2017-10

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特撮バトル考1 「超“人”技 と 超“獣”技」

特撮バトル考1 「超“人”技 と 超“獣”技」

 【2003年3月16(日)頃に書いたもの】

 以前、ある方が『仮面ライダークウガ』のバイクアクションに関して、「人間業の域を出ていない」とコメントされたのを憶えています。当時、『筋肉番付』か何かで、マウンテンバイクの小学生チャンピオンの妙技が披露されたりしていたので、私もナルホドそうだと思いました。

 クウガのスーツアクターが、視界の悪い面を付けてチャンピオンクラスの技を披露した場合、それは人間の競技者という観点からすれば超人技ということになるかもしれません。しかし、劇中のクウガは、人間を遥かに超える身体能力を持つ超人です。人間のチャンピオンクラスの技を駆使しても、それが既知の技であった場合、「凄い!」とはなりません。
 これは、仮面ライダーが、人間の空手家のように拳で瓦や木板を破壊しても驚嘆の対象にはならないのと同じ。仮面ライダーの拳は、分厚いコンクリートや鉄板を破壊しなければ「凄い!」とはならないわけです。
  
 洋画では、既存の生物が巨大化したモンスターを扱った作品が伝統的に作られ続けているようですが、これらのモンスターの属性は、基本的には元になった生物と同じである場合が多いようです。
 キングコングも、骨格の違いetcを無視して大雑把に言えば、巨大化したゴリラ。オリジナルのキングコングには、ゴジラの放射火焔能力のような特殊能力はありません。日本の怪獣ファンの中には、こういった“巨大化したモンスター”を、“怪獣”とは別物だと見なす向きもあるようです。

 怪獣にも、超“人”技 ならぬ、超“獣”技 が求められるのが、日本の風潮なのでしょうか?

 しかし、初代ラドンは劇中で「巨大化したプテラノドン」である可能性が示唆されていますし、アンギラスは、実在したアンキロサウスルそのものとされています。キングコング同様、「巨大化したモンスター」以上の特殊能力は持っていません(ラドンはガスを吐くカットがありましたが、ほとんど無意味)。
 クモンガ、カマキラスといった怪獣に至っては、洋画の「巨大化したモンスター」と同類のキャラクターと言っていいでしょう。エビラ、モスラも一見すると「巨大なエビ」、「巨大な蛾(の幼虫)」であり、その能力もモチーフとなった生物の属性のもの。日本の怪獣のコンセプトが「巨大化したモンスター」を忌み嫌っているわけではなさそうです。

 トラゴジことトライスター版ゴジラを批判する意見の主なものに、「デザイン(動き)が違う」、「放射火焔を吐かない」、「通常兵器に対する耐久性が低い」があります。この三つは、一見「ゴジラは恐竜のような単なる巨大生物ではない」という考えに基づいているように見えます。
 しかし、「超“獣”技」という観点からすると、戦闘ヘリ部隊を全滅させたり、ビルや道路をブチ抜いたり、パワーブレスで戦闘車両を吹き飛ばしたり、背びれで攻撃型潜水艦を切り裂いたりするなど、それなりのパフォーマンスを見せています。こんなことが、「恐竜のような単なる巨大生物」に出来るわけがありません。『ジュラシックパーク』の恐竜と比較すれば、その差は歴然。
また、ちゃんとした放射火焔をたった一度しか吐かなかった『三大怪獣』のゴジラと比較しても、トラゴジが「超“獣”技」に乏しかったとは思えません。

 怪獣の、「超“獣”技」の評価が、攻めよりも守り、プロレスで言う「技を受ける」ことを重視していると考えると、トラゴジの評価に対する疑問が理解できます。「怪獣は、芸のない攻撃で倒されてはならない」のです。
 「最新式戦闘機による空からの攻撃=強い米国の誇る切り札=世界最強の象徴」も、日本人にとっては「ただミサイルを撃っただけの、実にありがちな攻撃」。
 ラドンやバランが軍隊の通常兵器によって事実上倒されたのは、昔の話。今日の怪獣は、「受けの強さ」という「超“獣”技」で、通常兵器の攻撃には耐え抜かねばならないのです。
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日本のゴジラの「非生物3原則」

