろん、彼らに「もしかしたら、僕のお父さんも…」と思ってもらうのが狙いだ。あるいは、通勤中のサラリーマンを見て、「もしかして、あのおじさん…」と思ってもらう。
 「サラリーマン増税」という言葉があるくらい、サラリーマンは社会における多数派である。多数派ゆえにその中に埋没している個々のサラリーマンに対し、「ヒーロー化」という夢を見せる番組があっても良いのではないかと思う。と言うか、それを観たいというワケ。

 観たいもう一つの要素は、サラリーマン(会社)という設定の持つ、完成されたリアリティである。
 例えば、『仮面ライダー響鬼』に登場する猛士や鬼の設定には、中途半端なリアリティしか感じられない。劇中に登場する「たちばな」という店自体にはリアリティがあるが、それが猛士という全国組織の一部であるというリアリティがないのだ。このことは、『仮面ライダークウガ』を引き合いに出すと分りやすい。『クウガ』には「ポレポレ」という店が登場しているが、『響鬼』の「たちばな」のリアリティは、それと基本的には同質・同程度なのである。
 クウガの乗る特殊なバイクが、「ポレポレ」の背後に存在する大きな組織から提供されたものであったら、視聴者の目にはどう映っただろうか。「ポレポレ」とバイクを結び付けるものを最初から描き込んでいない限り、リアリティを感じないだろう。実際の劇中では、クウガの乗る特殊なバイクは警察から提供されている。だからデザインはともかく、その存在や提供の経緯には説得力があった。
 バイクだけではない。『仮面ライダークウガ』という「ヒーロー番組」のリアリティは、警察という実在する全国組織を背後に持ってきたことで成立している。「ポレポレ」という店の描写は、「ヒーローの生活感」という部分のリアリティを分担しているに過ぎない。ヒーローをバックアップする組織として警察を登場させ、それ自体を舞台として描き込むことで、「ヒーローの存在感」というより重要な部分のリアリティを生み出していたのだ。
 『響鬼』では、鬼のシフト表が出てきたので「これはリアルだ」と思ったら、主人公のヒビキは特別遊撃班となってシフトとは無関係になってしまう。彼が「組織」の一員であるというリアリティが感じられない。主人公の振る舞いを通して組織のリアリティを垣間見るというシーンがない。組織を背後にしたヒーローであるにもかかわらず、いつまでたってもキャラクターという「点」同士を「線」で結ぶといったリアリティしか描かれない。

 会社という組織には、警察同様、最初から「面」あるいは「立体」としてのリアリティがある。
 例えば、ホンダという会社。人型ロボットが公表されたときには、世間を大いに驚かせた。中に人が入っているのではないかと思える程の技術力もさることながら、「こんな利益に直結しないことに、いったい幾らのカネを注ぎ込んできたんだ?」という驚きもあっただろう。
 しかし、エンターテインメント・警備・介護という分野において、人型ロボット(またはそこから派生する技術)の需要が将来的に有望であることに気付けば、驚きは納得に変わる。
 企業とは、このように懐が深く、劇中のリアリティを創出するには便利な「装置」として機能する。上手く使えば、「扉を開けたら、いきなり地球防衛軍本部」というケレンを支えることも、充分に可能である。

 「会社」ではなく、会社に偽装した「実は会社ではないもの」という設定も面白いだろう。
 敵もヒーローも街中では『プレデター』のように不可視になるとかの設定には、オーバーテクノロジーという設定の導入が必要になる。社長が実は、ワケありで地球に滞在している宇宙人だというケレン味も、ヒーロー番組なら有りだろう。
 ヒーローが街中では不可視になるという設定は、変身プロセスにもリンクできる。
 例えば、「故障中」の張り紙が貼ってある自動販売機がガバッと開き、ヒーローの装着変身システムになる。その際、周囲にはカモフラージュ用の立体映像が投影され、結果的に第三者には不可視となる…という具合だ。
 視聴者にもヒーローの姿が見えないのでは問題なので、特殊なモニターでは可視化されるということにする。モニター越しの映像が、そのまま視聴者の視点に重なる演出をすれば、面白い映像が創れると思う。
 街中でヒーローが怪人と激闘を繰り広げているのだが、通行人にはヒーローも怪人の姿も見えていない(透明人間同士のバトル。当事者同士は互いに視認できている)。もちろん、バトルは不可視化されていても周囲への物理的影響は消せない。第三者的な視点では、突然ビルのガラス窓が割れたり壁が壊れたりする。そこで、「ワッ、何だコレ?!」というリアクションが生まれる。

 サラリーマンのお父さんの勤め先は、実は(秘密の)地球防衛組織!
会社でヒーローに変身したお父さんは、透明になって街の中で怪人と戦う!
 首尾よく怪人を倒すと特別手当が貰えるが、ビルを壊したりすると自腹で弁償しなければならない(給料から差し引かれる)ので大変だ!
 戦え、サラリーマン! 頑張れ、お父さん!
 そんな感じのヒーロー番組を観てみたい!!

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震電

震電

 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。