2017-06

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コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その9)

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その9)


「周囲の人々に迷惑をかけてもいいから、私を応援しろ!」と言ったのか?

 そして、これもまた当然のことであるが、
 「例え、アーティストが喜ぶこと(アーティストに対する応援)であっても、他の客に迷惑がかかることは行わない」
 しょこたん(中川翔子)もどこかで言っていたが、「それが大人のマナー」だ。
「しょこたんが喜ぶこと(しょこたんに対する応援)なら、他の客に迷惑をかけても許される」
などという思い込みは大間違いである。

 第一、しょこたんが、
「周囲のお客さんに迷惑をかけても構わないから、派手な応援をして欲しい」
などと、本気で望んでいるとは到底思えない。


 一見そう取れるような発言をしょこたんがするのは、しょこたんが「派手な応援行為は、他のお客さんに迷惑をかけるおそれがある」という点に気付いていないからであろう。

 そもそも、コンサートは基本的に「アーティストが客に対してサービスを提供する」場であって、「客がアーティストに対してサービスを提供する」場ではない。もしコンサートが「客がアーティストに対してサービスを提供する(客がアーティストを喜ばせる)」ことを基本とするものであるならば、コンサート主催者は会場に来た客に対して金を支払うべきだろう。

 (一般の)コンサートにおいて、
「アーティストを喜ばせよう(応援しよう)」とすることで「アーティストの“パフォーマンス”が全ての客に行き届かなくなる」
などといったことは、絶対にあってはならない。


そんなことが許されるのは、「ファンの有志が自費でアーティストを招いた、プライベートなイベント」の場だけである。

 繰り返すが、アーティストがコンサートにおいて最優先で行うべきことは、「会場に来ている全ての客に、自分のパフォーマンスを届けること」である。
 
 まずは、自分のパフォーマンスだけで、観客を満足させ、会場を盛り上げる。それがアーティストに課せられた使命であり、自らのプライドにかけて成し遂げるべきことであろう。
 それを自ら放棄し、最初からファンの力に頼ってライブを盛り上げようとするアーティストがいるとしたら、その人は真のプロとは呼べないし、自分の歌を愛していない。

 観客が、他の観客の権利を侵害してはならない。
 ましてや、アーティストや主催者側が観客の権利を侵害してはならないし、権利の侵害を助長する指示をすることがあってはならない。

 一部の客がより盛り上がることで、それ以外の客が犠牲になることなど、あってはならないのだ。

 アーティストが「観客から喜びを与えてもらう」のは、アーティストが「全ての観客に喜びを与えた」後の話である。
 あるいは、アーティストにとって「全ての観客に喜びを与えている」ときこそ、「観客と喜びを共有している(お互いに喜びを授受している)」時間なのかも知れない。
 そういう時間が生み出せるよう、客も協力する。それが即ち、マナーを守るということなのだ。
 私には、これが難しいことだとは思えない。

                                   《 終わり 》
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コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その8)

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その8)


         「金を払ったら何をしても許される」わけがない

 「周りの客に迷惑が掛からない範囲で何かをする」
 そんな当たり前のことが、難しいわけがない。
 例えば、私がしょこたん(中川翔子)のコンサート(5月)で行った、「聴く・観る」以外の行為は以下の通りである。

(1)適切な範囲における拍手、手拍子(バラードでは手拍子しない)
(2)サイリウムを自分の胸の高さ(喉の高さ以下)で振る(横幅および前後幅は自分の席の幅)
(3)自分の座席の幅範囲において、身体でリズムを取ったり、踊ったりする
(4)『We can do it !』の「Happy smile! Lucy smile! …」の部分で声を出す(音源に入って
  いる音声に自分の声を被せるだけで、しょこたんの歌声には被せない)
(5)『みつばちのささやき』で「しょうこー!」と叫ぶ、いわゆる合いの手(しょこたんの歌声には被
  せない)
(6)『ロマンティックあげるよ』で、“男子担当部”の歌唱
(7)特に好きな歌に関して、客席でクチパク(適時にブレスケアを服用)