日本のゴジラの「非生物3原則」

  【2002年6月4日(火)頃に書いたもの】

 日本のゴジラに関しては、生物だということは建て前で良い。
 逆に、アメリカのゴジラ(トラゴジ)は、2作目以降も生物だという本音ベースでやっていく方が良い。

 私が子供の頃初めて観た『対ヘドラ』のゴジラは、“大自然の怒りの象徴”であった。子供心に、ゴジラの怒りは一匹の野生動物としての怒りではなく、大自然そのものの怒りだと感じられた。ゴジラがヘドラとの戦いで傷を負っていく姿を、大自然が公害によって傷つけられている姿と重ねて見るというのは後年の解釈であるが、感覚的には当時も近いものがあったと思う。
 ゴジラがラストシーンで人間たちを睨み付けたとき、
「本当に悪いのは人間(ヘドラを怪獣化させた責任は人間にある)ということを、ゴジラは知っている!」
と、当時の私は直感した。あそこでゴジラが人間を踏み潰したとしても、理はゴジラにある。あの瞬間、私は“大自然の怒りの象徴”であるゴジラが、公害を垂れ流す人間たちに天罰を下すことを覚悟していた。しかし、荒ぶる神は天罰を下すことなく、大自然の代名詞・生命の源である海へと帰って行った…そんなイメージである。
 人間を踏み潰すことができたにもかかわらず、あえてそれをせずに帰って行ったゴジラは、単なる“戦う存在(破壊をもたらす存在)”ではなく(“大自然の怒りの象徴”であると同時に)“心を宿した荒ぶる神”として、私の心に焼き付けられた。

 この『対ヘドラ』のゴジラのイメージが強烈に刷り込まれた私は、翌年『対ガイガン』において、傷付き血を流すゴジラの姿を見ても、そこに生物感を感じることはなく、“肉体を宿した神”・“血を流す神”といった、ある種神聖な感覚を抱いていた。神仏を形取った偶像が、血や涙を流すという逸話を聞いたことがあるが、自分の中ではその感覚に通じるものがあるように思う。

 後年になってゴジラ第1作目を観ても、ゴジラは“ジュラ紀の生物”ではなく、“ジュラ紀の生物”の姿を借りた“大自然の怒りが具現化した存在=荒ぶる神”なのだという意識はそのまま残った。それどころか、“戦争・戦災・核兵器のメタファー”という要素が新たに加えられたことで、「ゴジラは生物そのものではない」・「ゴジラが生物であるというのは建て前である」という捉え方は、より強固なものとなった。

 そもそも、「海棲爬虫類から陸上獣類へ進化する中間の生物」が、あんなにガッシリとした脚を持っているはずはない(魚類から両生類へ進化する中間の生物から類推すれば明らか)。普通に考えれば、これとは全く逆の「直立2足歩行する恐竜の一種が、海棲獣類へ進化する中間の生物」となるはずである。あえてそうしなかったのは、「直立2足歩行する恐竜の一種」といったような、ある意味正体が割れた形でゴジラを説明することを避けたかったからなのだと思う。
 三葉虫やストロンチウムの件も、鯨の体から同様のものが見つかったとしたら、全く別の解釈が行われるはず(たまたま、汚染された海域を通過したetc)である。
 単にゴジラに付着していた砂から放射能が確認されたに過ぎないにもかかわらず、あたかも「ゴジラが原水爆の直撃を受けても生き延びた」という既成事実が存在するかのごとく語る件からは、山根博士が放射能ならぬ狂気を帯びていることを感じさせる。

 山根博士によって語られるゴジラの属性が、博士個人の思い入れによる一種の妄想かどうかは別にして、「ジュラ紀の生物」と言いつつ「200万年前」という年代を持ち出した理由は、原作者が明らかにしている。ゴジラに人類のメタファーとしての属性を持たせる思いが込められているのだ。ゴジラが由来のはっきりした明確な生物ではなく、正体が定まらない謎めいた存在として世に送り出されたとする認識は、間違っていないと思う。

 VSシリーズや『ミレニアム』で提示されたゴジラ細胞というアイディアは、それ自体は面白いと思うが、ゴジラを細胞から構成された生物だと明確に限定してしまう弊害も派生させる。細胞レベルで分析が可能ということは、ゴジラの皮膚などの体組織を、細胞レベルにまで加工することが可能だということに他ならない。
 それに並行した(それ以前?)の問題として、ANB弾、Gクラッシャー、フルメタルミサイルといった、ゴジラの皮膚を貫通できる武器を大量に命中させ、その体内で弾頭を爆発させれば、いかに大型とはいえ所詮動物であるゴジラが生き延びる術はないということが挙げられる。人間の力で細胞にまで還元できる限定された肉体しか持ち得ないゴジラは、最終的にはトラゴジと同じ運命を辿るしかなくなるのだ。

 日本のゴジラには具体的な生物としての属性は与えず、あいまいな存在として描いたほうが良いと思う。すなわち、

 生物として「生まず」・「生まれず」・「生み出されず」
 あるいは、肉体やその一部を「残さず」・「採取されず」・「分析されず」

といった「非生物3原則」を標準にして欲しい。裏を返せば、この標準が主流として守られてこそ、たまにこの標準から外れたゴジラ映画が造られたとき、それが異色の佳作になり得るのである。