 なお、PPPHに関しては、手拍子以外は行っていない(ジャンプや「ヒュー」の発声はしていない)
 上記の中で周囲に迷惑をかけた可能性があるのは、(5)だけだと思う。今回は周囲からネガティブな反応がなかったので行ったが、今後そういう反応があったらすぐに止める。注意されるに至った場合は、すぐに止めるのはもちろん、その場で謝る。

 ちなみに(5)は、ファーストコンサートにおいて、「それが不快ではなく、むしろ、歌っているしょこたんのアイドルっぽい雰囲気を増幅させる効果がある」ことを第三者として客観的に確認したので、5月のコンサートでは自分もやってみた。
 『みつばちのささやき』は言うなればアイドル歌謡であり、楽曲の雰囲気的にも曲中のタイミング的にも、合いの手(「しょうこー!」)を入れることが不自然にならないと思う。『みつばちのささやき』という楽曲が、音楽的に合いの手を許容する構造になっている(合いの手が曲調を乱さない)という判断である。もちろん、「しょこたんの歌声に被らないこと」が、大前提として存在する。

 しかし既に書いた通り、この行為を、他の観客に不愉快な思いをさせてまで行うつもりは毛頭ない。例えしょこたんの歌声に被せていないコールでも、他の観客に不快感を与えればそれは即ち迷惑行為である。「しょこたんの歌声に被せなければ、何をしても許されるというわけではない」のは当然である。

 例えば、MIXと呼ばれる行為は曲の前奏または間奏に行われるが、端的に言って「数人の客が発する、ただうるさいだけの、単なる騒音(妨害音声発生行為)」であり、周囲の客にとっては迷惑以外の何物でもない。前奏や間奏は楽曲の一部なのだ。そこに、楽曲とは全く関係ない怒鳴り声を被せる行為は、音楽を無視した行為、音楽に対する破壊行為であり、少なくともしょこたんのコンサートで許される行為ではない。

 これに対し、ベリーズ(Berryz工房)のコンサートにおいて、『スッペシャル ジェネレ~ション』の前奏で客が「ス! ペ! スッペッシャッル ジェネレ~ショ~ン!」と叫ぶことは、許容されると思う。この「ス! ペ! スッペッシャッル…」は曲に元々入っているコーラス(音源に入っている音声)であり、客はそれに合わせて叫んでいるからである。
 このように、ある意味「客がコーラスに参加する」と言える場合は、一定の範囲において許されるのではないかと思う(ステージ上で歌手が生でコーラスを行っている場合は、この許容範囲が最小レベルまで狭まる)。

 ただし、その場合でも客は乱暴に「大声を張り上げる(怒鳴り声を上げる)」のではなく、ほどほどの音量に留めるべきだ。そして、出来るだけキレイな声を出すように努力するべきである。私も「しょうこー!」とコールする場合はそうしているし、自分の声が濁っている(荒れている)と感じたときは、すぐにコールを止めるようにしている。
 例えタイミングとしてはOKでも、声そのものが耳障りであったら、やはり他人にとってそれは不愉快であり、迷惑なのである。

                                《 続く 》

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その7)

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その7)


                   コンサートの定義

 異なる集団同士に共通の認識基盤が存在しないのであれば、両者にまたがるマナーなど幻想である。ここで、もう一度、理性の観点に戻ってみよう。コンサートを定義し、その「定義の違い」を認識するところから始めるのだ。

 欲求はコントロール出来なくても、定義はコントロールできる。欲求そのものはコントロール出来なくても、定義という枠に入れることでコントロールが可能になるのだ。

 例えば、食欲そのものはコントロール出来ない場合でも、それを摂取カロリーという定義に収めれば、コントロールが可能になったりする。
 コンサートもそれと同じで、定義することがコントロールへの可能性を開く。
 あるいはそれは、自分自身を定義することの一部なのかも知れない。