 トラゴジは、日本の「ゴジラ細胞を持つ超生物」的な矛盾を抱えた中途半端なゴジラとは違い、「人間の作り出した核兵器によって生まれてしまった特異な巨大生物」であることに徹しており、その意味で洗練されたゴジラになっている。
 トラゴジは、生物であることの弱点を自然に備えた“ナチュラルなゴジラ”であることが魅力になるような描き方をして欲しい。平成ガメラ1でのガメラのように「傷付いた肉体を海底温泉?で癒す」といったシーンが、トラゴジには良く似合うと思う。
 「親トラゴジが生まれた子供トラゴジに餌を与える」といったシーンなど、一生物としてのゴジラの姿が普通に描けることがトラゴジの強みだろう。野生動物なのだから、満腹になれば案外おとなしいのかもしれない、とか…。

 ビルがあったら破壊しなけばならないといった縛りがある感の日本のゴジラには出来ないことを、アメリカのゴジラがやってくれることを期待している。

怪獣映画ヲ「見立て」デ 語ルベカラズ

怪獣映画ヲ「見立て」デ 語ルベカラズ

2002年5月6日(月)頃に書いたもの

 舞台の演出として、細かい紙切れが舞台の上から降ってきたとき、観客は、あるときはそれを春に舞う桜の花びらに、あるときは冬空から舞い降る雪に見立てます。例えそれが、どちらも全く同じ細かい紙切れだったとしても。
 舞台の上に机が一つしかなくても、そこが都会ビルにある会社のオフィスの一角だと見立てることがあります。
「ビルの中のオフィスなら、机が一つしかないわけないだろう。それに、ビルの窓のセットがないのは変じゃないか」
などと、野暮なことは言いません。
 海岸に面した松林という舞台設定でも、本物の松の木を舞台セットに持ち込むことを観客は最初から求めていませんし、本物の海のように波打つ海のセットを舞台に組むことは、まずないでしょう。

 よっぽど酷ければ話は別ですが、セットとして一定の完成度に達していれば、チャチか、チャチでないか、リアルか、リアルでないか、そんなことは舞台では問題視されません。それどころか、セットが全く存在しない舞台もあります。
 また、日本の伝統芸能の中には黒子という補助役または操作者が存在することがありますが、観客は原則として黒子は「見えないものとして認識」します。これも見立ての一種と言えるでしょう。
 これと同様に、日本の怪獣映画、特撮作品に関しても

・ミニチュアのビルや山や乗り物が、ミニチュアであることが丸分りで、とても本物には見えない場合でも、「日本特撮とは、こういうものだ」という認識で、本物のビルや山や乗り物であると「見立て」る。

・着ぐるみの巨大怪獣や巨大ヒーローがほぼ等身大の着ぐるみであることが丸分りで、中に人間が入っているとしか見えない場合でも、「日本特撮とは、こういうものだ」という認識で、それが巨大な怪獣や巨大ヒーローであると「見立て」る。

・プールの中でゴジラの着ぐるみがバチャバチャやっているとしか見えない場合でも、「日本のゴジラとは、こういうものだ」という認識で、海で身長数十メートルのゴジラが動いていると「見立て」る。

 「怪獣映画は着ぐるみを使った日本独特の伝統芸能だ」といったコメント(冗談や揶揄ではない)が、TVニュースで流れたのを聞いたことがあります。
 しかし、日本特撮が海外のニュースで紹介されたとき、
「この一見お粗末な特撮は、この国の伝統芸能だ」
とコメントされたとしたら、特撮ファン以外の日本人は憤慨するかもしれません。第一、海外の特撮系の作品で特撮がチャチだったとしても「これは伝統芸能だから」といったフォローはまずしないでしょう。

 日本の怪獣映画、特撮作品が、本当に“見立て”の精神で観るものならば、操演のワイヤーは丸見えでも構わないはず。
 ビルをセットで組む必要はなく、全て書割りでも良いでしょう。
 セットを組んだとしても、そこがスタジオ内に組まれたセットであることがちゃんと分るような絵作りを、ちゃんとすべき。「見立て」という言葉を使うからには、舞台と同様の前提条件を満たしていなければなりません。

 ゴジラの尻尾から、熱線用のガスホースが伸びていて、ゴジラの尻尾がセットに引っかからないように黒子が尻尾の世話をしている…。怪獣映画や特撮作品が、そんな映像を堂々と映したものばかりになったら、私は
「日本の怪獣映画、特撮作品は、“見立て”の精神で観るものだ」
と言うでしょう。

 そうでないのなら、怪獣映画を「見立て」で語るべからず。

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 写真撮影時40歳。
 いい歳して云々といった決まり文句は私には通用しない。たった一度の人生、他人に迷惑をかけない範囲で楽しみます。

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