             コンサートの定義から導かれるマナー

 金を払ってチケットを買い、コンサートに脚を運ぶ。
 私がそうする理由は、プロのアーティストから、“ステージ上のパフォーマンス”(以下、“パフォーマンス”と記す)というサービスを受けるためである。“パフォーマンス”とは、生歌だったりダンスだったり、あるいは笑顔だったりする。

 私が定義する「プロのコンサート」とは、

「アーティストが全ての観客に対し、“パフォーマンス”というサービスを提供する催し」
(あるいは
「観客が支払ったチケット代金の対価として、アーティストが芸を披露する催し」)

という、ごく一般的なものである。
 観客は、チケットを買ってコンサートに来た以上、アーティストから“パフォーマンス”というサービスを受ける権利がある。観客は、「そういった権利を買っている」とも言える。
 そういう観客全てに対し、アーティストは“パフォーマンス”というサービスを提供する義務がある。アーティストは、チケットを買った観客と、「そういった契約を交わしている」とも言える。

 当たり前のことであるが、
「アーティストの歌声を聞く(演奏される楽器の音を聴く)、アーティストの姿(動き)を見る」
ことは、チケットを買ってコンサートに来た観客の全員に保障された権利であり、何人たりともこの権利を侵害してはならないのだ。

 “声を出し続けるPPPH”などの、「歌手の歌声を聴くことの妨げとなる行為」は、当然ながら「歌手の歌声を聴く権利」を侵害するものである。一般的なコンサートでは、マナー違反となり、禁止行為と定義されるのが当然である。

 例外的に“声を出し続けるPPPH”が許されるコンサートがあるとしたら、それは次のようなコンサートだろう。

(1)歌手がコンサートで生歌を歌っておらず、機械的に再生された音源に合わせてクチパクを行っていることが、チケット購入時に公式に明示されている場合
(2)歌手は生歌を歌っているものの、下手くそであり、圧倒的多数の客にとって聴くに値しないことが明らかな場合
(3)コンサートにおいて“声を出し続けるPPPH”が許されることが、チケット購入時に公式に明示されている場合

 うちわ・サイリウムの束・スケッチブックを高く掲げるなどの、「歌手の姿を見ることの妨げとなる行為」についても、同様である。

 コンサートでは、「アーティストの“パフォーマンス”が全ての客に行き届くこと」を、何よりも優先させなければならない。
 それが達成され、維持されている状態で、初めて次のステップに進むことが出来る。
客が「ライブを盛り上げよう」とか、「アーティストを喜ばせよう」とか考えるのは、二の次なのである。

 「ライブを盛り上げよう」として、「アーティストの“パフォーマンス”が全ての客に行き届かなくなる」などといったことは、絶対にあってはならない。

 そしてこれは、全然難しいことではないのだ。

                            《 続く 》

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その6)

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その6)


     “ハイ”になるスイッチを入れる手段としてのコンサート

 今度はもう一度、(比較2)について触れてみよう。
 
(比較2)自分が客席で身体を動かすことと、ステージ上のアーティストの姿を見ることの、どちらが重要なのか

  (A2)ステージ上のアーティストの姿を見ることの方が重要
  (B2)自分が客席で身体を動かすことの方が重要
  (C2)そのどちらでもなく、自分がアーティストからレスをもらう
      ことの方が重要


 さて、コンサート中、観客が客席でジャンプすることがある。
 ジャンプを行う観客は、(B2)であると言えるのだろうか。
 それは、その観客の状態で決まる。

 夢中になってピョンピョン飛び跳ねている観客は、(B2)。
 もう少し詳しく言うと、我を忘れるほど興奮し、連続してジャンプして、それで我に返らない観客は(B2)。
 こういう観客は
「ステージ上のアーティストの姿を見ている楽しみ」
よりも、
「自分が飛び跳ねていることの楽しみ」
が上回っている状態にある。自分では意識していない場合も多いだろうが、この状態では既に
「ステージ上のアーティストの存在」
は重要ではなく、
「自分がジャンプしていることの快感」
を貪っているにすぎない。言うなれば“ジャンピング・ハイ”の状態である。

 コンサート中、我を忘れて興奮するという経験は、多くの人が有しているだろう。しかし、その興奮には2種類あるのだ。即ち、

(興奮1)…「アーティストを観ている快感による興奮」
(興奮2)…「(興奮1)で“スイッチ”が入った結果、別の興奮状態に推移し、それが(興奮1)に取って代わる」

である。
 (B2)である観客のジャンプ行為の場合、最初は「アーティストを観ていることによる興奮」によってジャンプを始めるが、興奮が一定のレベルを超えて「スイッチが入った」状態(ジャンピング・ハイ)になると、もう「ジャンプしていること自体が快感」となり、「アーティストが見えているかどうか」は問題ではなくなるのだ。

 つまり、一度このスイッチが入ると、アーティストの存在は重要ではなくなるので、その観客はアーティストを無視した行動を取るようになる。しかし、この状態は「アーティストを観ていることによる興奮」から導入されているので、自分ではアーティストを無視した行動を取っているという自覚が出にくい。

 そして問題となるのは、この「スイッチ」の入り易さである。
 多くの場合、この「スイッチ」は、だんだん入り易くなると思われる。
 コンサートの(あるいは楽曲の)早い段階でこの「スイッチ」が入るようになればなるほど、アーティストの存在する必要性が低くなる。つまり、アーティストを無視した行動が、徐々にエスカレートしていく。

 こうして、「アーティストのパフォーマンスを鑑賞する」ためではなく、「自分が騒ぐ」ためにコンサート会場に来る客が発生する。
 ちなみに、こうした客はボクシングの会場にも存在する。ボクサーのタイプ、戦術、技術的あるいは精神的な攻防、試合内容の優劣といったものを全て無視し、ただ人間が殴り合っている様子を見て騒ぎただけの輩が。

 では、(A2)タイプの客が、我を忘れて興奮すると、どうなるのか?
 いわゆる「縦ノリ」とか「縦揺れ」と呼ばれる状態となるのだ。
 つまり、身体を小刻みに上下させるが、ジャンプには至らない動きである。
 私の経験では、 → こんな状態 だった。
 決して、ピョンピョン跳ね続けたりはしない。そんなことをしたら、視界が大きく上下に揺れて、ステージ上のアーティストの姿が観辛くなってしまうからだ。(ボンブラのライブでPV撮影があった際、演出に協力する意味で連続ジャンプをした経験があるので分かる)

                                   《 続く 》

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その5)

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その5)


         何を楽しみにコンサート会場に来ているのか

 ここでもう一度、“常に声を出し続けるPPPH”を例にしてみよう。
 (A)タイプは、楽曲をきいたとき、先ず歌詞やメロディの良し悪しを考えたり感じたりして楽しむ。そして、何度か聴いているうちに「この曲はコンサート向きの曲(コンサートで盛り上り易い曲)だな」と思ったりする。

 しかし、(B)タイプはそうではない。楽曲を聴いたとき、先ず最初に
「ここからここまで、PPPHを入れることが出来る」
「ここに○○というコールを入れることが出来る」
ということを想像し、それを楽しみとするのだ。

 逆に言えば、PPPHやコールを入れることが出来ない楽曲は、基本的には楽しめないということになる。楽曲の価値は、
「どれだけ気持ちよくPPPHを入れられるか否か」
「どれだけ気持ちよくコールを入れられるタイミング(構造)が有るか否か」
にかかってくるのだ。
 この時点で既に、本人には自覚はなくても、楽曲を「PPPHやコールを入れるための素材」と見做しているのである。

 だから(B)タイプは、コンサートに行っても「楽曲を聴くこと自体が楽しい」のではなく、「歌にPPPHを入れたりコールを入れたりする、自分の行為自体が楽しい」のだ。
 これが進行すると、コンサート全体が「自分が騒ぐための手段」となる。
 このように、「騒ぐことを楽しみにしてコンサート会場に来ている」のが(B)タイプである。
 だから、騒ぐことが禁止されたら、(B)タイプはコンサート会場には来なくなるだろう。

 「レスを貰うことを楽しみににしてコンサート会場に来ている」のが(C)タイプである。
 「レスを貰うことは禁止」ということは有り得ない。何故なら、「レスを貰うこと」は、基本的には個人の内部で自己完結する認識行為であるからだ。
 よって、騒ぐことが禁止されても、そこにアイドルが存在して「レスが貰える」限り、(C)タイプにとってコンサート会場に行く価値は不動である。

 (A)タイプは、「騒ぐことでもなく、レスを貰うことでもなく、アーティストのパフォーマンスを鑑賞すること自体を楽しみにしてコンサート会場に来ている」。だから、騒ぐことが禁止されても、コンサート会場に来る。クラシックコンサートでは、最初からそれが当然である。

 このように、「何を重要視しているのか」という理性は、「何を楽しみにしているのか」という欲望の投影でもある。
 最終的にマナーの問題というのは、観客が「何を楽しみにコンサート会場に来ているのか」という根源的欲求の違いに行き着く。(A)、(B)、(C)タイプの観客のいずれも、マナーとはこの自分の欲求を満たすためのガイドラインであると考えるのである。

 欲求の立脚点の異なる者同士が、それに基づくガイドラインを共有することは難しい。
 更に突き詰めると、自分の欲求の立脚点が何処なのかを正確に自覚していない者は、ガイドラインという概念、即ちマナー意識を持つことすら困難である。何故なら、「自覚、即ち自分を意識できないものが、他人の意識を認識できるわけがない」からである。

                                   《 続く 》

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その4)

コンサート、ライブにおけるマナーに関して(その4)


 「何を重要視するのか」にはもう1つ別のタイプがある。
 「レスを貰うことを重要視する」タイプだ。

 「レスを貰う」とは、「ステージ上のアーティストが、大勢いる観客の1人に過ぎない自分を特定して注目し、何らかの反応を示してくれる」状態を指す。例えば、「ステージ上のアーティストに対し、自分が客席から手を振ったら、アーティストが自分だけに注目して手を振ってくれた」と思える状態が発生した場合、「レスを貰えた」ことになる。
 このタイプを、先ほどの比較の中に追加してみよう。

(比較1)自分が大声を出すことと、歌手の歌を聴くことの、どちらが重要なのか

  (A1)歌手の歌声を聴くことの方が重要
  (B1)自分が大声を出すことの方が重要
   (C1)そのどちらでもなく、自分がアーティストからレスをもらう
      ことの方が重要



(比較2)自分が客席で身体を動かすことと、ステージ上のアーティストの姿を見ることの、どちらが重要なのか

  (A2)ステージ上のアーティストの姿を見ることの方が重要
  (B2)自分が客席で身体を動かすことの方が重要
  (C2)そのどちらでもなく、自分がアーティストからレスをもらう
      ことの方が重要


 (C)タイプの客が大声を出し続けてPPPHしていようが、激しく踊っていようが、それはPPPHが楽しいからでもなければ踊りが楽しいからでもない。どちらも、「レスを貰う」ための手段に過ぎないのだ。
 客席で騒ぐのが楽しいから騒いでいるのではなく、飽くまでも、レスを貰いたいがために騒いでいるのである。もし、「直立不動で歌を聴いているとレスを貰える」ことが分かれば、直ちに騒ぐのを止めて直立不動になることを選ぶのが(C)タイプなのだ。

 これに対し、(B)タイプは、単純に「騒ぐのが楽しいから騒いでいる」のであり、突き詰めればステージ上にいるアーティストの存在は、「自分が騒ぐための方便(都合の良い手段)」に過ぎない。
 (B)タイプは程度の差こそあれ、そういうゴールに向かうレールの上の乗ったトロッコのようなものだ。自分でも気付かないうちに、「ステージ上のアーティストこそが主役」という立場から、「ステージ上のアーティストは、自分が楽しく騒ぐための舞台演出装置の一部」という立場へと移行していく。

                                   《 続く 》
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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。

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